仮死の伯爵令嬢と王宮チェス狂騒曲3
朝っぱらから王宮の廊下を歩けば、相変わらずチェス盤と対局にうつつを抜かす貴族や文官がうじゃうじゃ。いや、別に私が口出しする義務はないけど、さすがに見ていられない。なにせ、害虫被害の報告は山積み、王太子の病状チェックは待ったなし、隣国リウダとの交渉も雲行き怪しいのに、みんなチェスに没頭してるなんてどうかしてるでしょ。
「セシリアさま、お疲れでは? この膨大な書類の山……気が遠くなりそうですね」
文書管理官のヴィクトールが気遣わしげに声をかけてくる。ご丁寧にお茶まで用意してくれたらしい。ただでさえ余裕のない私としては、ありがたいといえばありがたい。
「すみません、手が空いたらチェスの指南はできませんが、害虫の被害報告まとめなら全力でお手伝いしますよ」
穏やかな彼の言い回しに、私は思わず無意識で頷いた。正直、指一本動かしたくないレベルで疲れてるけど、ヴィクトールが差し出す資料の束を見ると、「さっさと片付けちゃいましょうか」って気になってくる。
でも、のんびりしている場合じゃない。アレクシスが「チェス大会の優勝者に報告義務を担わせる」という妙案を出しているらしいけれど、それには下準備が必要だ。要するに試合結果が出た瞬間、害虫被害の深刻なデータを一気に突きつけ、会議に引きずり込む作戦。チェス狂いの貴族たちをちゃっかり利用するなんて、さすが策士宰相、なかなか悪辣で面白い。
その肝心のアレクシスはといえば、大量の書類を千切っては投げ千切っては投げの勢いで片付け中。隣の机を見たら、スクロール地図を広げながら深いため息をついている。
「宰相閣下、ポーンの捕り方より先に、外交問題の解決策を練っていただけると助かるんですけど?」
ちょっとキレ気味で皮肉を言えば、アレクシスは片目をつり上げて振り返った。
「やってるさ。ほら、見ろ。おれだってチェスばかりにかまけてるわけじゃない」
「……言うわりにチェス盤が机の片隅に置いてあるのは見えないことにしておきますね」
こういう掛け合いをしてるうちに、扉の外がざわついた。どんよりとした空気を連れて入ってきたのは、王の側妃イザベルと、その侍女マリアンヌ。相も変わらず艶やかで上品を気取るイザベルに対し、後ろから控えているマリアンヌが膝を曲げて誰かに囁いている。チラッとこちらを見やった視線が、どこか不敵に笑っているのが気になるところ。
「宰相さま、そろそろ隣国への正式なお返事はいかが? もたもたしていては、あちらをさらに図に乗らせてしまうのではなくて?」
イザベルの仄暗い微笑には、ちょっとした悪意を感じざるを得ない。「図に乗る」というか、実態は伯爵令嬢クラリッサの偽装死騒ぎでこっちが彼女の行方を探す始末、その間にリウダは何もしてこない──つまり、見るからに怪しい沈黙だ。だからこそ、アレクシスも対応を焦りたくないらしい。
「お言葉ですが、そもそも向こうも苛烈な措置を取りたくないはずですよ。……たとえばどこかに行方をくらました伯爵令嬢が偶然見つかったなら、交渉が一気に転がりそうな気もしますけどね?」
私が軽く突っ込むと、マリアンヌが「なるほど」と含み笑いを漏らす。こっちが知らない間に、すでに何か仕込んでる気配が漂ってくるのは私だけじゃないだろう。
そんな会話のかたわら、ヴィクトールが新たな報告書を手に駆け寄ってきた。どうやら各農地から害虫が急増しているという追加データが入ったらしく、その場の雰囲気が一瞬で凍り付く。
「この地図を見てください。三日前よりも赤い印が倍近く増えています。さすがに危険ですね」
彼の言葉に呼応するように、アレクシスの表情が険しくなる。イザベルですら、その濃厚な扇子の振り方を止めて書類に目をやった。
「数が……もはや虫じゃなくて密集した灰色の絨毯とかそんなレベルですね」と私が呟くと、マリアンヌが何故か嬉しそうに笑う。
「チェスに夢中で、嵐が近づいているのに傘を差し忘れてるようなものですね。どうするんです?」
「どうするも何も、これは対策が必須です。私が病院や調合所から薬剤や人員をかき集めますが、それでも間に合うか……」
二次被害、三次被害を想像するだけでゾッとする。とりあえず優先事項として、エドワード王太子の看病用に確保していた薬草や薬品を、一部害虫防除に回さなきゃならないかもしれない。実に腹立たしいが、現実は甘くない。これは私の本分というわけだ。
