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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王となった日、夢で女神様と会える

作者: 中々凡°

俺たちはここからだエンドに見えなくもないかもしれません。

よろしくお願いします。

王宮の正面バルコニーから眼下を見下ろす。


広場には大勢の民衆が犇めき合っている。

誰もがみな、一心にこちらを見上げて歓声を上げている。アレクシスは万感の思いで口を開いた。



「我が家族たる民よ!今日という日にこうして集まってくれたこと嬉しく思う!」


晴天に恵まれた今日、アレクシスの戴冠式が先ほど恙なく執り行われたばかり。

新たなる王となったアレクシスを一目見ようとこうして国中から多くの国民が集まって来ていた。


老若男女問わず、中には小さな子供が肩車をされてきゃらきゃらと嬉しそうにこちらに手を振っているのが見え、思わず顔が綻ぶ。


「陛下、国民はみな、どこも家族総出で駆けつけているようですな」

「誠に。さすがは我らがアイラル王国の民よ。”同じ家族”の一員としての固い絆をひしひしと感じます」


感激したように、傍に控えていた宰相と年若い侍従長が言い募る。各々、このほど新たに要職に就いた身ゆえに、感慨もひとしおのようだ。

それはアレクシスとて同じ気持ちだった。


「我が愛する家族たち!私はこの国の新たなる父として、お前たちの更なる幸せのために邁進することをここに誓おう!!」


ひと際大きな歓声が上がる。


この景色を一生忘れない。アレクシスは歓喜に滲む涙を拭い、網膜に焼き付けるように彼らの笑顔を見渡した。

どこか白けた顔や怒りに震える表情など、アレクシスのキラキラした瞳にはひとつとして映ってはいなかった。






*******





盛大な戴冠パレードのあと、王宮での豪華絢爛なパーティも終えて、着替えもそこそこにアレクシスは最愛の人とベッドに縺れ込んだ。


「きゃあっ、陛下ったら!そんなに慌てないで」

「焦らすなミリィ、わかるだろ?僕のこの高揚!はやくこの熱を君と分かち合いたいんだ」

「ふふふっわかるわ。だって貴方はこの国の頂点、ついに王様になったんだものね、そしてこのわたしが王妃様!」

「ああ、ミリア…それは!いや、とにかく今は、ね?愛してるよ僕のかわいいミリィ」

「私もよ、…大好きな国王陛下」


いつの間にか天蓋は降ろされ、しばし時を忘れて熱く激しく求め合う二人。


かつてないほどの多幸感に包まれていた。アレクシスはあがる息を整えながらポツリと呟いた。


「今日が、僕の人生最良の日だ」


脳裏には今朝からの出来事が鮮明に蘇る。ミリアはもちろん信頼のおける臣下やたくさんの使用人たち、祝福の為に訪れた他国の王侯貴族に要人、なにより何万という民衆の無辜の笑顔。


この国のただ一人の王子として生を受け、これまでも常に誠実に真摯に国家と民衆の為に励んできたつもりだが、今日からは国王として彼らの笑顔を守っていくのだ。父王の代わりに。


「病床の父上にも見せてやりたかったな…」

「仕方ないわよ、だってまだ重篤なんでしょう?」

「ああ…」


一年前、とある事件のせいでアレクシスの父、前アイラル国王は倒れた。

国中の名だたる医師の治療や高名な薬師の調薬でも症状は回復せず、日に日に悪化し、今朝アレクシスが見舞いと戴冠の報告に上がった時も、意識はない状況で臥せっていた。



「…こんなとき“聖女”がいれば」


否。自分で言っておきながらアレクシスは瞬時に強く心の中で否定した。

もとはといえば、その“聖女”のせいで父王は病床に臥したのだ。


半年前、この国の“聖女”が処刑された。

聖女とは、女神の加護を受け、あらゆる病や傷を癒すことの出来る稀有な存在であり、大陸内でも唯一このアイラル王国民からしか生まれない。また、聖女はその時代に一人のみ。次の聖女の出現は未だ確認されていない状況が続いている。


女神の加護を受けた者とはいえ、その為人(ひととなり)まで清らかにとはいかなかった。

当代の聖女は孤児であり、王国内でも一番治安のよくない貧民窟の出であった。

手癖が悪く、保身の為なら平然と嘘をつき、怠惰で欲深い。

卑しい出自故にある程度は仕方がないと神殿に保護された当初は、みな寛大に接したという。これから更生できれば良いと、文字の読み書きすらまともにできない聖女の為に、勉学はもちろん、礼儀作法に貴人としての心構えまで、手厚く指導した。

