2 忍び寄る“呪い”の影
保育室の夜は、ますますカオスだった。子どもたちの熱は一向に下がらず、やけに怯えたスタッフが「先代側妃の亡霊が窓を叩く音を聞いた」とか「床下から這い上がる白い手を見た」とか、次々とアトラクションじみた話を量産している。おかげでその場にいるだけでも心がざわつくのに、なぜかセシリア・ローズウッド本人は「寝不足になるのが何よりツラい……」と目をこすっているだけ。怪奇現象を肝試しワクワクイベントくらいに考えているのかもしれない。
「セシリア様! またお子さまがうわ言のように“おばけが出る”と泣き叫んで……」
「運んでくれる? ちょっと診てみましょうか」
大慌ての侍女を横目に、セシリアはさほど動揺せず、布団に横たえられた小さな体に触れた。腕をまくる仕草もどこか手際がよく、しかも色気なんか微塵もない。周囲の侍女は「あんなに肌が綺麗で顔も美人なのに、あの余裕は何なの……」と目を丸くしている。
「お熱はあるわね。うーん、単純に風邪とも限らなさそう」
いつも通りさらっと呟くだけだが、これを聞いた侍女たちは「もしや難しい病魔かしら!」といっそうオロオロ。セシリアがあまりに冷静すぎて、逆に怖いらしい。だが患者である幼子は、彼女の声を聞くなり安心したようにまぶたを閉じた。アレクシスいわく、セシリアは自分の有能さに無自覚すぎるらしいが、この場ではむしろその無自覚さが救いになっている気もする。
夜半に病室を離れ、休む間もなく食堂や廊下へと足を運ぶセシリア。彼女をつかまえた文書管理官ヴィクトール・クロフォードが、こっそり台帳を差し出した。
「やはり、保育室に関わる名簿が一部改ざんされていました。いつ、どの品を入れたかの履歴が消えているんです」
「……ってことは、新しい薬か食品がこっそり仕込まれた可能性が高いですね」
ひそめた声には緊迫感が漂う。毒混入か、“呪い”の材料か。玄人めいた推察を口にしつつも、セシリアは面倒そうに口元を曲げる。怯えすぎる侍女や子どもたちの姿を思い起こすにつけ、“亡霊の大騒ぎ”がむしろ目くらましのために利用されている気がしてならない。
「亡霊が出たって、とにかく救急対応してたら誰も書類の確認なんかしないでしょう?」
「そういうことだ。ええ、まあ、実に質の悪い手口だね」
黙って話を聞いていた宰相アレクシスが、皮肉げに唇を歪めた。その冷徹な瞳は、まるで「俺の計算外の事態は許さない」と言わんばかりに光っている。宮廷の宰相として、子どもたちの集団発病や記録改ざんは由々しき事態だ。彼がセシリアを怪訝そうに観察するのは、彼女自身が“毒の専門家”に見えるからかもしれない。
「誰がそんなことを……てか、マリアンヌやイザベル妃あたりの影がありそう、って噂も飛び交ってますね」
「ま、特定はまだ早いけど、現状一番怪しい相手らなのは確かだ。子どもたちが倒れたら、王家の継承問題もゴタつくだろうし」
アレクシスはあくまで政局を軸に考えており、セシリアはあくまで病状を最優先で考えている。二人の視点は噛み合わないようで、奇妙な連携を取っているのが面白い。この互いを利用しつつも敬遠しあう距離感が、傍から見るとちょっと色っぽい……かもしれない。だが当のセシリアは「もう恋愛とか面倒くさい!」と心中で叫んでいるので、もはや会話の中にトキメキの余地は皆無だ。
その夜、保育室の裏口をこっそり出ようとしたセシリアが、何者かの視線を感じて立ち止まった。薄暗い月明かりの下、廊下の奥に人影が見える――が、ふと目を凝らした途端にスッと消える。
「……これが亡霊ってやつ?」
霊的現象なら拍手してやるが、人為的な悪寒が背筋を駆け抜ける。絶対にあとをつけられている。今夜は怪しい足音が一段と増しているらしく、宮廷の床でギシギシ響く音がやけに耳に残る。こんな時に限って、女官たちからは「悪霊が取り憑いてるんじゃ?」と大騒ぎされる始末だ。セシリア自身は「悪霊よりストーカーの方がよほど怖い」などと考えながら、懐に忍ばせてきた小瓶を握りしめた。