「セシリア、お前には王太子殿下の体調管理と農地対策、両方頼みたい。大丈夫か?」
アレクシスが珍しく真顔で問うから、私は苦笑するしかない。私だって人間なので忙殺は嫌だけど……誰もやらないなら仕方ないかもしれない。
「そうなるでしょうね。現状、私が動かなきゃ取りまとめられない部分は多いんだし。あーあ、チェス駒みたいに何でも自由に動けたらいいのに」
冗談交じりにこぼすと、イザベルが扇子を閉じながらつぶやいた。
「あなた、本当に不思議な方ね。あれこれ抱え込んで、当たり前の顔しているじゃない」
「ええと、顔料が足りなくて青ざめる余裕もないだけです」
そう答えれば、マリアンヌまでくすっと笑う。なんだか私の苦労が、みんなの暇つぶしになっているんじゃないか疑惑を禁じ得ない。けれど今はそんな疑いをもっている余力はない。害虫被害の規模拡大は、冗談抜きで国全体の危機につながる。
「じゃあ、書類はヴィクトールを先頭に回して集めてください。私は薬倉庫をざっと整理すると同時に、殿下の診察。アレクシスは……とりあえず仕事してください」
「お、おう。言われなくてもする」
宰相閣下が思わず言葉を詰まらせたのを横目に、私はとりあえず作戦を脳内で組み立てる。みんなの対応は遅いくせに、虫たちは待ってくれないのだから、やっぱり人より虫のほうが賢いんじゃないかとすら思えてくる。
――それでも、ジリジリ追い詰められるこの感じ、私にとっては背筋が伸びる緊張感だ。チェス熱で浮かれている連中の鼻っ柱をへし折るには、ひとまず今回の非常事態が一役買うかもしれない。暗躍していそうなマリアンヌやイザベルも、どうせならその社交力を活かして農民支援でもしてくれればいいのに、と皮肉を浮かべてしまう。
こうして、チェス騒ぎに左右されながらも粛々と始まった害虫対策。王宮のあちこちで私が指示を飛ばすたびに、「うわ、セシリアってやっぱ仕事できるじゃん……」みたいな声がちらほら上がるけど、私はそんな誉め言葉どころじゃない。
「じゃあ、そちらの報告書は午前中に片付けちゃってください! あ、そっちの薬品倉庫には私があとで行きます!」
自分でも、ちょっと目が血走ってる自覚はある。でも妥協してる暇なんてないし、どうせやるなら徹底的にやらなきゃ後悔するじゃない。今ならチェスより面白い勝負ができそうだ。農地を救うか、虫にかじられるか、図らずとも戦いは始まっている。
そして夕刻、ぎりぎりの状態で報告をまとめた私の手元へ、また新しい知らせが届いた。麦畑どころか薬草畑が食い荒らされる寸前だという、切迫した報せ。破廉恥なほど大穴が開いた地図を目にして、アレクシスと目が合った瞬間、彼もまるで腹をくくるように笑みを消す。
「これでようやく、祖国への愛とやらを語ってる連中もチェス盤を放り投げるかもしれないな」
「そうですね。投げないなら、こっちで盤ごと召し上げるしかないかも」
刺激的な大嵐の予感。チェス熱のせいで気が緩んでいた宮廷が、一気に現実に引き戻される瞬間がそう遠くないと感じる。マリアンヌの微笑、イザベルの冷笑、アレクシスの策謀――すべてが暴かれ、ひっくり返る寸前みたいだ。
好き勝手動き回る虫たちのように、王宮中の人間もそれぞれの欲望を散らしている。でも、最後に勝利を収めるのは誰なのか。そもそも被害を最小限に抑えられるのか。チェスの盤上では敵を華麗にキングチェックできたとしても、現実の厄介ごとはそんなに甘くない。
気がつけば夜気が肌にしみる時間。私は果てしない不安と、奇妙な高揚感を腹の底に抱えながら、新しく届けられた薬草の箱を開けた。もしこれで麦畑も守りきれないようなら……私、絶対に一生根に持つからね。もう誰が相手でも噛みついてやる気満々だ。
(さあ、チェスも陰謀も害虫も、まとめてかかってきなさい。ここからが本番ってことね)
準備は万端じゃないけど、立ち止まってる暇もない。明朝には王太子殿下の診察と、貴族たちへの緊急招集。そして噂のチェス大会まで迫ってる。どんな手が飛んでくるか、私自身も見せどころを逃すつもりはない。
ゴタゴタ続きの王宮だけど、今夜はまだ長くなりそうだ。頭の中で鳴っている「チェックメイト」の声を、じっとかき消しながら、私は薬箱を抱えて廊下を駆け出した。戦いは始まったばかり。どうせ地獄を見るなら、とことん魅せてやろうじゃない──そんな気分で。