しかし、それからも聖女の性根は変わらず、数々の諍いを起こし、他者を傷つけた。

アレクシスの腕の中にいるミリアもまたその被害を受けた一人だ。


そうして、度重なる過ちの末、聖女は最大の罪を犯した。

前アイラル国王にあろうことか毒を盛ったのだ。


幸い、偶然にも近くにいたミリアが発見したため未遂で終わったが、聖女の最後の悪あがきだろう、前アイラル国王は“呪い”を受けて倒れた。


今思い返しても腸が煮えくり返る。アレクシスは出来ることならその場で叩き斬ってやりたかった。しかし、なんとか理性でその激情を抑え込み、この国の法に則った手順で持って粛々と聖女を処断したのだ。



「すまない、ミリィ。“聖女”なんて」

「気にしないで、私は大丈夫だから」


散々聖女に虐げられてきただろうに、そう健気に言い募るミリアの笑顔に、アレクシスの胸は痛いほど高鳴った。

そうだ。今は悲しいことを考えるのは止めよう。

人生最良の“今日”はまだ、終わっていない。ともすればこれからが一番のハイライトと言えるかもしれないのだから。この後、二人眠りについてからこそが。


アレクシスは二人きりの寝室にあって、敢えて内緒話をするように声を潜める。


「ねぇミリィ。我が国の民は王家含め皆が”家族”だろう?」

「え?ああ…()()よく言うわね」


どこか子供の戯言を窘めるようなミリアの言葉にムッとするが、今はあえて取り合わず、逆にこちらが諭すように続ける。


「建国神話を知っているだろう?だから元をたどれば本当に僕らアイラル王国民はみなひとつの家族だったんだよ」


昔々、神々の争いに傷つき地上に降り立った女神が、アイラル王家始祖であったこの地を治める首長に助けられた。

そこは大した実りもない不毛な大地。住んでいるのは首長とその弟家族、首長のそばめ、従者であったそばめの夫と子供たちのみ。

しかし彼らはだれも争い諍い起こすことなく、互いを敬い支えあい慎ましく幸せに生きていた。

やがて彼らを深く愛し共に生きることを願った女神は首長と夫婦となり、不毛の大地に溢れんほどの実りを与えた。たちまち大陸中のどこよりも豊穣に恵まれた奇跡の王国と呼ばれるアイラルが誕生したのだ。

王国の創成期、国の民はみな王家と縁ある者ばかり。建国より五百余年を経た今日においても、王家の人間が国民を“家族”と呼ぶ所以である。


「なかでも我ら王家は女神の血を色濃く継承してきた血筋。そんな僕らにはね、昔から代々語り継がれてきた秘密があるんだ」

「ひみつ?」

「ふふ、そう。戴冠したその夜だけ、僕らは夢でかつての家族と新たな女神様に会えるんだよ」

「…なにそれ?」


訝し気なミリアの表情に、アレクシスは更に嬉しそうに笑みを深めた。




誰よりも敬愛するする父、前アイラル国王は、アレクシスがまだほんの幼子の頃によく寝物語に聞かせてくれた。


『―いいかい、アレク。お前が大きくなって、この国の王となった時。その夜、夢で家族に会えるんだ』

『ちちうえ。ゆめで、とはどういうことですか?』


『かぞくに?』すこし胡乱な眼差しを向ける幼い我が子に、父王は苦笑する。


『家族だ。私はもちろん、おばあさまやおじい様、さらにそのおばあさまやおじいさま、そのまたさらに…』

『そんなかたたち、ぼく知りません!』

『ははは。まあ聞きなさい。我らのご先祖さま。そして、忠実な臣下のみなみな』

『しんかとは…宰相のおじうえとか?』

『そう。宰相に侍従長、大臣たちや騎士にメイドたちも』

『女官長のアンも?』

『そうだね。お前を心から愛し想ってくれる家族であるならば、生死問わず、どんなに遠く離れていたとしても、誰もがみな、戴冠したその一夜の夢の中でだけ、一堂に会することが出来るんだ』


『まるでこれまで頑張ってきたご褒美のように』優しい声音に後押しされるように、アレクシスはおずおずと口を開いた。


『…そう、したら、かあさまも?なくなった母さまにも、ぼく、もう一度おあいできるの?』


ゆらゆらと涙が浮かぶ晴れ渡る青空のようなアレクシスの瞳は、まさしく今は亡き王妃と同じ色。父王もまた熱くこみ上げそうになるものをどうにか抑え込んで、強く頷きで返した。


『会えるさ。かあさま…女神様となられたであろうあの人にね』

『めがみさま?』

『建国神話は教わっただろう?我らが始祖である初代国王とその王妃となられた女神様。人間とは生きる時間が違う女神は、悠久の命と引き換えに愛する夫と添い遂げるため人間となった。代わりとして、この国が、この国の民がいつまでも幸せであることを見守れるようにと、女神の血を色濃く引く女性がこの世を去った後、神の国にて女神として生まれ変わる輪廻をお結びになられたんだ』

