【第9話】 握力の世界記録は192kg
「ふわぁ〜あ」
「眠そうだね。夜更かしでもしたの?」
「んー、夜更かしって程ではないんだけど、寝付きは少し悪かったかも……」
「そうだったんだ」
新学期2日目。
高校生活が始まってばかりの教室を見渡す。
しかし、朝のホームルームが始まる10分前にも関わらず、教室内にいる生徒は半分程度しかいなかった。
廊下等でお喋りしている人もいるだろうが、主な理由は別にある。
この学年の生徒はほとんどが中等部からの内部進学生だから、皆慣れているのだ。
ギリギリまで寝ていられるタイミング、というものを。
だから大半のクラスメイト達は、チャイムが鳴る少し前に教室に滑り込んで来る。
無論、私もギリギリまで寝ていたい派の人間だ。
しかし毎日なーちゃんと家の前で待ち合わせをしているから、自然と登校時間が早くなってしまう。
「おっはよー!」
なーちゃんと椅子に座って話していると、背後から声をかけられた。
「あ、果凛ちゃんおはよー」
「おはよう、桃里さん」
「二人とも、朝からめちゃ可愛いねー!」
振り返ると、果凛ちゃんが手を振りながら、こちらへ向かって来ていた。
果凛ちゃんは編入生なのに、ホームルームが始まるギリギリの時間に登校している。
彼女もギリギリまで寝ていたい派の人間なのか。
その割には、妙に朝から元気が良い。
「朝から元気良いね」
「それが私の取り柄だからね!」
果凛ちゃんは隣の席に荷物を置き、そのままこちらの方に椅子を向けてから座る。
「あ、そうそう。今朝、体操服を忘れそうで危なかったんだー。途中で気付いて取りに戻ったから、遅刻しないかヒヤヒヤしたよー」
「へぇー、だから時間ギリギリだったんだね」
つまり果凛ちゃんはギリギリで登校して来た訳ではなく、余裕を持って行動していたからこそ、忘れ物をしても間に合ったと。
偉いなあ。
……ん? 体操服?
果凛ちゃんが発した言葉に、私は妙な違和感を覚えた。
「あれ、今日って体操服必要だったっけ? 体育無いよね?」
今日の時間割は
・1時限目 数学A
・2時限目 英語表現
・3時限目 古典
・4時限目 保健
・5時限目 数学Ⅰ
・6時限目 情報
だったはず。
週のスケジュール表を見ると、やはり体育なんて文字は、今日のスケジュールのどこにも載っていなかった。
それに、今日は初回授業ということで、授業はオリエンテーションのようなものだと聞いている。
どこにも体操服を必要とする授業は無いと思うけど……。
「もしかしてえりちゃん、今日体操服忘れちゃったの?」
「あちゃー忘れちゃったかー」
「え? え?」
なーちゃんと果凛ちゃんは二人とも、体操服が必要そうな口振りをしている。
……もしかして私は、重大なミスを犯してしまったのではないか。
そう思った瞬間、全身から冷や汗が滲み出る感覚が襲って来た。
「昨日のホームルームで、初回の保健では体力テストをするから体操服を持ってくるように、って言ってたよ」
「ま、確かに明日必要とは言ってくれてなかったから、忘れちゃうのはわかるけどねぇ」
「えっ、えっ」
言われてみれば、昨日そんなことを担任の先生が言っていたような気がする。
体力テストは普通、体育の授業枠でやるが、体育の初回授業はスポーツの種目選択に使う。だから体力テストは保健の授業枠に入れる、と。
つまり私は今日、体操服を忘れたという訳で……。
「ごめん! えりちゃんが体操服ちゃんと持って来てるか、確認すればよかった!」
「私も忘れ物に気付いた時に、恵梨香ちゃんにも言っとけばよかったかも。ごめんね!」
「えっ、あっ、わ、わァ……」
や、やらかしたぁぁぁっ……。
***
4時限目の開始を告げるチャイムが鳴り、1年A組の生徒達は体育館の入口付近に集まっていた。
「それでは、体力テストの実施方法について説明していきます」
ホワイトボードの前に立っている体育教師が、体力テストについて説明を始めた。
「測定は二人一組になって記録を付けて下さい。片方が測定して、記録をもう片方が記入。終わったら交代して同じことを繰り返して下さい」
30人いる生徒は2列になって、体育座りで並んでいる。
座る生徒達は皆、学校指定の白と紺の体操服姿だ。
しかしその中に二人だけ、青色の貸出用ジャージを着ている者がいた。
貸出用ジャージを着ているということは、今日体操服を忘れた人間ということ。
ジャージを借りに体育準備室まで行ってから着替えたため、授業に少し遅れてしまい、列の最後尾に並ばされている。
そんな、とても目立っている人。
ただでさえ普段から悪目立ちをしているのに、こんな時にまで目立ってしまう、残念な人。
その正体は……。はい。私でした。
先生の話をよく聞いていなかったがために、こんな目に遭っております。
自業自得です。
しかし、悲劇はこれで終わらなかった。
今日体操服を忘れた人間は、二人いた。
一人は私。
では、残りのもう一人は?
