【第10話】 声を出すと力が出やすくなることをシャウト効果と言う
私の運動能力は、平均より少し下くらいだ。
運動が得意なわけでも、苦手なわけでもない。
ちょっと筋肉量が足りてないかな、と言ったところだ。
運動部に入っていないから、普段運動をしないのが原因だろう。
別に、私は運動に対してプライドもコンプレックスも持っていない。
良い記録を出さなきゃとか、悪い記録だったらどうしよう、などと思ったことは無い。
だから、体力テストで緊張するようなことは無いはずだった。
この瞬間までは。
「はい、先に花咲さんがやって。私が記録するから」
体力テストの握力測定スペースにて、馬酔木さんはそう言って握力計を手渡してくる。
「わっ、わわっわっわかりまました」
「ふざけてるの?」
緊張し過ぎて、噛み過ぎてしまった。
深呼吸をして落ち着いてから、震える手で握力計を受け取る。
……私は今、とんでもない状況に置かれていることを自覚している。
馬酔木さんに直接何かを手渡しされることでさえ異常だけど、なにより、普通にコミュニケーションを取っている。
それが、どんなに異常なことなのか。
私は中等部での三年間、馬酔木さんにいじめられ続けてきた。
その過程で、馬酔木さんと話したことは何度もあった。
だが、会話のキャッチボールをしたことはない。
一方的な暴投だ。
私がその暴投を拾えたことは一度も無く、それが更にいじめに火を点けたんだと、今になって思う。
しかし今の会話はどうだ。
完璧にコミュニケーションを取れていると思う。
これは、私が知らないうちに、何かしらの変化があったということなのか?
もしかして、高等部に入ってから馬酔木さんの精神が成長して、いじめを止めたとか。
……いや、無いな。昨日靴隠されたし。
まあそれは置いといて。
せっかく今、馬酔木さんと会話が成立しているんだ。
余計なことをして、いつもの酷い感じに戻らないようにしなければ。
せめて体力テストの間だけでも、この態度を続けてもらえるように、頑張らなくてはならない。
そのためにも、馬酔木さんに好印象を持ってもらえるように、立ち振る舞おう。
頑張れ、私。
「じゃ、じゃあ、右手から計ります」
馬酔木さんから渡された握力計を右手に持ち、肘を曲げないように両手を真下に伸ばす。
そして、右手の指先に思い切り力を込める。
「ふぬぬっ!」
全神経を右手の先に集中させ、血管がはち切れるくらい、力強く握力計を握り締める。
指先は真っ白に変色し、腕はぷるぷると小刻みに震える。
「ぷはぁっ」
もう無理だ。
そう思うまで力を込めた後、右手から力を抜く。
右手に力を込めただけなのに、随分と疲れたし、汗もしっとりと滲んできた。
普段から運動をしていないと、こうなってしまう。
握力計を胸の高さまで上げ、結果を見てみる。
そこには19kgと書いてあった。
自分が出せる最大の力を込めたのに、記録は少ししょぼかった。
おそらく女子平均よりも下だろう。
「ふーん、19kgか」
私の記録を見て、馬酔木さんはそう呟いた。
ふーんって何が!? ふーんって何!?
「……なによ。早く左も測りなさい」
「は、はい」
私が目を丸くして馬酔木さんの方を見ていたら、ジト目で睨み返された。
やはり、普段通り威圧感がある。蛇に睨まれるカエルの気持ちがよく分かる。
この人には、一生逆らえそうにないな。
「ふんぬっ!」
そして左の握力も同じように測った。
結果は右手よりも低い18kg。
「18kgか。へぇ」
へぇって何が!?
さっきから馬酔木さんは何を考えているの!?
もしかして新しいいじめに体力テストの記録を使うつもりとか!?