『ゆうきゅう、りんね…』


聞きなれない言葉に首を傾げる小さな頭を、大きな手で優しく撫でながら父王は続ける。


『私が、王となったその夜、夢に現れた女神様は私のおばあ様だった』

『おばあさま?』

『まだ、アレクのおばあ様、私の母はその当時にあって健在、元気にお過ごしであったからね』

『っ』


父王の言わんとすることがおぼろげながら幼いアレクシスにも分かった気がした。


女神の血を引く女性が、亡くなった後に女神様となって神の国からこの国を見守ってくれている。

王となったその夜、夢に現れるのはアレクシスを心から愛する家族たち。それならば、


『ぼくが、王となったら、女神さまとなったかあさまとあえる…』

『ああ。きっと。必ず』



女神の寵愛を受けし奇跡の王国アイラル。

天災とは縁遠く、飢えを知らない豊穣の実りに年中恵まれ、他国からの侵略も女神からの天罰が下ると恐れられ建国以来一度として見舞われることのない、まさに奇跡の地。疫病の類ですら歴代の“聖女”が癒して回った。

それ故、災いや争いとは無縁の平和な治世が長く続くことが通例であり、王位継承者だからと言って政略的な婚姻を無理に結ぶことはなく、他の国々の王侯貴族たちの大多数の慣習とは異なり、恋愛結婚を至上としていた。また、これも大陸の中では珍しく一夫一妻制を法で定めていた。


若い頃から奔放に遊び回っていた父王だが、二十歳で即位してから女遊びはピタリと止めて、真摯に国政に取り組みすぐに賢君と呼ばれるようになった彼の元に、地方貴族の末娘であった王妃が嫁いだのは、彼女が十八歳の頃であった。


心優しく誰にも隔てなく接し万民に愛された王妃、輿入れから一年後にアレクシスが生まれた。

しかし、その後まもなく産後の肥立が悪かったのが原因で儚くなられてしまった。当時の聖女が高齢の為老衰で亡くなって間もなかったという時期と重なり為す術もなかった。


アレクシスは母を覚えていない。母親という存在がよくわからない。

乳母であったアンを母と錯覚することもあったが、実の母子であろう乳兄弟とアンの関係性が自分たちのそれとは決して違うことは誰に言われずとも理解していた。

だからこそいつまでも母を恋しく思った。眠れぬ夜、ひとりで布団の中で丸まって母を何度も呼ぶほどに。


父王の語った寝物語は、そんなアレクシスを哀れんだ作り話かもしれない。

けれど、それからも幾度となくその話は聞かされた。

必ず周りに誰もいない二人きりの時だけ。父王は言った。


『これは、王家に連なる者のみが、親から口伝えに語り継がれる話だ。夢に誘われた者たちも、王家の者以外は不思議なことに、みな忘れてしまう。アレクシスも決して自らの子以外に話してはいけないよ』

『はい、父上』

『ただし、例外があるとすれば。それは、愛する人のみ』

『愛する人』

『私にとっては、お前の母上が唯一そのひとだった。生涯を共にいると誓い、魂の伴侶となるひと…真に家族たり得ると思ったひとにのみ、話すといい』

『真の家族…』

『きっと、その夜の夢でもその人はお前の隣にいるのだから』


どこか誇らしげな表情の父王が、当時のアレクシスには羨ましく映って見えた。



「これまで、僕は、僕が王となった時、女神様となられた母上にお会いしても恥ずかしくない自分でいようと常に律して来た。まだまだ未熟なところはあるだろうが、これから、夢で遂に母上に会える。これまで頑張ってきた褒美を、存分に褒めてもらうんだ」

「へ、へえ…」

「ミリィ、君のことも女神様となった母上にきちんと紹介するつもりだ。僕の誰よりも愛するひとだってね」

「ああ、そう…」


どこか白けた様子のミリアに、アレクシスはこれは信じていないなと苦笑した。

確かにいかにも荒唐無稽な話だ。けれど、もうじきその時が訪れる。夢の中で驚きに目をまん丸にするミリアを想像して、アレクシスは悪戯っ子のような気持ちになった。


「そういえば、父上のときは、夢に集ってきてくれた家族の数が、おじいさまの時より随分少なかったと言っていたよ。きっと、即位するまで散々遊び惚けていたのが悪かったのだろうって」

