この店は恋心を抜き取れるらしいですね。だったら、その逆はできませんか?
恋心物(?)に挑戦しました。
「噂によると、この店は恋心を抜き取れるらしいですね」
城下町にある小さな店に、ある夜、一人の客が訪れた。
「そうさ。ここは魔法屋。報われぬ恋に苦しむお嬢さんたちが、最後に駆け込む店さ。お代は一万リオン。それだけで、恋心をきれいに抜き取ってあげよう」
店主の老婆はそう言って、美しい宝石——抜き取った恋心の結晶を見せた。
「これがなくなると、今までそこに注がれていた情熱が、別のところに向くようになるんだ。うちに来た子たちはみんな、恋のことはきれいさっぱり忘れて、今は別のことに夢中になってるよ」
「なるほど……」
しばらく黙り込んでいた客は、
「だったら、その逆はできませんか?」
と、やおら口を開いた。
「恋心を植え付ければ、その他の執着は全て消え去る。違いますか?」
思いがけない台詞に、老婆は少し目を見張った後、にやりと笑った。
「面白いことを言うね。まずは話を聞かせてみなよ」
*
サフィラ・ルクソールは、どこまでも報われない令嬢だった。
伯爵家に生まれた彼女は、幼い頃はまっとうな生活を送っていた。しかし、実母が亡くなってから、彼女の人生は狂い始める。父は後妻を迎え入れ、彼女と、その間に生まれた弟妹ばかりを溺愛するようになっていった。父親のサフィラへの無関心は、屋敷の中にも伝播し、いつの間にか使用人たちまでもがサフィラを軽んじるようになっていった。
しかし、サフィラはめげなかった。
「努力して立派な人間になれば、きっとお父様も私を認めてくださるはずです」
いつしか、彼女はその気持ちに取りつかれ、鬼気迫る勢いで勉強に心血を注ぐようになっていた。彼女はやがて、父の仕事である領地経営実務を担うようになった。彼女は日々の大半をその仕事に費やした。その手腕が発揮された結果、ルクソール家の財政は年々潤っていった。だとしても、父親がサフィラの働きを評価することは一度もなかった。
さっさとサフィラを家から追い出してくれ。後妻がそうねだった結果、サフィラは成人後すぐ家を出されることになった。婚約者のないサフィラは働くほかない。とはいえ、貴族女性の就労先など限られている。よその家の家庭教師か、使用人か。家の中で仕事に明け暮れていたサフィラは、貴族の面々と繋がりがあるわけではない。彼女を雇い入れてくれる先は、どこにもなかった。
結局、サフィラは試験を受け、文官として登用されることになった。しかし、その位は最下級。その上に後ろ盾のない彼女は、足元を見られ、安月給で大量の仕事、さらには雑務まで押し付けられていた。彼女の扱いは、家で受けていたものと変わらない。いくら働いても、その労が報われることはない。感謝されない。ねぎらわれない。何かを与えられることなどもってのほか。それでも、サフィラは一生懸命に働き続けた。
「遅くなりました」
その日も、夜遅くに家に帰ったサフィラは、一息つく間もなく、大量の書類をテーブルに広げた。
「まだ仕事を続けられるのですか?」
そう言ったのは、サフィラのたった一人の従者である、キオン・ベネディクトだった。
ルクソール家家令の息子である彼は、サフィラの幼少期から側用人として仕えている人物だ。周囲の誰もがサフィラを見限る中、彼だけは変わらず彼女を主と仰ぎ続けた。サフィラが家を追われた際には、将来のルクソール家家令の地位を蹴って、サフィラについて家を出た。
「少しでも成果を出して、そして認めてもらわなければいけませんから」
書き物の手を止めないまま、サフィラは言う。
「……私には分かりません。お父上や、仕事仲間に認められることが、それほど大切なのですか? あなたを大切にしない人間たちに、なぜそこまで尽くすのです?」
「人々に認めてもらえなければ、私は立派な人間になることができません。あなたには昔から迷惑をかけてばかりです。そんなあなたへの贖罪のためにも、私は頑張らなければ」
またこの台詞だ。キオンは思う。どんな逆境の中であっても、立派な人間になると、そう言ってサフィラは無理を続けるのだった。それが彼女の強さで、美点であることも理解している。しかし、いよいよやつれていくサフィラに、キオンはもう耐えられなくなっていた。
「立派な人間など何の意味があると言うのです? 私はただ、あなたに幸せでいてほしいのです。あなたが苦しんでいるなら、いくら立派な人間であったところで、私はまったく嬉しいとは思えません」
ただ必死で言っていたはずが、気付けば怒ったような言い方になってしまった。
「そう……ですか」
ショックを受けた表情のサフィラを見て、キオンははっとする。自分は、彼女の今までの努力を否定してしまったのだ。
「すみません。少し頭を冷やしてきます」
キオンは逃げるように家を出た。