それは、かつて研修で見分を学んだ猛毒と鎮静薬を合わせた特殊な薬剤。人間を仕留めることも救うこともできる両刃の剣だ。彼女の知識をもってすれば、微量調合で相手を現行犯レベルで眠らせることもできる。危険な賭けだが、これくらいの備えがないと危なくて仕方ない。
翌朝、まぶたが重いままのセシリアを見て、侍女の一人がこっそり囁く。
「セシリア様、硬派すぎるところがまた怖いです……夜道で男に襲われても、逆に倒しそうで……」
「襲われたら、お返ししなきゃダメでしょう?」
まるで天気の話かのように言い放つセシリアの態度に、周囲は戦慄しつつも「なんかかっこいいんだけど!」とざわつく。本人に悪気はなく、本当に倒すか薬盛るかくらいの発想しかないのだ。恋愛どころか護身しか眼中にない。そこが中途半端にモテる理由を彼女は把握していないし、まして喜びも感じていない。
再び保育室から悲鳴が響く。急いで駆け込むと、今度は幼子の一人が激しい痙攣を起こし始めていた。侍女が泣き叫ぶなか、セシリアは迷わず薬袋を探り、間に合わせの解毒剤を子どもの唇に流し込む。
「……まだ足りない。もっと強い薬が必要かも……!」
だが手元の薬では効果が限定的だ。もし本格的な毒が子どもたちに投与されているなら、王宮の常備薬では追いつかない恐れがある。そんな時、セシリアの脳裏には危険な薬草――“アルラウネの花”の名がよぎった。医療の常識を超えた劇薬であり、同時に強力な解毒作用を持つ。使いこなせば毒症状を根こそぎ排除できるが、リスクが大きすぎて王宮でも使用は禁忌の扱いだ。
「でも……このまま手をこまねいて、目の前で子どもを苦しませるのも嫌」
彼女の小さな声にアレクシスが眉をひそめる。もしアルラウネを使用し、失敗すればセシリアの首が飛ぶかもしれない。だが、その一方で子どもたちを助けられる可能性があるならば、彼女はきっと躊躇なくその花を手にするのだろう。アレクシスは歯噛みするように唇を噛む。
「勝手な行動は危ないぞ。……まさか本当に取り寄せる気か?」
「ご忠告ありがとうございます、でも誰かがやらなきゃ子どもたちが救われませんから」
彼女の瞳は冷めているようでいて、その奥に確かな炎を宿している。亡霊がどうとか恋愛がどうとか、すべて二の次。とにもかくにも子どもを救うために動く――その一点のみが、セシリアの優先事項だった。
こうして王宮の深い闇で囁かれる“呪い”の正体は、どんどん人為的な陰謀の香りを強めていく。廊下には亡霊だ幽霊だと騒ぐ声が絶えないが、セシリアにとっては「真犯人を見つけたらまとめて薬盛るか、裸で飛び出してでもケリをつけるか」の二択くらいが関の山だ。
その一方で、イザベル妃とマリアンヌの影は妙に濃厚になりつつある。エドワード王太子に関する噂も飛び交い、宮廷全体がじわじわと炎上しそうな気配。まだ誰も断定はできないが、“命を狙う理由”はいくらでも思いつくのがこの世界の恐ろしさだ。
「人を陥れるための毒、ねえ……本当にくだらない。もしそんな形でしか目的を果たせないのなら、今に全部暴いてやりますよ」
最後にそう呟いたセシリアの横顔を目にした侍女は、「あれ、まさか今ちょっとドキッとした……?」と頬を染めたが、それは本人に絶対言えない。セシリアは妙なことに巻き込まれると全力で嫌がるタイプなのだ。
亡霊が出るにしても、病魔がうごめくにしても、どうせ毒でしょ? ――そんな突き放したセシリアの結論が、実は一番真相に近いという事実を、まだ多くの者が知らない。だが、もう手遅れかもしれない。彼女はアルラウネの花に手を伸ばそうとしている。もしその花を本当に使えば、王宮の闇を抉る血みどろの展開になるだろうと、誰も気づかないまま。
そう、退屈な医務室生活を想定していたセシリアは、今やめちゃくちゃ危険な現場の中心で逆光を浴びている。恋愛回避どころか、自分自身の運命すら回避できそうにない――そんな予感をはらんだまま、子どもたちの小さな寝息を確認する彼女は、ただひそかに闘志を燃やしていた。もしかしたら、これからが本番かもしれないのだから。