「ああ、わたしも観たことあるわ。稀代の貴公子が数々の美姫と浮名を流すあの有名な喜劇、あれ、前の王様の王子時代がモデルだったのね?」

「そう。わが父ながら恥ずかしいよ。戴冠の日の夢のなかでは、新たな女神様となったひいおばあ様から叱責され、なんとかシラを切ろうとすると、女神の泉が過去を映したと」

「過去?」

「夢とはいえ、神の国でのことだからね。女神様の御前ではどんな秘密も詳らかになる。過去のあらゆる事象も見ることが出来るんだって」


「だから僕は、いつだって誠実に、一欠けらの偽りもなくこれまで生きてきたつもりだ」ミリアを安心させるように、アレクシスは言ったつもりだが、なぜだかミリアの愛らしい顔立ちが笑い損ねたように奇妙に歪んでいる。


「………嘘、よね?」

「ミリィ?」


先ほどまで信じていない素振りだったが、そう尋ねてきた声は緊張を孕んでいる。

不思議に思ったが、これから本当にアレクシスの祖先や母と会うということを、信じ始めてきたのかもしれない。アレクシスは不安を和らげるように殊更優しくミリアの肢体を抱き締めた。


「大丈夫だよ。夢の中でも隣に僕がいる。それに、きっと僕を愛してくれるたくさんの国民が夢に集ってくれることだろう」


宰相の職を辞した叔父や、前侍従長達とも久しぶりに会えることだろう。現宰相達とはどこか溝が出来たまま王宮に上がらなくなっていたので、彼らの関係修復も出来るといい。


なにより、


「今は臥せっているだろう父上も、夢の中でなら元気なお姿で会えるんだ」

「は?」


当時、父王の夢でも、隣国に嫁いだという従妹の姫君が流行り病で寝込んでいたという。夢で会った時には『聖女様を派遣してくださったの?』と元気な姿で首を傾げていたと。


幼いころから会いたかった母、そして病床にある父と、今宵国王となったアレクシスは久方ぶりに親子の再会を果たすのだ。


「…本当に、今宵が人生最良の日だよ」


「さあ寝ようか、愛してるよミリィ」言い尽くせぬ期待に胸を膨らませ、アレクシスは穏やかに目を閉じた。



「ねえ、嘘よね?ねえ」


先ほどより、強張った顔で言い募るミリアの問いかけにも気づかぬまま、深い眠りに落ちていった。








*******








ひんやりとした足元の感触に、アレクシスは重い瞼を開けた。


ひたひたと(くるぶし)辺りまでが冷たい水に浸かっている。アレクシスは気づくとどこかの浅瀬にでも立ち尽くしていたようだ。何故…と声になるより先に、後ろでも複数の戸惑う者たちがいるのに気づいた。


「アン!叔父上!」


「まあ、陛下?おそれながらここは一体?」

「…国王陛下」


不思議そうに首を傾げている乳母のアンと、どこか暗い表情をした叔父である前宰相。

久しぶりに見る懐かしい顔ぶれに、アレクシスは今の状況に合点がいって嬉しくなった。


(そうだ、ここは()()夢の…!)


辺りを見回すと、前侍従長や幼少期に仕えてくれていたメイドに護衛騎士、長年アレクシスの愛馬の面倒を見てくれていた厩番などの姿も。

父王のいう通り、今は王宮を去った者たちにも夢で会えた。彼らが遠く離れてもアレクシスを想ってくれていた証拠だ。


しかし、アレクシスたちが立っている場所には数えるほどの人影しかいない。現宰相や侍従長、王宮で傅く者たちは不思議と誰一人として見当たらない。

今日、バルコニーから見たはずの大挙に押し寄せた民衆の姿もない。

なにより、


「ミリィ?…ミリア!どこにいる?」


同じベッドで先ほどまで熱を分かち合っていた最愛の人の姿がどこにもない。夢の話を聞かせてくれた父王の姿もだ。

みんなまだ眠りに就いていないのだろうか。アレクシスは一抹の不安を抱えながらも、前に向き直る。


見渡す限り、どこまでも続くような色褪せた草原のみが広がっている。枯れた草の群れがビュウビュウと冷えた風に揺れ、見上げた空はどんよりと分厚い雲に覆われているようだった。


(ここに、女神様が…?)


かつて幾度となく父王から聞かされた話と随分違う。父王が言うにはもっと美しい草花が生い茂った常春の楽園のような場所であるはずなのに。こんなにも寒々とした荒涼の地が女神様の住まわれる場所とは到底思えない。

強い疑念を抱くアレクシスの前に、思いがけない人物が現れた。


「貴様…!」


それはなんと、半年前に処刑されたはずの、聖女・二コラであった。


アレクシスは忌々し気に目を眇めた。

確かに父王の言葉を思い返すと、アレクシスを慕う者であれば、貴賤の区別はもちろん、生死の有無すら超えてこの一夜の夢では巡り合えるというのだから、大罪人である二コラがこの場に現れたことも説明はつく。