怖い……。
得体のしれない恐怖が、足元から這って来る感覚がする。
その後、私は自分の測定が終わったので、握力計を元にあった箱の中に戻そうとした。
すると、馬酔木さんに呼び止められる。
「花咲さん。次私の測定だから、それを寄越しなさい」
「え?」
馬酔木さんの視線の先には、私の手にある握力計。
先程まで私が使っていたものだ。
「え、いやでもこれ、私が使ったやつですし……」
「だから何なのよ」
だから何というか、私の手汗が沢山付いているから、他の人に触らせたくないというか。
私の手汗まみれの握力計なんて、馬酔木さんどころか誰も使いたくないだろう。
本当は拭いた方が良いのだろうが、今は拭く物が無いし、このジャージも借り物だから拭くのは躊躇われるし。
「時間無いんだから早くしなさい」
「あっ」
馬酔木さんは少し強引に握力計を奪い取り、自分の手に持った。
まあ体力テストは時間無いし、わざわざ別の握力計を取って来て測定するのも面倒か。
そう心で思いながら、馬酔木さんの結果を記録していく。
馬酔木さんの記録は右手が26kg、左手が23kgだった。
次の種目は上体起こし。
いわゆる腹筋だ。
敷かれたマットの上で腹筋を行い、30秒間でどれだけの回数を繰り返せたか計るといったもの。
シンプルな体力テストなのだが、これには一つ、問題点がある。
それは、ペアの片方が腹筋を行う人の足を抑えなければならない、ということ。
説明された方法によると、腹筋する方は仰向けになって足を三角折りにし、測定する方は両腕と胸でその足を抑えなきゃいけないらしい。
普通のペアなら、この程度の身体接触は何の問題にもならないだろう。
しかし、私達は違う。
いじめっ子と、いじめられっ子だ。
お互いに、そんなことをやりたいとは思っていないはずだ。
無論、私はやりたくない。
上体起こしを測定する用のマットには余りがあるし、別々に計っても多分怒られない。
馬酔木さんもきっと、別々に測定したいはず。
なら先んじて、私は他のマットに行こうかな。
そう心で決め、馬酔木さんが陣取っているマットとは別の、空いているマットに向かおうとした。
すると、またしても馬酔木さんに呼び止められる。
「ちょっと、どこ行くのよ」
「え、いや……上体起こしの記録を測定しようかなと……」
「なに別のマットでやろうとしてるのよ。ここでやりなさい」
そう言って、馬酔木さんは視線で自分のいるマットを指した。
早く戻れ、と顔に書いてある。
……え、一緒に測定するの?
嫌々やるなら、別々でいいんじゃない?
私は嫌だから別々でやりたい。
そう思ってはいたが、何かされたら怖いので、渋々馬酔木さんが待つマットに戻ることに。
まあ別で各々計ったら、回数を数え間違えたりしてしまうかもしれないし、仕方の無いことか。
同じマットで計ると言っても、体を抑えずに相方の回数だけ数えるとか、そんな感じだよね。
「じゃあ私が足を支えるから、先にやりなさい」
「えっ」
「……なによ」
さも当然のように準備し始めた馬酔木さんは今、足を支えると私に言い放った。
てっきり、お互い体には触れずに、回数だけ数えると思っていた。だから想定外な言葉に、衝撃を隠せない。
今日の馬酔木さんはどこか変かもしれない。
体操服を忘れるのも馬酔木さんらしくないし、私と関わることを良しとしているのも異常だ。
普段であれば、こんなことは絶対に言って来ないはずなのに。
「足を……支えるんですか?」
「当たり前でしょう。先生もそうするようにって言っていたし、そうしないと正しい記録が測定できないじゃない」
私が恐る恐る確認を取ると、馬酔木さんは正論で返してきた。
言っていることは全くもって正しいのだけど、馬酔木さんが私に返す言葉としては間違っている気がする。
てっきり、『あなたに触る訳がないでしょう。冗談はやめなさい。汚らわしい』とか言われると思ったのに。
一体何を企んでいるのだろうか……。
「いいから早くしなさい。ほら早く」
「は、はいぃ」
馬酔木さんに促され、私は渋々と言った感じで上体起こしの体勢になる。
そうした瞬間、馬酔木さんが私の足をガッチリと固定する。
三角折りの足に両腕を通し、その腕と胸を押し付けて支える。さっき習った方法だ。
……その体勢の、予想以上の密着度に、少し身震いする。
この支え方はその、あまり言いたくないのだが、胸が当たる。
それはもう、バッチリと。
そのおかげと言うか、そのせいと言うか、馬酔木さんの控えめな胸の感触が、膝辺りにダイレクトに伝わってくる。
これは、馬酔木さんは嫌ではないのだろうか。
いじめるくらい嫌いな私と密着するのなんて、絶対に拒絶すると思っていたんだけど……。
もしかして、馬酔木さんって想像以上に真面目な人なのか?