どうすれば、立派な人間になって周囲に認められたいという、彼女の執着を消せるのだろう。どうすれば、彼女は報われるのだろう。自分は彼女を救えないまま、消耗していく彼女を眺めるしかできないのだろうか。
サフィラを救う方法を模索しながら、キオンは夜の街をあてもなく歩き続けた。
*
「それで、この店の噂を思い出したのです。恋に執心し、他のことにまるで関心がなかった令嬢たちが、ここで恋心を抜き取っていった、と。もしもその恋心をサフィラ様に植え付けたら、彼女は恋以外のことは考えられなくなるはずです。そうすれば、報われない努力も、もうやめてくださる。彼女を救うには、もうそれしかありません」
客——キオン・ベネディクトは言った。
「無理を言っていることは承知の上です。ですが、どうか恋心を譲ってくれませんか?」
キオンは深々と頭を下げる。
「恋心を譲る。それ自体は簡単さ。だとしても、恋ってのは、一番報われづらいものなんだよ? だから、みんな売り払いたいと思うのさ。今までの執着がなくなったとして、報われない恋に苦しむことになるなら、元も子もないんじゃないかい?」
「必ず報われる方法が、一つあるではありませんか」
しかし、キオンは真っ直ぐな瞳でそう言った。
「彼女を既に愛している者に、彼女が恋をすればいい」
ふーん、なるほどねえ。心の中でそう呟いて、老婆はにやりと笑った。
「まあ、せいぜいやってみなよ。これを埋め込んだ人間を、ご主人は好きになるからさ」
恋心を受け取ると、キオンは帰っていった。さて、どうなることか。老婆は天井を仰いだ。
*
家に戻った時、サフィラは既に眠っていた。キオンが胸に結晶を埋め込もうとするが、途端に結晶は霧散して消えてしまった。これで成功なのだろうか。何の変化もなく寝息をたてるサフィラを見ながら、キオンは訝る。
自分はあの老婆に騙されたのではなかろうか。やはり魔法などあてにするものではなかった。キオンは自嘲の笑いをため息と共に押し出した。その後、一気に疲れが押し寄せ、彼は泥のように眠り込んだ。
次の日、キオンは見事に寝坊した。しまった。この時間では、もうサフィラは仕事に出てしまっているはずだ。
しかし、
「おはようございます。朝食ができていますよ」
と、そこにはサフィラが立っていたのだ。
「仕事はどうされたのですか……?」
「ああ、しばらく休むことにしたのです」
サフィラはあっさりと言い放った。今まで、評価がさらに下がると言って、一度も休みを取ったことはなかったのに。
「味はどうですか? 久しぶりだったので、あまり自信がないのですが」
おずおずと朝食を口に運ぶキオンに、サフィラが尋ねる。
「いえ……とても美味しく、そして懐かしい味です」
キオンは笑ったが、なぜか涙までこみ上げそうになってしまう。
サフィラがまだ、立派な人間になるという執着に取りつかれる前のこと。食事を抜かれる度、サフィラはキオンと一緒にこっそり調理場に忍び込んだものだった。そこで有り合わせを作り、汚い納屋に隠れ、二人で頬張る。その時間が、キオンは途方もなく好きだった。
あの頃は良かった。冷遇されても、誰にも認められなくても、まるで気にならなかった。何喰わぬ顔をして、二人で楽しく過ごしていた。サフィラが隣で笑っていれば、キオンはそれで良かったのだ。
しかし、いつしかサフィラは、仕事に明け暮れるようになってしまった。交わす言葉はどんどん減り、笑顔も滅多に見せなくなっていた。
「キオンがそんな風に笑うのを久しぶりに見ました」
と、サフィラは言う。
「……それは私の台詞です」
と、キオンは返した。
「これからは、ずっとそうやって笑っていてください。そのためなら、私は何でもしますから」
「嬉しい」
サフィラは無邪気な笑みを浮かべる。
「私、やりたいことがたくさんあるのです。一緒に買い物をしたり、森に遊びに行ったり、色々しましょうね。昔みたいに二人で」
休みを取った十日間、サフィラは仕事のことを一言も口にしなかった。どうやら魔法は本物だったらしい。キオンはそう確信した。サフィラがずっと側にいて、そして笑顔を向けてくれる。その幸福に、キオンはすっかり浮かれていた。十数年ぶりに訪れた、心底幸せな日々だった。
しかし、微笑みを向けられる度、幸福の中に、一抹の罪悪感がこみ上げる。サフィラのこの感情は偽物なのだ。無理やり埋め込まれた恋心なのだ。自分の行動は、本当にサフィラのためだったのだろうか。彼女を救うことを名目に、自分はただ、サフィラの関心を自分に向けさせたかっただけなのではないか。
罪悪感に苛まれつつ、キオンは目の前の幸福に目を向けることで、それを誤魔化した。
そして、ついに休みも最終日になった。
「ねえ、キオン」
「なんでしょう、サフィラ様」
「私はこのまま文官を辞し、ルクソール家からも籍を抜こうと、そう考えているのです。そうしたら、私はもう貴族でなくなり、あなたの主人でもなくなります。ごめんなさい。私は立派な人間にも、あなたの立派な主人にもなれなかったみたいです」