なにより、この卑しい生まれの娘が生前アレクシスを憎からず想っていたことは、言われずとも気づいていた。

この国の最下層民であった薄汚れた孤児の娘が、お伽話から出てきたような正真正銘の王子様である見目麗しいアレクシスに叶わぬ恋をしてしまうなんて、なんともありきたりな話だ。

ミリアを虐げたのもアレクシスの寵愛を妬ましく思ってだろうと、ミリア本人も切なげに言い募っていた。


それまでの境遇ゆえか、喜怒哀楽の一切を表に出さない、いつも不愛想な顔した二コラ。卑しい出自の娘にしては整った顔立ちとはいえ感情表現の乏しい彼女はしかし、アレクシスを呼ぶ時だけは何かしらの想いの発露をうかがわせた。

何度「王太子殿下」と呼称を改めるよう注意しても、「おうじさま」とどこか舌足らずな風情で二コラはアレクシスを呼ぶのだ。まるでお伽話の”王子さま”を夢見る少女のように。

だが、そんな気持ちを向けられてもアレクシスが嬉しく思うことはなかった。どちらかといえば煩わしく感じていたほどだ。


死してなおアレクシスを恋い慕う気持ちは本物なのかもしれないが、そんなはた迷惑な想いのせいで数々の過ちを二コラは起こしてきたのだから、アレクシスが嫌悪してしまうのも無理はなかった。

愛するミリアや父王の姿がなく、この娘の不愛想な顔を見ていれば嫌味のひとつも言いたくなる。


「よくも僕の目の前にのこのこ顔を出せたものだな、大罪人二コラよ。まったく、ミリアや父上の姿が見えないのは、よもや貴様なんかが場違いにもこの場に現れたせいではあるまいな?」


侮蔑の色を隠すことないアレクシスに、無表情だった二コラはしかし、驚くことにほのかに笑みを浮かべた。


「ふふ」

「っ!なにが可笑しい!!」


二コラが笑ったところなどこれまで一度も見たことがなかった。しかもどこかこちらを馬鹿にした笑い声に、アレクシスは戸惑いながらもそれを隠すようにきつく問い質した。

しかし、浮かんだ笑みは次の瞬間にはストンと消え去り、二コラは凍てついた瞳でアレクシスを映すと。


「王となっても変わらないんですね”おうじさま”は…どこまでも無知で、浅はかで、愚鈍で、幼稚なまま」

「なんだと…!?」


かつてと同じように”おうじさま”と呼びながら、二コラは今アレクシスをなんと言った?


(最下層民の分際で、聖女になってもなお性根醜く、己の身分も弁えずに図々しくも僕に懸想してミリアや父上を傷つけた大罪人のくせして…この期に及んで僕を愚弄する気か!?)


目の前が真っ赤に染まる激情のまま、憎たらしい小娘に制裁を加えるため腕を伸ばしたアレクシスはしかし、


「っあああっ!!?」


バチッと辺り一面真っ白に塗りつぶされたと思ったら、アレクシスは訳も分からずその場に膝をついていた。


「な、な…っあ、ああああああ゛あ゛っっ」


二コラに伸ばしたはずの右手が熱い。先ほどの光で一瞬にして掌が焼かれたことによる激痛なのだと認識するやいなや、アレクシスの喉から絞り出すような唸り声が辺りに響き渡る。



「…女神様が(いかづち)を落とされた」

「お怒りの鉄槌が…」

「…女神になんということを」


「っは、なに?なんだとっ!??」


背後でぼそぼそと落とされた言葉に、アレクシスは信じられないように後ろを振り返る。

前宰相やアンはじめその場の誰もが、夢の中とはいえ大怪我をしたアレクシスを心配するどころか、まるで咎めるような視線を向けているのに、更に意味が分からなくなった。


(なぜ誰も痛がる僕を心配していないんだ?というか雷?怒りの鉄槌?女神様となんの関りがあると!)


アレクシスの前にいるのはあの忌まわしい聖女・二コラであるというのに、納得いかないまま彼女に向き直って、そこでアレクシスはようやくほかの者たちとの間にある大きな齟齬の正体に気づいた。


腰まである緩やかな三つ編みに青々とした蔦の葉のつるが絡まり、露わとなった額には涙の雫型の水晶が輝く。生成りの一枚布を腰の黄金細工が見事なベルトで締めて、幾重にも連なるドレープが美しい古風な装束。

それはこの国の民なら誰もが知っている、我らが敬愛する女神様を象徴する特徴。日々敬虔に祈りを捧げてきたアレクシスにも馴染み深い女神像と、寸分違わぬ出で立ちを何故か目の前の二コラはしていた。


「な、んで…貴様が」


ふと。手の痛みも霞むような、あるひとつの可能性が頭に浮かんで、アレクシスは目を見張った。


(そんな…違う。そんなはずはない、だって、なれるはずがないじゃないか。この娘が、()()()()になんて、なれる資格が…)


