影を運ぶ雨の調べ2
雨音は相変わらず激しく、聞いているだけで頭を揺さぶられるような気分になる。わたしは宰相アレクシスの執務室を出るなり、やれやれと息をついた。廊下の窓から外を見れば、灰色の空が沈んだまま微動だにしない。しつこい長雨が、王都も宮廷も完璧に湿気漬けにしてしまったようだ。
それでも、王太子エドワード殿下から内々に呼び出しがあったので無視はできない。彼の部屋へ足を運ぶと、待ちかまえていたのはやはりあの心配そうな瞳だった。
「セシリア、よく来てくれたね。こんな雨の日が続くなんて、何か不吉なような気もして…」
あまりに深刻そうだから、思わず「気圧のせいですよ」と言いかけてしまう。けれど王太子の嘆きを軽んじるのは失礼なので、適度にうなずくにとどめた。
「殿下、わたしにできることならいくらでも。あの荷馬車に関してまだ何か新情報が?」
「いや、それが…底板にしかけがあると噂があるのに、証拠がなかなか見つからないんだ。古い管理官も、戻ってこないし」
どこか自省しながら俯く様子に、わたしはびりびりと胸が騒ぐ。王太子殿下を翻弄しているのは、明らかにこの雨空だけじゃない。
一方、廊下の向こうでは、イザベル殿下の侍女であるマリアンヌが笑顔で誰かと談笑している姿が見える。あの優雅な立ち振る舞いと白々しいほどの「微笑み」はふと目を引く。近づくと、こちらに気づいたマリアンヌが、にこりとほとんど人形のような笑みを向けてきた。
「きょうはずいぶんお忙しそうですね、セシリア様。王太子殿下や宰相閣下に頼りにされていて、さぞ誇らしいことでしょう」
「そんな大した事でも…」
「本当に? まさか貴女が、何もかも見通してるなんてことはありませんわよね?」
口調こそ丁寧だが、どこか棘が含まれている。わたしは軽く肩をすくめてやり過ごす。むしろ「あんたが何を隠してるのか教えてよ」と言いたいのを我慢しているのだ、察してほしい。
そこへ丁度、アレクシスが通りかかった。冷ややかな瞳をマリアンヌへ向け、淡々と告げる。
「夫人、奥の間でイザベル殿下がお待ちですよ。お戻りになったらいかがだ?」
「まぁ、それなら早く戻らなければ。恐れながら失礼します」
まるで追い払われたかのように、マリアンヌは颯爽と退散した。背を向けた一瞬、わたしに向けられた鋭い視線が妙に気になったけれど、追及する機会もない。
あとに残ったアレクシスとわたしは、細められた彼の目を見て一瞬沈黙する。雨の音だけが延々と続く中、彼はわずかに喉を鳴らして切り出す。
「どうやら敵も上手く立ち回っているようだな。けれど、すべてが隠し通せると思っているなら甘い」
「じゃあ、次はどう動くんです?」
彼が何か硬い決意を固めているのは一目瞭然だが、わたしにはあまりに情報が足りない。問い返すと、アレクシスは低く微笑んだ。
「まずは消えた管理官の周辺を洗う。そのうえで、あの荷馬車の底板を徹底調査する。見たものを口外するなと釘を刺してあるから、なおさら出せる手札は限られるが…」
「わたしも動きますよ。薬師しかるべき視点で何か見抜けるかもしれませんし」
「お前ならそう言うと思っていた。だがくれぐれも気をつけろ。アイツらはいずれお前も狙うだろうからな」
わたしがやや心臓をバクバクさせながら頷いていると、突如、廊下を駆けてきた侍女が息を切らして報告する。
「宰相閣下、側妃イザベル様が動かした馬車が一台あるそうで、行き先がはっきりとせず…!」
「また馬車か!」
いったい、馬車がどれほど暗躍しているのか。わたしのお腹が痛くなる前に、誰か事情をわかりやすくまとめてほしい。アレクシスの表情は険しくなるばかりだが、今さら後戻りはできないから困る。
その夜、わたしは再び王宮の裏口に足を運んだ。さっきまでなかったもう一台の馬車が、いつの間にか停められている。近づくと、前年の式典で見かけた紋章とはやや違う印が押されている。もしやこれがイザベル殿下絡みなのか…?
ひんやりとした雨粒が肩をすべり落ちる中、そっと扉に手をかける。かすかな軋みとともに覗きこんだ瞬間、妙に甘酸っぱい匂いが漂ってきた。腐った果実でも運んでいたのだろうか。鼻をつまみたくなりながら床を確かめると、やはり何か仕掛けがあるようだ。
「セシリア様、またでしたか」
背後から声をかけたのは文書管理官ヴィクトール。濡れたマントを払いながら、気の毒そうに微笑んでいる。
「どうも馬車に縁があるみたい。できれば縁切りしたいけど」
「逆に言えば、それほど重要なんですよ。消えた管理官もここから先の事情を知ってしまったのでしょうね」
まるで底なし沼のような泥濘のなか、わたしは履いたままの靴が悲鳴を上げるのを無視して、馬車の下へ身をかがめた。怪しい板を探ると、ほんの小さな隙間が視界に入る。
そこから土のにおいと、かすかな布の切れ端が覗いていた。まさか人を運んだのか? あるいは禁制品か? 不安と興奮がごちゃまぜになって胸の奥を駆け回っていく。
「管理官は、これを暴こうとして消されたのかな…」
つぶやいた瞬間、背中を冷たい風が通り抜けた。次の瞬間、遠くから聞こえる高笑いのような響きに思わず背筋がぞわりとする。まさかこんな雨の中で馬車がもう一台動いているのか。それとも誰かがこちらを観察しているのか。
心臓の鼓動が激しくなる。わたしは上に立ち上がり、泥だらけの裾を気にしながら視線を巡らせた。雨のせいで視界は限られる。けれど、この場で引き返すわけにはいかないのだ。敵の気配を探りつつ、わたしは自分自身に言い聞かせる。
「嫌だけど、ここが正念場。早く真相にたどり着かなきゃ」
その瞬間、ヴィクトールが軽く口元をゆがめてくすりと笑った。
「やはりセシリア様は頼りになりますね。僕の仕事が何倍も楽になりそうで嬉しいですよ」
「心から嬉しそうに言わないで。わたしの胃袋には悪影響だから」
それでも苦笑まじりに馬車の底板をもう一度確かめる。雨粒がさかんに滴り落ちる下、底の闇に触れた指先が妙に熱を帯びて感じられた。何かが隠されている。この密やかな空気がすべてを語っているようだ。
明日にはまた、新たな波風が立つに決まっている。それでも進まずにはいられない。王太子の不安気な表情、アレクシスの険しいまなざし、そして宮廷を覆うイザベルたちの暗い影——すべてを振りほどいて決着をつけるつもりで、わたしはかたく唇を結んだ。夜の帳と雨の囁きが、次なる幕開けを告げているように思えてならなかった。




