【第5話】 二択の選択肢は意外と外れる
空っぽの靴箱を見て、足の力が抜けそうになる。
靴を隠されるのは、これまでに何回もあった。
それでも、入学式の日にまでこんなことをされるとは、思ってもいなかった。
完全に油断していた。
今日くらいは大丈夫、と勝手に思い込んでいた。
「あれ? どうしたの?」
「な、なんでもないです」
桃里さんに声を掛けられ、咄嗟に靴箱を閉める。
靴箱を開けたまま動かない私を不審に思ったようだ。
ど、どうしよう。
桃里さんには知られたくない。
靴を隠されているなんて知られたら、私がいじめられていることがバレてしまう。
……それは、嫌だ。
「えっと、私、学校でやらなきゃいけないことがあるのを思い出しちゃったので、桃里さんは先に帰っててくれませんか」
「え? 全然待ってるから大丈夫だよ?」
えっ、待っててくれるの? 桃里さん、なんて優しい人なんだ……。
いやいやそうじゃなくて。
そんなことになったら、私が靴を探しているところを見られて、芋づる式にいじめのことがバレてしまう。
なんとしても帰ってもらわないと。
「それが、いつ終わるのか分からなくて……待たせるのも悪いですし」
「ええ、そんなに大変なことなの? なら私も手伝うよ!」
えっ、手伝ってくれるの? 桃里さんやっぱり凄く優しい……。
いやいやそうじゃなくて。
桃里さんが優し過ぎていけない。このままどこまでも、食い下がって来そうだ。
コミュニケーション能力が乏しい私に、誤魔化しきれる気がしない。
それでも、どうにかしてこの状況を打破するしかない。
「私は何をすればいいかな?」
「いや、えっと、これは他の人に任せられるようなことじゃなくて……」
「委員会の仕事かな? そういえば恵梨香ちゃんは図書委員になってたよね。初日からもう仕事あるんだね。さっき案内してくれた図書室は入れなかったし、もし図書委員で図書室に入るなら私も入ってみたいな! この学校にどんな本が置いてあるのか確認してみたかったの! だから私も一緒に行っていいかな!」
桃里さんの巧みなマシンガントークに気圧され、何も言い返すことができなくなってしまった。
キラキラと輝く目をした桃里さんに、じりじりと壁際に詰め寄られる。
距離が近くて、目を逸らすに逸らせない。
だ、ダメだ。このままだと飲み込まれる――!
「えっと! そういう訳なので、ほんとに、大丈夫なので……さようならー!」
ごめんなさい桃里さんごめんなさいごめんなさいいいい!
心の中で謝罪しながら、桃里さんを置き去りにして走り抜ける。
途中で急に走り出した私に、きっと桃里さんは困惑するだろう。
呆れるかもしれない。
だって、しょうがないじゃないか。
あのまま話していたら丸め込まれて、いじめられていることとかを話してしまいそうだったから。
ビューンと効果音が付きそうになりながら、私は走る。
行き先は決めていないけど、とにかく桃里さんから距離を取らなければ。
逃げ出したことの罪悪感はある。
でも、これしか手段は残っていなかったんだ。
***
高等部校舎一階の一角で、私は壁に背中を預けるようにして立っていた。
「はぁ……はぁ……」
久しぶりに全力疾走なんてしたから、息切れがなかなか収まらない。
ゆっくりと深呼吸を続け、時間をかけて息を整えていく。
「はぁ……ふぅ……」
……結局、逃げてしまった。
今頃は私に呆れて、一人で帰っているかな。
悪いことをしてしまった。
急にどっか行ったから、嫌な奴と思われているかもしれない。
明日の昼食の予定も、おじゃんになってしまったかもしれない。
今になって、逃げたことへの後悔が押し寄せて来た。
「…………」
息切れで呼吸を整えた時より、長く目を瞑り、ざわついた心を落ち着かせる。
「…………」
段々と、心の中の荒波が静まり始める。
もう一度、深く息を吸って、ゆっくり吐く。
……うん。大丈夫。
落ち着いたおかげで、思考がクリアになった気がする。
後悔しても遅い。
もし桃里さんに嫌われちゃっていたら、なーちゃんに泣きつこう。
とりあえず今は、やらなきゃいけないことをやらなくちゃ。
もたれかかった壁から体を剝がし、下を向いていた顔を持ち上げる。
「よし。じゃあそろそろ靴を探し始めないと――」
「へー、靴探しがやらなきゃいけないことなの?」
「くぁwせdrftgyふじこlp!!?!??!」
突然耳元で響いた声に、天地がひっくり返ったと錯覚して飛び上がり、絶叫する。
「だ、だだだ誰ですか!?」
目と心臓が飛び出るところだった。
いや、実際に一瞬飛び出ていたかもしれない。
強く脈打つ心臓を抑えながら声がした方を見ると、そこには私が置いて行ったはずの人がいた。
「あはっ、そんなに驚くとは思わなくって。ごめんね、恵梨香ちゃん」
そう言って桃里さんは、小さく両手を合わせて謝った。
驚いたせいで、まだ心臓がバクバク言っている。
まったく、いつの間にここにいたんだ。足音一つしなかったのに。
「桃里さん……ど、どうやってここに……?」
「ん? 普通に恵梨香ちゃんを追いかけて来ただけだよ?」
桃里さんはそれがさも当然かのように振る舞う。
そうは言っても、私は全力で走ったし、桃里さんは靴を履き替える時間とかで、追って来られないと思ったんだけど。
「私、運動神経には自信があるんだ!」
勝手に置いて行ったのに、私に呆れるどころか笑顔で話しかけてくる。