必死で否定しようとする思考とは裏腹に、ある事実を思い出す。


新たな女神として選ばれるのは、女神の血を色濃く継ぐ高貴なる血筋の女性であって、この国での最下層民の孤児であった二コラが相応しいはずがない。

しかし、女神の加護を受けた稀有な存在である聖女・二コラ。どれだけ卑しかろうと、彼女は生前に女神に選ばれた唯一の人間であり、そういった意味では最も女神に近しい者であるともいえる、ということは。


不安が徐々にアレクシスの中で肥大化していく。二コラを掴もうとして雷に焼かれた右手の痛みとともに。それを打ち消すようにアレクシスは繰り返していた。


「ちがう、ちがう絶対にちがうはず…こんな、こんな卑しい生まれの者が、最も貧しいみなしごの貴様などが」

「おうじさま」


静かにこちらを見ているだけだった二コラが、不意にアレクシスを呼んだ。


いつもと変わらない彼女がアレクシスを特別に想っての呼び方。

なのになぜだろう。アレクシスはそこに一切の熱を感じないことに初めて気づいた。

舌足らずな響きのそれは、恋い慕うなどとは程遠い、どちらかと言えば…何もわからない無知の幼子にでもわかるよう、噛んで含ませるような、そんな諭すような響きがしていて。


()()()()()、私をよくそうおっしゃいましたよね。最下層民、卑しい貧民窟の出、みなしごで貧しく育った…なんてまるで他人事のように」

「じ、事実であろう。貴様ら最下層民は知識も教養も持たず、ろくに働きもしない怠けきった者たちで」

「それを”家族”と?」

「っ!」


建国神話の成り立ち故、アレクシス達王家が国民を”我らの家族”と呼ぶことを引き合いに出され、アレクシスは一瞬言葉に詰まった。しかしすぐさま反論した。


「当てつけがましいことを言うな!貴様らが貧しいのは働くことを拒むがゆえ、貴様らが無学で卑しいままなのは学ぶことを嫌うがゆえだろう!その日食うための労働を怠け、あまねく国民の為に開かれた神殿管轄の学び舎にも通わぬ者を、”我らの家族の一員”と数えてやるほど甘くはない!」


豊かな実りと災厄のない平和なアイラル王国といえど、悲しきことにそこに住むすべての者が勤勉とは限らない。

王国の主要都市には国営の職業斡旋所があり、そこで望めば職を手にすることは国民であれば誰にでも可能であるし、国内に大小百はある神殿には、文字の読み書きや簡単な算術などを教える無料の学び舎が併設してあり、大人も子供もそこへ通えば一定以上の教養を身に着けることが出来るのだ。

仕事が出来ぬ病人や怪我人を癒す救護院もあれば、親のいない孤児を保護する孤児院も存在している。


アレクシスたち王家はその他にも様々な方法で国民の生活を万全に支えているというのに、それを知ろうともせずまるで被害者のような言い様の二コラに、憤りを覚える。


「貴様の生まれた貧民窟はそうしたどうしようもない怠け者どもの集まりなのだ!それなのに貴様はっ」

「ー本当に?」

「なっ」

「ほんとうに?お う じ さ ま」

「き、貴様…っ」


またもやなにか含みを持って呼びかけてくる二コラに、怒鳴りつけようとしたアレクシスを咎めるように、突如浅瀬の水面がまばゆく輝き始めた。

果たしてそこには、



『汚らわしい貧民どもが!おまえらなぞに雇い先がある訳ないだろっ』

『くっ』

『父さん!!』


粗末な身なりのやせ細った男を足蹴にする、兵装に身を包んだ若い男。何度も乱暴に踏みつけられる男は、泣きじゃくる子供を庇うように抱きしめていた。

彼らの背後には、誰でも一目でわかるようにと統一した設計の元に建てられた職業斡旋所、その扉は閉じられている。


「…は?」


どうやら門番の兵士が職業斡旋所に職を求めに来た男を門前払いしているようで、アレクシスは我が目を疑った。


『神官様のお言葉を忘れた不届き者め!貧民窟の者はそれと分かるように裸足でおれというのに、生意気にも履物(サンダル)なんぞ履きよって』


確かによく見てみれば、踏まれていた男とその子供は不出来な蔓草で編んだものを履いている。しかし、アレクシスの知る貧民達は誰もがみな履物を買う金さえ惜しんで裸足であった。あくまで()()()()()()、とアレクシスは認識していたというのに、これは一体どういうことか。


