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【第26話】涙の味を知った日


三章は馬酔木さんの過去編です




「まま、だいすき!」

「私も大好きよ、吹乃」


 駆け寄りながらそう言うと、お母さんは優しく抱きしめてくれた。


 これが私……馬酔木あせび吹乃ふきのの中にある、最も古い記憶だ。



 物心ついた時から、私の家族はお母さん一人だけだった。


 父親の顔は知らない。

 どこかで生きているらしいけど、父親が会いに来たことはないし、会いたいと思ったこともない。

 だってもうそんなの、知らないおじさんと一緒だから。


 親戚の集まりというものにも行ったことがなかった。

 母方の祖父母には会ったことはあるけど、お母さんは祖父母と仲が悪いのか、あまり良い思い出がない。


 祖父母の家に行っても、お母さんと祖父母は毎回喧嘩している。

 お母さんは怒るとすぐ帰るから、祖父母とは少ししか話したことがない。


 だから私には、お母さんしかいなかった。


 お母さんは、とっても優しかった。

 欲しい物は何でも買って貰えたし、忙しいのに家の事を全部してくれた。

 私が手伝うと、たくさん褒めてくれた。

 たまに怒るとちょっと怖いけど、私のことを大切にしてくれた。

 そんなお母さんが大好きだった。




 私が小学校に上がると、お母さんは仕事で忙しくなった。

 寝る時に帰ってきたり、そもそも帰ってこれない日があった。


 難しい言葉はよくわからなかったけど、簡単に言うと会社が大変だったらしい。

 お母さんは会社で偉い人らしくて、偉い人は色々と大変なのだとか。


 ご飯は作り置きしてもらえた。

 だから困ることは少なかったけど、一人の時間は寂しかった。



 小学校で友達ができた。

 同じ1年3組のサヤちゃんだ。

 サヤちゃんとはいつも一緒にいる。

 だから学校では寂しくなかった。


 サヤちゃんはよく家族の話をする。

 お母さんとお父さんと弟と暮らしているみたいで、弟の愚痴をよく言っていた。

 すぐ泣いてうるさいとか、ママが弟ばかり構うとか。

 サヤちゃんは良く思ってなかったみたいだけど、私はそれが羨ましかった。

 兄弟とか姉妹がいたら、家でも寂しくなかったんだろうか。




 小学4年生くらいになると、お母さんはもっと忙しくなった。

 帰ってこれない日が多くなった。


 ご飯を作り置きしてくれることが少なくなった。

 洗濯物も溜まっていった。


 だから、自分でやってみることにした。


 会社のお母さんに電話して、やり方を聞きながら洗濯機を動かしてみた。

 お米を洗って、炊飯器で炊いてみた。


 意外と簡単で、次からは一人で全部できそうだった。


 家事をやってみた日、帰ってきたお母さんにうんと褒められた。

 少し大袈裟なくらい、褒めてくれた。

 それがとっても嬉しかった。

 久しぶりにお母さんの笑顔を見た気がした。



 だからその日から、少しずつ家事は自分でするようにした。

 洗濯機を動かして、干して、取り込んで、畳む。

 お米を洗って、炊飯器のスイッチを押して、炊けたらお椀に乗せて、残りは冷蔵庫に入れる。

 料理はまだできなかったから、おかずを近くのスーパーで買って食べた。


 家事をやると、お母さんは褒めてくれた。

 ありがとう、とも言ってくれた。

 その言葉をかけて貰える瞬間が、私にとってはかけがえのないものだった。



 気付いたら、毎日家事をやるようになっていた。

 忙しいお母さんを助けたかったのもあるけど、お母さんに褒めてもらうためにやっていた。


 ……けど、どうしてか分からないけど、段々と褒めてもらえなくなっていった。

 ありがとうって言ってもらえなくなった。


 家事をするのが偉かったのが、いつの間にか、家事をしないのが悪いってなっていたみたい。





 ある日、サヤちゃんの家で夜まで遊んだ。


「こんな時間までいていいの?」


 とサヤちゃんに聞いたら、


「ママがふーちゃんの家まで車で送ってくれるって! 暗いし、雨降り始めたから! だからもうちょっと遊ぼうよ!」


