1 保育室に響く亡霊の噂
セシリア・ローズウッドは、ごくごく平凡な一日を想定していた。――もちろん、王宮薬師という役職についた時点で“平凡”なんて言葉がすでに幻想だという事実には、まるで気づいていないらしい。
今日から保育室への臨時派遣、と事務的に告げられた瞬間は、それなりに気が重かった。上層の意向には逆らえないし、子どもの世話は苦手ではないが、逆に懐かれすぎると面倒だ。純粋で無邪気な、あのキラキラした眼差しを受け止めるほど彼女はコミュ力が高くない。そんなわけで憂鬱な気持ちを抱えながら保育室の扉を開けると、想像通り大混乱が待ち構えていた。
「セシリア様! 大変です! お子様方が次々熱を出して……っ!」
半泣きで駆け寄ってきた女官の叫びに、セシリアはひとまず深呼吸。泣きたくなる気持ちはわからなくもないが、こちらまでパニックに巻き込まれるのは勘弁だ。
「落ち着いて。順番に話してもらえる?」
セシリアが優しく促すと、必死で肩を震わせる女官の横から、ひょいっと別の侍女が顔を出す。
「呪いです、呪い! 夜な夜な先代側妃の亡霊が廊下を歩き回ってるらしくって、それが原因で子どもに病気が広がってるってもっぱらの噂なんですよ!」
あまりに真顔で言うので、セシリアは途中から頭がクラクラしてきた。いきなりオカルトだとか霊だとか言われても、彼女の脳は現実的な思考で埋まっている。「亡霊」とか「呪い」って言葉をメモする気にもならない。――だが、怯える侍女たちに「嫌だ、そんなものあるわけない」と切り捨てるのは酷だろう。そう、ここは西洋風異世界の王宮であって、常識は一度ガラクタ箱に投げ込んでおかないとすぐに置いていかれる。
「とりあえず、子どもたちの症状を見せてください」
彼女が保育室の奥へ進むと、あちこちからクシャミや微熱の声。幼子たちはぐったりしているが、今のところ命にかかわるほどではなさそうだ。安堵しかけたとき、ガタガタと廊下で物音がした。ぞろぞろと入ってきたのは宰相アレクシス・フォン・エバーハルト。その冷徹そうな表情を崩さないまま、部屋をぐるりと見回す。どうも彼は、セシリアが保育室に配属されてからの挙動を逐一チェックしたいらしい。
「どうやら噂が騒がしいようだね。亡霊がどうとか」
「そちらは私があとで確認しておきます。現状、子どもたちの病状に集中したいので」
淡々と返事をして、セシリアは再び幼子たちのもとへ。アレクシスはそれを「ふーん」と眺めつつ、それなりに協力する姿勢を見せている。宰相とはいえ、王宮の秩序を乱す病や噂は放置できないのだろう。――もっとも、彼女にしてみれば「今さらお手伝いされてもどうリアクションをとればいいんだ」というところだ。ありがたいが、ちょっと怖い。笑顔になりそうな表情を決して見せないところがまた厄介だ。
しかし、子どもたちの方がもっと不安を抱えている。食が進まない、微熱が続く、泣き叫ぶ。どれもよくある風邪のように見えるが……セシリアの勘がささやく。「これ、ただの風邪じゃないんじゃない?」と。何せ、同じ時期に一斉に発症しているのだ。それも、王族や貴族出身の子が中心。偶然と言うには匂いが強すぎる。
「いけ好かないマリアンヌって侍女が保育室を訪れてたのを見たわよ!」
突然、別の侍女がヒソヒソ声で囁いてきた。話を聞けば、マリアンヌ・ルグランは側妃イザベルに仕える影の実力者だとか。表向きは優雅な侍女を装っているが、裏では毒殺の噂が絶えないらしい。……もう、皆さん毒と言えばすぐに怯えるのはやめてほしい。セシリアは少し溜息をついたが、まんざら無視できる話でもなさそうだった。子どもたちの食器や部屋で何か不審物が見つかれば、いよいよ黒い噂は現実になってしまう。
その日の夕刻、ようやくひと息ついたところでセシリアは長い廊下を歩いていた。恐怖に震えている女官たちは口々に「亡霊が出たらどうしましょう」と騒ぐ。が、当のセシリアは「本当に亡霊が歩くなら、むしろ解剖して正体知りたい」と本気で考えていた。
そんな彼女の背後から、ぬっとアレクシスが現れる。
「不審者を見なかったか?」
「見てませんね。夜に出るらしい亡霊の話なら、むしろ教えてください」
「……君、随分と冷静だな」
彼は眉を上げ、面白そうに口元をゆがめた。セシリア自身、医療や毒に関しては誰よりも熱中するが、亡霊や恋愛にはまるで興味が湧かない。そこを面白がっているのだろう。しかも、彼女が自分自身の有能さをまったく意識していないことも見抜いているらしい。随所でサラッと問いかけては、「本当は知っているのに隠してるのか?」と疑ってくるから、正直うっとうしい。