そんな疑念を見通したように場面が変わる。真っ白な大理石で造られた荘厳な神殿内。女神像の前で、多くの国民に教えを説く高齢の神官が映った。


『我らが家族のみなみなよ…貧民窟の民を哀れむことはない。彼らは女神様の愛する同胞にあらず。彼らはアイラル王国の始祖様、我らが父なる初代国王陛下と王妃様となられた尊き女神様の仲を邪魔立てた卑しきそばめ、それを妻として迎えた罪深き男の血を受け継いだ子の末裔である。

みなも承知の通り、我が国は男女の別なく、みな一人としか結ばれてはならぬ。生涯連れ添わなくてはならぬ。契りを交わした相手がいながらほかの者と情を交わせば、姦通罪により死罪となる。貧民窟の者共はそうした罪深き祖先をもって生まれた者たちなのだ。彼らはその生きながらに負った罪を償うため、履物を禁じられ、我ら家族と同じくする職に就くこと叶わぬ。贖罪の人生において、学びなど一切不要。唯一許された仕事は汚水の溝さらいである。

そして、女であれば、かつての卑しきそばめと同じく娼婦に身を窶す。“我ら家族“に娼婦として奉仕することもまた、彼らの贖罪である。

娼婦どもとの婚姻は貧民窟の男のみ結ぶことが許されている。これは女神様のお慈悲である』


アレクシスはしばし言葉を失った。高位の神官服に身を包んだ神官の、今まで聞いたこともない荒唐無稽な教えも。それをなんの疑問も持たず、神妙に頭を垂れて聞き入っている民の姿も。

なにより、こうして水面に映る信じがたい光景を共に見聞きしていたアレクシス以外の人間が、なんという反応もしていないことにも。


アレクシスは震えそうな声で前宰相に問い質した。


「な、んなのだこれは…こんな、こんな出鱈目な教えを説く神官が、いるとは…民も何故黙って聞いている、こんな…同じく我が国にいながら”家族”ではないなどと!気の触れた者たちをっ、なぜそのままにしているのか!?」

「…恐れながら、国王陛下。これは建国以来から国民に広く知れ渡った共通認識であります。我らがアイラル国民とは、あくまで女神様を王妃と据えられた初代国王様のお血筋を祖先とする者たちのみ。そばめと従者である夫とその間に生まれた子供らは含まれません」

「そ、そんなっ…それを言うなら初代国王の弟家族とて同じこと!」

「彼らは初代様とは血のつながったご兄弟。彼らとそばめらは断じて違うのです」

「なっ!!…知らない、そのような事、僕は一度も聞いたことがない。教わったこともないっ!何ゆえこのような隠し事を我ら王家に!!」


激昂するアレクシスに、尚も前宰相は冷静な態度を崩さず応えた。


「王家の皆様が担われた尊き義務とは、あくまで”我らが家族”の安念。庇護すべき対象もまた同じく。”家族”ではない貧民窟の最下層民は、建国以来女神様の信仰と教義を守り継承してきた神殿庁の管轄にございますので」

「だ、だとしても…国民たちですら知ることを何故僕だけ知らずに…っ」

「…それは」


「だから”他人事”なんでしょう?ずっと。おうじさまは」


言い淀んだ前宰相に代わり、平然と答えたのは二コラだった。アレクシスはどこか恐ろし気に彼女に向き直る。


「…なんだと?」

「私たち貧民窟の人間すべてが何故、まともな仕事に就けないままなのか。知識も教養も学ばないままなのか。裸足でいることが、本気で私たちの意思だと?それらの境遇がすべて、私たちが怠け者で愚かだからだと決めつけて、それ以上深く知ろうなんて思いもしなかったんですよね?年端もいかないひとりで生きていく術を持たないような子供ですら、おうじさまにとっては庇護の対象ではなく、あくまで怠け者の卑しき存在だったんでしょ?」

「そ、それは、だが…」

「建国神話だって、少し考えれば子供でも気づきますよ。初代国王様のそばめは、なんで女神様と結ばれる前から”そばめ”として表現されているのか。初代国王の従者がなぜ、女神様が王妃となった後、”そばめの夫”として扱われるようになったのか…」

「っ!!」


建国神話を学んだ幼い頃、確かにアレクシスも疑問に思っていたことだ。

一夫一妻を法で定めたアイラル王国において、何故、初代国王に妻ではない”そばめ”がいたのか、と。そうして、その”そばめ”を妻と呼ぶ王の従者と、その間に生まれた子供たち。


幼いならながらにも、当時のアレクシスは”そばめが”汚らしい存在のように思えてならなかった。初代国王に仕えながらそのそばめを妻にする”従者”も。

初代国王ではない。不貞を働いているように見えるのは、アレクシスにとってあくまでそばめと従者である。


だがアレクシスは誰に聞くまでもなく自分なりにこう理解することにした。彼らは自分たち王家とは()()()()なのだろうと。

何故なら、彼らそばめと従者の家族は、初代国王とその弟家族に(かしず)き、仕えていた様子が建国神話の中には幾度となく登場する。初代国王と弟家族が一夫一妻を守り貞淑であっても、自分たちとは違うそばめの家族はそうした正しき秩序の中にない、”卑しき”存在なのだと。