正解は、私と同じく列の最後尾に並ばされて、私の真横に座っている人だった。
普段は下ろしている長い黒髪を後ろで纏め、行儀よく体育座りしている美少女。
そんな少女を見て、私は内心ドキドキしている。
でも、これは恋のトキメキでの動悸ではない。
恐怖から来る動悸だ。
体操服を忘れた、私以外のもう一人。
それは、馬酔木さんでした。
いじめっ子の、馬酔木さん。
「…………」
ジーザス!
そう叫び出したいほど、私は動揺していた。
隣に座る馬酔木さんからは、何か歪なオーラのような、威圧感のようなものが出ていた。
私が勝手に、そう感じているだけかもしれないけど。
でも滅茶苦茶怖い。物凄く怖い。
どうか早く説明が終わって、隣から解放してくれ。
そう願っていると、列の先頭からプリントが配られてきた。
体力テストの結果記入用紙だ。
「先程説明した通り、二人一組のペアでお互いの結果を記入してもらいます。ですので、体力テストを始める前に、相方に自分の用紙は渡しておきましょう」
渡す前に自分の名前は書いておくように、と体育教師が補足を入れる。
用紙を見ると、これから行う体力テストの種目とその結果を記入する欄があった。
50m走、反復横跳び、長座体前屈、立ち幅跳びなど。
体育館内で行えるものからグラウンドに出て行うものもあるから、割と急いで測定していかないと間に合わなさそうだ。
「それじゃ、これからペアで別れて貰うんだけど……時間無いし、列の隣の人とペアになって測定してください」
「え」
何、だと……。
列の隣でペア。
つまり、今私の隣に座っている人と、二人一組になって体力テストをしていくと。
そして、今私の隣に座っている人はと言うと。
「…………」
馬酔木さんな訳で。
「…………」
はっ。
ショックのあまり、思考が停止していた。
いやあの、本当にやめてください。
どうか体力テストの説明終わらせないでください。
このまま残り時間ずっと説明し続けてください! お願いします!
「はい、では皆さん立って、各々体力テストを始めていきましょう!」
やめて! あたしゃ馬酔木さんとペアなんてまっぴらごめんだよ!
……まあ、いくら心の中で叫んでも、そんな願いは叶うはずもなく。
地獄の体力テストが始まってしまった。
クラスメイト達はぞろぞろと立ち上がり、それぞれが測定場所へと移動していく。
前方にはなーちゃんと果凛ちゃんが見え、二人一緒に反復横跳びの測定場所に向かって行っていた。
いいなあ。そこの二人でペアになれたんだ。
「「…………」」
一方私達はと言うと、その場から立ち上がりもせず、二人して座ったままだった。
そのことを不審に思われたのか、体育教師から声を掛けられる。
「ほらそこ、時間無いんだから、ちゃっちゃと体力テスト始めちゃいな」
「あ、は、はいっ」
「……はい」
注意を受け、のそのそと二人同時に立ち上がる。
その時に馬酔木さんを盗み見ると、無表情だった。
無、というものを顔に貼り付けたような顔をしていた。
「「…………」」
こ、これは、どうすればいいんだろうか。
私から、「そんじゃ、いっちょ測定しに行っちゃいましょうかー」などと言えるはずがない。
そのような鋼のメンタルは持ち合わせていない。
もちろん、話しかけるどころか動き出すこともできない。
おもむろに自分一人だけ測定場所に行って、測定を始める勇気も無い。
となると、私は馬酔木さんが動き出すのを待つしかないのだ。
他力本願で、それもいじめっ子に頼るというのはどうなのか、という話だが。
頼むから、穏便に終わって欲しい。
そんなことを考えていると、馬酔木さんは私を一瞥し、その後スタスタと握力測定のスペースの方へ歩いて行ってしまった。
……これは、追いかけるべきなのだろうか。
個人的には、このまま別々に測定しても、問題無さそうに思える。
先生には二人一組のペアで測定しろと言われたけど、わざわざそんなことをしなくても一人で測定はできる。
それに馬酔木さんもきっと、私と二人で測定するのなんて嫌だろう。
そうに違いない。
なので、私は一人で測定していこう。
周りからは好奇の目で見られるかもしれないけど、ペアの相手が馬酔木さんだと知ったら、皆も納得するだろう。
よし。
じゃあ私はグラウンドに行って、50m走のタイムでも計ってこようかな。
「花咲さん」
「ひぃっ!」
体育館から出ようと足を踏み出した瞬間、真後ろから呼び止められた。
振り返り、その声の主を確認する。
するとそれは、馬酔木さんだった。
え、なんで戻って来たの。
握力測定の場所に行ったはずじゃ……。
「何を、しているの?」
「えっと……」
「早く来なさい」
「す、すみませんすぐ行きます!」
馬酔木さんが放つ威圧感に、呆気なく気圧される。
理由はわからないけど、馬酔木さんは私とペアになって体力テストを受けるのは、別に構わないらしい。
絶対に嫌がると思ったのに。
前を歩く馬酔木さんの十歩くらい後ろを、体を丸めながらとぼとぼと歩いて行く。
正直、とても怖い。
普段私をいじめるような人と一緒に体力テストなんて、絶対にろくなことをされない。
良くて測定の妨害。
悪くて記録用紙をビリビリに破かれるくらいのことは、覚悟しておいた方がいいかもしれない。
そんなことを心に決めながら、握力測定のスペースに辿り着いた。