だから、先生に教わったことを着実にこなすために、不快な思いをしても我慢して、きちんと測定している。
そう考えると辻褄が合う。
いやでもそこまで真面目な人間が、人をいじめるか?
うーん、馬酔木さんの性格がよく分からない。分からないから怖い。
「なにやってるのよ。早く腹筋始めなさい」
「あっ、はっはいっ」
馬酔木さんに促され、上体起こしを始める。
下半身は動かないようにして、上体を腹の筋肉だけで起き上がらせる。
これがもう、とんでもなく辛い。
腕を振り子のようにして反動で起き上がればまだ楽なのだけど、そんなズルは馬酔木さんの前ではできない。
「ううぅ……っ!」
数回繰り返しただけで、身体が悲鳴を上げる。
もう、声を出さないと身体が上がらない。
「うりゃぁっ……!」
10回弱ほど繰り返したところで、あることに気が付く。
腹筋で起き上がると、馬酔木さんとの顔がとても近くなるのだ。
一番近い所で、10センチにも満たない。
「……っ!」
気付いた瞬間、声にならない悲鳴が喉を通過しかけた。
今まで、これほどまでに馬酔木さんと顔を近付けたことは無い。
本能か、潜在意識か。
何がどう反応したのかは分からないが、気が付いたら身体が起き上がることを拒否していた。
上体を起こそうとしても、身体が上がらない。
ただの筋力の限界だったのかもしれないし、精神的なものだったのかもしれない。
それからは劇的に上体起こしのペースが下がってしまい、結果は30秒間で12回だった。
「次は私ね」
そう言って、馬酔木さんは私がいた所に同じようにして寝そべる。
次は馬酔木さんが腹筋をし、私が足を抑えて数を数える番。
これは、私はちゃんと足を支えないといけないのだろうな。
馬酔木さんがしっかりと固定していたのだ。
私もちゃんとやらなきゃ、絶対に怒られる。
馬酔木さんにどんな思惑があるのかは分からない。
だが私がちゃんと固定しなくて、馬酔木さんの上体起こしの記録が伸びず、その結果報復を受ける。
そんな可能性も無くはない。
だからどんなに怖くても、私はここで身体を密着させて、足を支えないといけないのだ。
目の前には、三角折りになった馬酔木さんの足。
怖い。凄く怖いが、ここは覚悟を決めるしかない。
よし。やろう。やってやるぞ!
馬酔木さんが私にやったように、両腕を足に通し、自分の胸を押し付けて足を固定する。
ぎゅむっ。
「へぁっ!」
……え?
何か変な声が聞こえた?
すぐ目の前……馬酔木さんの口から、変な声が漏れ出た気がする。
その声が聞こえたせいで、私は反射的に体を離してしまっていた。
「え、えっと、すみません……?」
もしかしたら、私が馬酔木さんのウィークポイント的な部分を、無意識に触ってしまったのかもしれない。
そうでなければ、あの馬酔木さんが変な声を出すはずがない。
「な、何でもないわ。いいから支えなさい。ちゃんと記録が計れないでしょう」
もたついている私に、馬酔木さんが咎める。
そうだ。
予想外の出来事に、面食らっている場合ではない。
次は変な所を触ることがないように、慎重に、しっかりと足を固定しよう。
馬酔木さんの三角折りになった足の間に両腕を通し、胸をゆっくりと、強く押し付ける。
ぎゅっっむっっ。
「ぁ……っっ!」
何か、声にならない悲鳴が聞こえた気がするけど……気の所為だろう。
どこか気合いが入ってそうな馬酔木さんの上体起こしの記録は、29回だった。
多分、それなりにすごい記録。
その後は、長座体前屈、反復横跳び、立ち幅跳びを同じ体育館内で行い、50m走をグラウンドで走った。
体力テストをしている間、馬酔木さんの様子はずっとおかしかった。
浮ついたような、どこか心あらずのような。
まあ、私の気の所為かもしれないけど。
でも気の所為じゃなかったのなら、一体どうしたんだろう。
体調でも悪かったのかな。