【第30話】あの顔が頭から離れてくれない
日曜日の午後2時過ぎ。
私はリビングで、蕾ヶ丘学園の対策テキストを解いていた。
テーブルを挟んだ席では、お母さんがノートパソコンのキーボードをカタカタとリズム良く叩いている。
「……」
対策テキストの問題は程よく難しく、絶対に解けないってことはないが、解法のヒントがないと少し難儀する、といった具合。
絶妙なバランスの問題を淡々と解いていると、あっという間に時は過ぎていく。
そんな時。
突然、ピンポーンとインターホンの音がリビングに響いた。
「誰だろ……」
お母さんがそう呟いた。
確かに誰だろうか。
宅配にしては少しおかしい所がある。
このマンションのインターホンは2種類あり、マンション入り口のエントランスからマンション内に入るためのインターホンの音と、玄関の前に設置してあるインターホンの音がある。
その2つのインターホンは異なる鳴り方をする。
今のは、玄関のインターホンの音だ。
他の人が出入りする時にエントランスの入り口を通り抜けることができるけど、少なくとも宅配のような業者はそのようなことはしないだろう。
なんだろう、と思いつつ席を立とうとした。
するとそれより前にお母さんが先に立ち上がる。
「吹乃は勉強しときなさい」
そう言うと、お母さんは少し警戒したような表情をしながらインターホンをスピーカーにした。
「どちら様ですか?」
『あ、私、遠藤サヤの母の遠藤マイです』
謎の人物の正体はサヤちゃんのお母さんだった。
その言葉を聞いた瞬間、お母さんの顔色が変わるのが見えた。
「それはそれは、うちの吹乃がいつもお世話になっております」
『はい。その件についてなんですが、サヤが吹乃ちゃんが心配でお見舞いに行きたいと言っていまして。突然で申し訳ないのですが家まで来させてもらいました。吹乃ちゃんはいますか?』
サヤちゃんがお見舞いに来たいって言ってたってことは、今玄関の外にサヤちゃんがいるってことなのかな。
会いに行っちゃダメかな。
……というか、きっと2人は私の顔の怪我が心配で家まで来てくれたのだろう。
サヤちゃんのお母さんは、この傷は殴られてできたものだと確信していたし、お母さんに殴られたとも予想していた。
だから多分、今週学校を休み続けた私が気がかりで、お母さんがいるこの日曜日に家まで来たのかもしれない。
そんなことを考えている間も、母2人のインターホン越しの会話は続いていた。
「すみません、あいにく今吹乃は外出しておりまして。また後日お越しください」
『外出って、どこに行ってるんですか?』
「プライバシーに関わることですので」
『本当はそこにいるんじゃないですか?』
その言葉に心臓が跳ねる。
ここに私はいる。
サヤちゃんのお母さんの声も聞こえている。
今私が声を上げれば、サヤちゃん達に存在を明かすことができる。
でもそれをすることは、きっと許されない。
今お母さんが私の存在を隠しているように、虐待がバレたらマズイ状況になる。
それにお母さんを裏切ってしまったら、もう修復不可能な領域にまで溝が生まれてしまうかもしれない。
そう考えると同時に、先日の暴力もフラッシュバックする。
「…………」
だから私は、ここで声を出さないという選択肢しか取ることができない。
『ふーちゃん! いるの!? 大丈夫なのー!?』
インターホンの中からと共に、玄関の向こう側からも直接サヤちゃんの呼びかける声が聞こえてくる。
その声を聞いて、無意識に体が椅子から浮きかけた。
『吹乃ちゃん? 聞いてる? サヤが会いたいって!』
その呼び掛けを聞き、お母さんは軽く舌打ちする。
そしてそのまま口を開いた。
「家の前で騒がないでくれる! 警察呼ぶわよ!」
突然声を荒らげたお母さんに驚いていると、予想外の言葉がサヤちゃんのお母さんから放たれた。
『それはこっちのセリフです! 吹乃ちゃんにあんな怪我を負わせるなんて、母親失格ですよ! 明確な虐待です!』
――瞬間。
お母さんが、凄い形相でこっちを向いた。
「ひっ……」
どうしてコイツがそのことを知っているの?
そんな思いを込めたお母さんの顔は、殺気すら孕んでいた。
恐ろしい眼光に貫かれ、思わず声が漏れる。
怖くなった私は立ち上がって、椅子から離れて窓の方に後ずさろうとする。
でも、なぜか体が上手く動かない。
不思議に思って自分の体を見ると、全身が小刻みに震えていた。
足なんて、ガクガクと目に見えて大きく振動している。
自分で震わそうなんて思ってないのに、なぜか勝手に震えてしまう。
そんな事実にもっと恐怖心が高まる。
怖くなって、怖くなって、怖くなって、遂にはぺたりと床に座り込んでしまった。
いつの間にか呼吸も荒くなっていて、空気を吸って吐くことが全然できない。
肺に入ってくる空気が、空気じゃないような感覚。
吸えば吸うほど苦しくなる空気を、延々と吸わされていた。
「吹乃が何を伝えたのかは知らないけど、虐待なんて事実はないから。明日からは学校に行かせるから、今日のところは帰ってくれる?」
『そんなのじゃ納得できませんよ! 家に上げてくれるまでここから動きませんからね!』
そんな音が遠くから聞こえてくる。
でも段々と、音が聞こえなくなってきた。
2人が言い合う声が、なぜか遠い。何十メートルも遠くで話しているみたい。
それと、目もぼやけてきた。
全身に力が入らない。
そして多分、私は横に倒れた。
体の感覚が薄かったから、よくわからなかったけど。
「 吹 乃 ? 吹 乃 っ ! 」
真っ暗なところから、私を呼ぶ声がした気がした。
でも目を開けられなかった。
私の意識はそこで途絶えた。