だが、王宮内での調査を円滑に進めるためには、宰相の助力を無下にできない。だからといって笑顔でおだてるのも癪だ。こうして、やや皮肉を交えながらの会話が続くことになる。
夜更け、セシリアは保育室の備品を点検していた。噂どおり、毒の痕跡が残っていないか気になったのだ。いくつかのスプーンに妙な変色が見られる気がしてならない。まさか、実際に少量の毒が紛れている……? うっすらと背筋が冷える。
そのとき、廊下の奥から「キャー!」という悲鳴が上がった。飛び込んできたのは若い侍女で、しきりに肩を震わせてこっちを指差している。
「廊下に、誰かいたんです! 顔が真っ白で……ひゃぁぁっ!」
再び悲鳴があがる。セシリアは本気で頭が痛い。どうしてこう騒ぎが絶えないのか。毒なら探索すればいい。亡霊ならいっそ成仏してほしい。まるで嫌がらせのように、連続して問題が起こる王宮生活なんて絶対に望んでいなかったのに。
「セシリア様、大丈夫でした?」
駆けつけてくれたのは文書管理官ヴィクトール・クロフォード。おっとりした見かけに反して鋭い視線を持ち、気づけばセシリアの調査にも協力してくれる。彼が持参した台帳には、不審な改竄の形跡が見つかっていた。保育室用品の記録が一部抜け落ちているのだ。
「子どもたちに使うものを勝手に書き換えるなんて、趣味が悪いですね」
セシリアは唇を曲げ、静かに息を吐く。誰かが意図的に“管理外の品”を子どもたちに与えているかもしれない。もしかすると、その中に妙な薬――あるいは毒が仕込まれていた可能性もある。亡霊騒ぎは隠蔽工作のための囮かもしれない、と推理するのは容易だ。
「やっぱりこれは呪いじゃないですよ。人為的なものが多すぎます」
呟いた瞬間、保育室の奥から聞こえてきたのは子どもの悲鳴。慌てて駆けつけると、小さなベッドで幼子の一人がけいれんを起こしていた。早い段階で対処しないと危険だ。セシリアはとっさに手もちの薬品を口に含ませる。
その様子を固唾を飲んで見つめる侍女たち。治療のためとはいえ、口移しのような形になると「大胆なことを!」と騒ぎ出されそうだが、今はそんな色気の誤解に構っていられない。幸いにも幼子の発作はおさまった。だが、完全な解決にはほど遠い。ほっとする間もなく、さらに重い症状が出てくる子が現れるかもしれないのだ。
「セシリア様……す、すごい。私、てっきりこの子が……」
侍女が瞳を潤ませる。セシリアはまるで自分の手柄とも思っていない風で、「これくらい当然です」とどこ吹く風。そんな彼女を、少し離れた場所でアレクシスがじっと見ていた。
何やら、焦るような怒るような、不思議な表情で。理詰めで動く宰相にとって、セシリアの無自覚すぎる才能こそ最大の謎かもしれない。
騒がしい保育室と廊下には、まだ霊の噂が渦巻いている。子どもたちの発熱や発作にも本当の原因が隠されているだろう。――ただし、セシリアはすでにその裏でほのかに揺れる“毒の匂い”を感じ取っていた。
亡霊? 呪い? そんなものは二の次だ。子どもを狙う陰謀を暴くほうが先決で、ちょっぴりしょうもないロマンスだの亡霊観察だのは、あくまでオマケにすぎない。出るなら出るで好きにしてくれ、というのが彼女の本音だった。
そう、セシリアのそんな白けた態度こそが、何よりも恐ろしい毒をひた隠しにしている宮廷の連中には、簡単に扱えない厄介な存在だったのだ。彼女はまだ気づいていないが、いつの間にか危険な舞台の中心へと足を踏み入れてしまっている。
子どもたちのひとりが、また弱々しい声をあげる。うわごとのように「おばけこわい……」と漏らす小さな手が、セシリアの袖をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫。怖くないからね」
まるで子どもをあやす母親のような柔らかい声に、保育室の不穏な空気がほんのり和らぐ。廊下の向こうで再び物音がしたとしても、今、彼女が見つめるのは怯える幼子だけ。これが本当の意味での“王国の希望”を繋ぐ行為なのだろうと、誰もが何となく確信していた。
次の瞬間、ひそひそ声で誰かが言う。「亡霊が出たんですって……うわさ、また広がりますよ」。セシリアはため息をこらえて、子どもを安心させるようにそっと布団を掛けた。
まだ夜は長い。騒ぎが収まる気配など全くなかった。それでも彼女の心は、ひどく静かだ。毒と亡霊が入り乱れる王宮で、さらに面倒な出来事が起こる――そんな予感を皮肉な笑いで抱えながら、セシリアは小さく肩を竦めたのだった。