4 看病の狭間に揺れる亡霊の噂
意識を失ったままの幼子は、どこか魂を遠くに浮かべているようで、まぶたは開いているのに焦点が合わない。保育室のベッドで寝かせられた姿に、侍女たちは不安で落ち着かないらしい。私――セシリアは単に催眠薬を投与しているだけなんだけど、こうも静寂が続くと、まるで亡霊でも憑いているように感じるのだろう。
「様子はどう?」
ひそひそ声で尋ねてくるのは、宰相アレクシス。あまり近づかないでほしいのだけれど、彼はいつものように遠慮がない。見上げると、ひどく神妙な面持ちだ。まるで私が幼子を呪いの儀式にかけているとでも思っているんでしょうかね。
「とりあえず回復はしてます。少しだけね」
私がわざわざ添えてやると、「少し」という言葉に思い切り神経を尖らせるあたりが、相変わらず過保護な宰相様だ。まあ、真面目なのはいいことだけれど、子どもが相手だと普段の冷淡さはどこへ消えるのやら。
ベッドを囲む侍女たちが「少しでも命が助かってよかった」と胸をなで下ろす傍ら、私はその幼子の服に刺繍された不思議な紋様を見ていた。意識が戻らずとも、時には不意に声を漏らす。訴えかけるように小さく――どこか聞き覚えのある貴族の発音で。
(まさか、こんな高家の言葉を……)
あまり大っぴらにすると騒ぎになるだろうから、ここは胸に留めておく。アレクシスも同じ考えらしく、目線だけ交わし「口外無用」と言わんばかりに眉をひそめた。高貴な血筋、って本当ならとんでもなく面倒くさい。
もっと厄介なことに、亡霊の噂は日に日にエスカレートしている。侍女によれば宵の口に廊下を歩いていたら、先代の側妃とかいう女のうめき声が聞こえたとか。さらに大げさな人は、半透明のドレスが壁をすり抜けていったと主張している。思わず「あんたら、その妄想力を勉学に生かしたら?」と突っ込みたくなるほどの大騒ぎだ。
そんな空気を逆手に取るように、イザベル妃周辺の侍女マリアンヌがやたら動き回っていると聞く。子どもの病と亡霊の話を混ぜて、何かしら情報をねじ曲げているのかもしれない。今朝など、やけに得意げな笑みで私に挨拶してきたと思ったら、「亡霊が怖いなら閨で一緒に夜を過ごします?」などという軽口を叩くから、吐きそうになった。ほんと、下心は毒よりたちが悪い。
ヴィクトールが飛び込んできたのは、そんな保育室のざわつきが最高潮のときだった。手には大量の書類と地図、そして疲れ果てた表情。どうやら近隣の作物や家畜に異変が続いているらしい。急に疫病めいた症状が発生し、被害が広がっていると。
「予想もできない速度で荒れてます。しかも誰かが意図的に種を撒いたみたいな――陰謀臭を感じるんですよね」
彼の言葉に、侍女たちの頬が青ざめた。子どもたちへの毒盛り騒ぎだけでは足りず、周囲の農地にも手を伸ばす輩がいるのか。ああもう、本当に迷惑千万。この王宮の底意地の悪さには、毎度ながらうんざりする。
「とはいえ、私が一人で解決するのも無理なんですけどね」
つい零すと、近くにいた侍女が「でもセシリア様なら何とかするかと…」と素直な声を上げる。うーん、困った。私は単なる薬師で、政治の駆け引きなんてもう見て見ぬふりを決め込んでるのだが、なぜか期待だけは高まるばかり。
――そのとき、小さな手がかすかに動いた。震えるように指先を痙攣させているのは、さっきまで石像のように眠り込んでいた幼子じゃないか。私は慌てて駆け寄り、呼吸の具合を確かめる。瞳はまだぼんやりとしているが、こちらを見つめるようにゆっくり焦点が合った。まさか、記憶障害を負ったまま目覚めるのか。あるいは全てを思い出して苦しむのか。
ドキリとする一同を横目で見て、子どもは何かを訴えるように口を動かした。だが声にならない。乾いた唇を濡らし、その背中をさする。すると、ほんの微かな息遣いが「…か、遺…」と呟く。意味不明だけど、確かな意思を感じる。
「ねえ、何か覚えてるの?」
返事はない。でも一筋の涙が頬を伝うのを見て、私まで胸が痛くなる。厄介ごとだとわかってはいるけど、放っておけないのも事実だ。自覚はないけど、と侍女が言うように、私はどうやら“やり手”扱いされているらしい。このややこしい陰謀の渦も、気がつけば巻き込み事故のように私のところへ収束してくるわけで…。朝食のメニューを検討するより厄介だ。
アレクシスの視線が私をとらえる。いつもは気にしないが、今は特に鋭く突き刺さる気がする。心配か、それとも私を利用するつもりか。たぶん両方なんでしょうけど。
「とりあえず、指先が動き始めたなら、処置を継続しますよ。毒の後遺症は長引く可能性がありますけど」
博打のような治療を続けているのには正直疲れもあるけれど、ここで手を離せば何もかも取り返しがつかなくなりかねない。幼子が高貴な血筋であろうがなかろうが、私にとっては患者は患者だ。陰謀ごとを全部暴くのは、どうせアレクシスたちの仕事だし、私は有効な対策をひたすら用意しておくだけ。
しかし、亡霊の噂と農地の異変が重なり、宮廷全体が不気味なくらい張り詰めてくる。殺し文句より殺し毒を優先する連中のせいで、謎が次から次へと転がり込む。ちょっとは恋バナでもさせてくれれば、まだ気楽なのに――なんて思った私が馬鹿だった。恋なんかご遠慮願いたいのに、相手から妙な視線を受けることも増えていると噂に聞く。実に不本意だし、今は毒の方が重要。
「亡霊が怖いなら、いっそその幽霊に薬を盛ってやりたいですね。鎮魂でも鎮静でも何でも来い、って感じ」
ふっと洩らした皮肉に、侍女のひとりが「セシリア様なら実現しそう」とクスクス笑う。この緊張感の中でも笑われることには慣れている。でも、そんな茶化しを挟まずにはいられないくらい、みんな疲れているのだろう。
一瞬窓の外を見ると、夜の重苦しい空気の向こうに、まるで人影が蠢いたように見えた。亡霊の類なのか、ただの気のせいか。今この王宮は、陰謀に満ちた毒の霧で曇っている気がしてならない。
「さあ、倒れる前にしっかり寝なさいよ。私に看病されると、逆に体力を根こそぎ奪われるかもしれないし」
自嘲めいた言葉に、アレクシスは小さく苦笑した。彼の目もまた、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。黒幕を突き止め、陰謀を暴き出すまでは一歩も退けないのだろう。私も同じく退くつもりはない。
幼子のかすかな呼吸を確かめ、薬の分量を調整する。そこで終わり、というわけにはいかない。これから先、もっと大きな傷つきが待っているかもしれない。私も含めて、ここにいる全員が。
その子が薄暗い瞳でこちらを見つめるたび、奇妙な胸騒ぎが高まる。高貴な血筋、先代側妃の亡霊、広がる毒害と謎の疫病。どうやらこれは、まだ序章に過ぎないのだろう。
そう、ここからが本番。さあ、次はどんな陰謀の扉が開かれるのか。私が知りたいのはただ一つ――この毒まみれの皇宮劇を、誰が一番楽しんでいるのか。それを突き止めるまで、私は絶対に“薬師”を名乗り続けてみせる。毒だろうと亡霊だろうと、望むなら盛り尽くしてあげましょう。どんな修羅場が待ち受けていても、ね。