 と言っていた。

 ふーちゃんとは、私のあだ名だ。


 申し訳なかったけど、サヤちゃんの家で遊ぶのは楽しかった。

 だから私はもう少しだけ、このまま遊んでいたかった。


「ママが、帰りが遅くなるってふーちゃんのママに連絡したいって。電話番号とかわかる?」


 サヤちゃんにそう言われたけど、今日も帰ってこないか遅くなっちゃうだろうから、わざわざ連絡しなくてもいいかなと思った。

 だから連絡しなくて大丈夫と伝えた。

 そして私は結局、夜8時くらいまで遊んでしまった。




 家に帰るとお母さんがいた。

 今日は珍しく、早く帰って来れた日だったみたい。


「ただい――」


「なんでまだ洗濯物取り込まれてないの?」


 お母さんの一言目はそれだった。


 それを聞いた瞬間、呼吸を忘れていた。


 お母さんのこんな低い声、聞いたことがなかった。


 そして同時に、自分の失態を知った。

 洗濯物のことを忘れていた。

 毎日やっていたのに、忘れていた。

 雨が降っていたことも思い出した。


「あ……」


 それに気付いた時、すぐ謝ろうとした。

 でも、もう遅かった。


「ご、ごめ――」


「なんでまだ取り込んでないのって聞いてんの!!」


 ごめんなさいという前に、お母さんが叫んだ。

 聞いたこともないくらい、大きな声だった。


 その声に呼応するように体がビクッと跳ねる。

 顔を上げられない。

 ただただ、怖かった。


「ごめんなさい……」


 俯いたまま、もう一度謝る。


「こんな時間まで何してたの!!」


 テーブルを強く叩きながら、お母さんは怒っていた。

 私がここまでお母さんを怒らせてしまった。


 雨が降っていたのに洗濯物を取り込むのを忘れて、こんな時間まで遊んでいた私が悪い。

 連絡しなくていいやと、勝手に判断した私が悪い。

 怒られて当然だった。


「答えて!」

「サヤちゃん家で……遊んでた……」

「……はぁ」


 お母さんは深いため息を吐いた後、イライラするように乱暴に頭を搔いた。

 そして、独り言のように呟く。


「普通、他所よその子を遅くまで預かるなら連絡くらいするでしょ……これだから社会経験の乏しい親は……」


 違う。

 私のせいだ。

 サヤちゃんのお母さんは悪くない。

 私が連絡しなくていいって言ったからだ。


「私が連絡しなくて大丈夫って言ったの……」

「は?」

「お母さん、今日も遅いかなって思って……」


 サヤちゃんのお母さんは悪くないから、本当のことを教えた。


「え? お母さんが悪いの?」


 すると、ただでさえ低かったお母さんの声が、もっと低くなった。


「ねえ答えて? お母さんが悪いの?」

「あ……いや……」

「どうせお母さんはいつも家に居なくて、面倒見てくれないからどうでもいいやって思ってんだ?」

「や……ちが……」

「こんなに仕事頑張ってんのに、あんたもそんなこと思ってたんだ?」

「そんなこと……」


 段々と、お母さんの言葉に力が篭っていった。

 そして――。


 ガッシャン!


 お母さんはテーブルの上に置いてあった手鏡を投げつけ、冷めた目をしながら口を開いた。


「次、お母さんを失望させたら捨てるから」


 低く重く、静かにそう言った。


 あまりに衝撃的な言葉に、私は何もできなかった。

 ただ隣を通り過ぎるお母さんを、眺めることしかできなかった。



 段々と目の前が真っ暗になって、その場にしゃがみ込んだ。

 ポロポロと、涙が零れて来た。

 漏れそうな嗚咽を我慢しながら、袖で溢れる涙を止めようとする。


 でも止まらなかったから、涙と鼻水を垂れ流しながら割れた鏡を掃除した。

 破片で手を切っちゃったけど、そんなことを気にもとめずに一生懸命掃除した。


 それが終わったら、雨の中ベランダに放置されたままの洗濯物も取り込んだ。

 びしょびしょの洗濯物をもう一度洗濯機に入れて洗った後、室内に干し直した。


 その間もずっと涙は止まってくれなかった。



 捨てられるのは、嫌だった。



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