そう言いながらも、サフィラの表情はさわやかだった。
「それでも……これからも側にいてくれませんか? あなたのことが好きなのです」
サフィラは頬を紅潮させ、じっとキオンを見つめてきた。
十八年間、ずっと聞きたいと願い続けた言葉。それがサフィラの口から飛び出した。キオンは拳を握りしめる。自分も愛している。そう言えばいい。そうすれば、全てが解決する。サフィラの恋は成就し、ようやく彼女は報われる——
「……申し訳ありません」
しかし、口から飛び出したのは甘い愛の言葉でなく、かすれた謝罪の言葉だった。
「そう言っていただく資格は、私にはありません。私はずっとサフィラ様をだましているのですから」
*
「おや、また来たのかい?」
店を訪れた二人——キオンとサフィラに、店主の老婆は言った。
「実は、魔法を解いてほしいのです」
入ってすぐ、キオンはそう口を開く。
「魔法を解いて、サフィラ様を元に戻してください。偽物の感情が報われたところで、そこには何の意味もない。私のやったことは、何よりサフィラ様の心を踏みにじることだと、そう気付いたのです」
彼は深くうなだれた。
「それはできないね」
「どうしてです……⁉」
「どうもこうも、こういうことさ」
老婆の手の中には、あの日サフィラに埋め込んだはずの恋心の結晶があった。
「実は、あの日、魔法は失敗したんだよ。恋心ははじかれて、ここに戻ってきたってわけさ」
「では、魔法はきいていなかったのですか?」
「そうなるね」
「しかし、サフィラ様は変わられました。魔法でないのなら、いったいなぜなのです?」
その時、
「私は何も変わっていません」
と、サフィラが口を開いた。
「お父様に見放された時、本当は、私は全然気にしていなかったのです。だって、キオンが変わらず側にいてくれたのですから。でもある日、キオンがかわいそうだと、メイドたちが話しているのを聞いたのです。私というだめな人間を主人に持ったせいで、あなたは人生を棒に振ってしまっている、と。
だから、私は誰もが認める立派な人間になって、あなたを幸せにしなければと、そう思いました。あなたに恥ずかしい思いをさせない、むしろあなたが誇れるような、そんな立派な主人にならなければ、と。今までがむしゃらに努力を続けたのは、そのためです。
でも、あの日、自分が間違っていたことに気付いたのです。あなたを喜ばせるために頑張っていたのに、いつの間にか悲しませてしまっていた。あなたはずっと、立派な主人である私でなく、そのままの私の側にいてくれたのに。
今ならはっきり言えます。私が大切なのは、昔も今も、あなただけなのです。そして、あなたが好いてくれるのなら、他には何もいりません」
「恋に落とす魔法がはじかれた理由。そんなのは簡単さ。この子はもう恋に落ちてたんだ。とっくの昔にね」
老婆が指を鳴らした途端、サフィラの胸が光を放った。そこには美しい宝石が光り輝いている。それは、魔法屋が取扱う恋心——そのものだった。
「な……」
途端、キオンは耳まで真っ赤になった。
「私の気持ちが本当であると、これで分かってくれましたか?」
サフィラの言葉に、
「……今度こそ、そのお気持ちにしっかり報います」
と、キオンは深く頭を下げ、肩を震わせた。
そして、二人は店を後にした。
本当に変な依頼だった。まあ、たまにはこういうのも悪くないか。一仕事終えた老婆は、大きく伸びをした。
*
その後、サフィラは官を辞し、また実家からも籍を抜き、晴れて平民となった。彼女を引き留める者はいなかった。誰もが彼女を負け犬と嘲笑った。だが、それを知ったところで、サフィラはもう何も思わなかった。
しかし、すぐにサフィラを見限った人々の顔は歪むことになる。彼女が抜けた後の職場は、その押し付けていた仕事の多さに愕然とした。実家のルクソール家もまた、領地経営の不振に悩まされていた。
彼らはサフィラを呼び戻し、再び自分たちのために働かせようと考えた。今度こそその労に報いると、そう言って。だが、それはかなわなかった。誰もサフィラの行方を知らなかったのだ。
その頃、城下町の一角で小さなレストランが開業した。新婚の若夫婦が営むその店は、素朴な味と気取らない雰囲気が人気で、連日賑わっていた。そんな店に、一人の老婆が常連として足しげく通っていた。どうやら彼女は夫婦の恩人らしい。老婆が訪れる度、夫婦は彼女のために特等席を用意するのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。まだまだ勉強中ですので、アドバイスなどいただけると嬉しいです。
追記を失礼します。12月11日に「真実の愛を見つけられた婚約者様を、全力で推しておりますの!」という推し活物を投稿しました。まだあまり読んでいただけていない状況なので、よろしければ、そちらもお読みいただけると幸いです。