「それで、靴を探すってどういうこと?」
頭がよく回らない私に、桃里さんは聞いて欲しくないことを、遠慮なく聞いてくる。
「え、あーいやー、聞き間違いじゃないですかね……あはは……」
「ここに来る前に恵梨香ちゃんの靴箱見させてもらったけど、靴が入ってなかったよ。どうして?」
「あっ、いやそれは、えーっと、今日靴を履いてくるの忘れちゃってて。あは、あはは」
桃里さんの追求は止まらない。
冗談っぽく言ってみても、桃里さんの深刻そうな目は私から離れない。
もしかしたら、桃里さんの中ではもう答えが出ているのかもしれない。
実は私がいじめられている、って。
「…………」
私達二人の間に、沈黙が流れた。私は目を逸らすのに対し、桃里さんはじっと私のことを見つめている。
……私は今、迷っている。
桃里さんに、私がいじめられていることを、話すべきかどうか。
きっと今私が言わなくても、あと何日かクラスで過ごせば察せられるだろうし、あるいは他のクラスメイトの口から伝えられることだろう。
だからここで教えても教えなくても、大差は無い。
だけど、今、私自ら話したら、桃里さんは私の味方になってくれる。
多分だけど、桃里さんの目を見て勝手にそう思った。
でもそれは、良くないことだ。桃里さんは、私の味方になるべきではない。
そんな行為にメリットは無いし、むしろデメリットだらけだ。第二のいじめの標的になってしまうかもしれない。
それだけは。そんなことだけは、あってはならない。
絶対に避けなくちゃいけない。
桃里さんにまでいじめの被害が及んでしまったら、私はどうやっても償えない。
後悔に溺れるだけになるのが、目に見える。
だから、私はここで話すべきではない。
私が押し黙ったままでいると、桃里さんは唐突に口を開いた。
「恵梨香ちゃんがどうしても言いたくないのなら、もう聞くのやめるよ。でも……」
視線がぶつかる。
「恵梨香ちゃんはさ、困ってるんでしょ?」
「…………」
「靴が無くなったことよりも、もっと困ってることが、あるでしょ?」
「…………」
……言うべきではないとは、分かっている。
私の口から、そんな台詞を言っちゃダメだってことくらいは、分かっている。
言ってしまったら、桃里さんもいじめの標的になってしまうかもしれない。
こんな身勝手なエゴで、巻き込むべきではない。
――でも。それでも。
私はずっと、ずっと前から、この瞬間を待っていたような気がする。
真っ暗な闇の底から解放される瞬間を。助けてくれる救世主が現れる瞬間を。
「私なら、きっと恵梨香ちゃんの力になれる。そこから救い出せる」
それを言っちゃダメだって、分かっているのに。
「だから、私を信じて。私を頼って、いいんだよ」
桃里さんの言葉が、私の胸を叩きつける。
その振動によって、心がゆらゆらと揺れている。
……この数年間、苦しみ続けてきた。
家族にも、なーちゃんにも助けてもらった。私にも味方がいるんだって、心の支えになってくれた。
けれど。
痛みは癒えても、傷は治ってくれなかった。
古傷の上から新しい傷が生まれるだけだった。
そうじゃない。
そうじゃなくて。
私はずっと、救い出されたかったんだ。
いじめの苦しみから解放されるのを、願い続けていたんだ。
救いの手が差し伸べられるのを、ずっと。
待ち続けていたから――。
「…………私を……助けて、ください」
自然と出た声は掠れていた。
そしてそれと同時に、桃里さんが私の手を強引に掴む。
「うんっ! 任せて!」
握られた手は、暖かかった。
***
「ちょっと長くなりそうだから」
そう言って桃里さんは話を中断し、私達は近くの教室まで移動した。
誰もおらず閑散としている教室は、不思議と落ち着く。
先程までは心に余裕がなく、気持ちが焦っていた。
でも、今ではもう随分と心は穏やかになってきた。
二人分の席をくっつけて、桃里さんと向かい合わせになって座る。
お互いの顔がよく見えるから恥ずかしいけど、気持ちに余裕ができた今はそれすらも享受できる。
「「…………」」
席に座ってから、お互い沈黙が続いている。
桃里さんが、私が話し出すのを待ってくれているからだ。
私の気持ちが落ち着いて、自分から話し出せるようになるまで。
もう心は十分に落ち着いた。だから後は、私が話し出すだけだ。
覚悟は決まった。
言おう。今のうちに言ってしまおう。
いじめられていたことを、桃里さんに。
「あの……実は、ですね……」
声が詰まる。言葉が上手く出て行かない。
言う準備はできているつもりだったけど、どうやらまだ少し怖いみたいだ。
「…………」
ふと、前を向いた。
そこには桃里さんの顔があった。
その顔は、とても穏やかな表情をしていた。
まるで母が子供の成長を見守る時のような顔だった。
その瞬間、分かってしまった。
目の前にいる人は、私を絶対に笑わない。
いじめられていることを知ったからって、態度を変えないし、見下さない。
いじめられる方にも原因がある、なんて言わない。
それに気付けた時、喉の奥につっかえていた物がようやく取れた。
「その……私……いじめ、られてるんです……」
言えた。やっと言えた。
震えて、弱くか細い声だったが、確かにちゃんと桃里さんの耳に届くように言えた。
――しかし。
ある種の達成感を覚えた私に返って来た言葉は、信じられない言葉だった。
「あ、うん。それは知ってる」
……え?
「いじめっ子は馬酔木さんでしょ?」
ええ!?
知ってたの!?
というかそこまで分かってたんだ!?
「ど、どうしてそれを……」
「丸わかりだったよ。私が知りたいのは、その先。今どういう状況なのか。何をされているのか。それが分かれば、解決の糸口が掴めるかもしれないでしょ?」
「あ……はい」
何だか拍子抜けというか、肩透かしを食らったような気分だ。今まで一体何に怯えていたのか分からなくなってしまった。
そう思ったら、自然に言葉がすらすらと出て来た。
桃里さんに、今までの全てを教えた。
中等部での三年間いじめられてきたこと。よく物を隠されたり、嫌がらせを受けたりしていること。よくグループワークなどからハブられて一人になること。主犯は馬酔木さんだけど、なぜ私を狙うのか皆目見当もつかないこと。高等部に進学しても、いじめは続いていること。
「よく今まで頑張って我慢してきたね」
これらを話し終わった後、桃里さんは優しい言葉をかけてくれた。
「それは、なーちゃんがいたので」
「なーちゃん……雪下ちゃんか」
「はい。多分、なーちゃんがいなかったら、とっくにこの学校を辞めていたと思います」
「雪下ちゃんにも感謝しなくちゃね。一人で恵梨香ちゃんを支えてきたんだから」
「なーちゃんには一生かけても返しきれない恩があるので、できる範囲で少しずつ返していきたいです」
「雪下ちゃんは迷惑だなんて思ってないと思うけどね」
そう言えば、今のところなーちゃんと桃里さんの二人は面識がほとんど無い。
けど私の数少ない友達だから、これからは三人で仲良くやっていきたい。
今後の第一目標は、二人が仲良くなるところから始めようと思う。
私が何もしなくても、この二人ならすごく仲良くなるかもしれないけど。
むしろその可能性の方が高い。
……それで私が除け者になっちゃったら嫌だなあ。
「物を隠されるのは、結構な回数されてきたの?」
考え事をしていると、桃里さんが質問してきた。
「えっと、まあ……はい。たまに、よく」
今まで物を隠された回数を数えてきた訳じゃないけど、多分30回は隠されたと思う。
靴以外にも、ブレザーや筆記用具を隠されたりもした。
「やっぱりそうなんだ。許せないね、そんなくだらないことする奴」
「何で、こんなことをするんでしょうか」
「わかんない。人をいじめるような奴らの気持ちなんて、理解できるはずがないよ」
桃里さんのその言葉は、低く、どこか怒気を含んでいた。
表情も先程までの穏やかなものではない。
しかし次の瞬間、桃里さんは一瞬で明るい顔と声に戻し、元気よく立ち上がる。
「よし、とりあえず事情はわかったし、私も靴を一緒に探すよ! さあ恵梨香ちゃんも立って! 早く探しに行くよ!」
「あ、えっ、は、はいっ」
桃里さんが立ち上がり、私に手を差し出す。
私は何も考えずにその手を掴んだ。
すると上に引っ張られ、体が椅子から離れる。
勢いよく立ち上がったせいで椅子が倒れてしまったが、私は椅子を直すことも、机の向きを直す間もなく教室の外に引っ張り出された。
「ちょっ、待ってくだっ! あぶなっ!」
「あはっ!」
正直、桃里さんにいじめられていることを話して良かったのかは分からない。
これで桃里さんがいじめの標的になってしまったら、目も当てられない。
それでも。
これからどうなるか分からない、今のうちは。
この手を握った選択が、正解だと思うことにしよう。
幸せな未来が待っていると信じて。