神殿庁が運営する公娼館のこともアレクシスは知っていた。そこに出入りするのは娼婦も客も卑しい貧民窟の者たちばかりと聞く、そばめと従者もきっと同じなのだ。


そう頭から信じ切っていたアレクシスには、二コラの言う矛盾など思いつくはずもなく。


「なぜ、そばめたちは…」

「そんなの、初代国王のもともと妻だった女の人が、女神様の出現で立場を追われて”そばめ”に落ちた。女神様を妻としたとき、”そばめ”ですら許されなかったから、都合の悪くなった初代国王が自分の従者に充てがったんでしょ」

「っ!不敬なっ」

「不敬??さすがはおうじさま。これを聞いてまず”不敬”と思うんですね。一夫一妻制の我が国において、元いた妻を”そばめ”扱いして他人に押し付けて、自分だけはその”罪”から免れた男の末裔なだけはある」

「貴様…っ」


盛大な棘を含んで皮肉げに返す二コラに、しかし怒鳴りつけようとしたアレクシスの言葉は続かなかった。


「・・・・・・」


ただ黙ってこちらを静観する他の者たちの態度を見れば、どれほどの愚か者であろうとこれ以上無様に無知を晒す真似は出来ない。


二コラの言葉が、建国神話の語られなかった本当の真実であり、貧民窟の民たちが王家の庇護から外れたまま、今日まで改善されることなく捨て置かれている現状こそが、その証明に他ならない。


そんなことも知らずに、この国の王となったアレクシス。

深く恥いる様に項垂れるアレクシスは、ハッとした。


戴冠の夜の夢の中。集ってきてくれた人の少なさはまさか。女神となった母親が顔を出さないのはもしかして。



「こんな、王としてまだまだ未熟な僕を、みな本心では認めていないのか…」


王宮に詰めかけてアレクシスの即位を喜んでくれた民衆を思い出す。あれほど嬉しそうに、その多くの者たちが家族で祝いに来てくれていたようだったのに。


しかし、これにもまたニコラは冷え切った声で尋ねた。


「国民が、本当におうじさまの即位を喜んでいたと?」

「…まだ何か、楯突くつもりか?既に死人の貴様が見たはずもない。僕の戴冠を我が事の様に喜び集まってくれた、“我が家族“らの笑顔を」


アレクシスの強気な発言の後、奇妙な静寂が生まれた。先程から不遜な物言いのニコラはまだしも、アレクシスを案じて集ってきてくれた者たちもまた、一様に口をつぐみ、気まずそうな表情を浮かべていた。

おかしなことは他にもあった。


(…というか、何故だ?最初より明らかに人の数が減っていないか?)


少なくとも十人以上はいたはずなのに、今は半分ほど少なくなっている。


嫌な胸騒ぎを覚えていると、


「本当に”いい子”のおうじさまのまんまなんだ」

「!まだそんな戯言をっ」


怒鳴るアレクシスを遮るように、またもや凪いだ水面が輝き始めた。

映し出されたのは、アレクシスにも覚えのある、即位式に関する財務大臣との話し合いだった。



『ーそれでは殿下。殿下のご即位を祝して、祝い金を国民に配るというのですね?』

『そうだ。父上が臥せってから約一年、慶事や祭のいくつかも取り止めてしまい、みなさぞ塞ぎ込んでいるだろう。三代前の即位式の際にも、祝い金が配られたという前例もあることだし、少しでも“我が家族”を喜ばせてやりたい。ひと家族につき金貨3枚。決して少なくはないかもしれないが、大臣。なんとか都合をつけてくれ』

『は…承知いたしました』


そうだ。確かにアレクシスは自分の即位に際して、国民へ祝い金を配るように命じた。

愛する“家族”の新しき父として、新たな門出を共に祝いたいと。間違ってはいない、むしろ英断と我ながら思っていた。だが。


アレクシスの執務室より下がった財務大臣が、新しい宰相と人気のない一室で2人きりで話している。

しかし、恭しくアレクシスに接する忠臣然とした普段の二人の姿とは遠くかけ離れていて。


『ひと家族金貨3枚とは、大人の平民が半年でようやく稼げる額だと言うのに、よくもまあ簡単に言ってくれる…』

『仕方なかろう。やんごとなきお育ちであられる“いい子”の王子様が、下々の金銭感覚なぞ解ろうはずもない』

『全く、国王陛下が病に臥してからというもの、作物の収穫量が目に見えて減少しております。市場に出回る食物不足は慢性化しており、併せて諸々の価格高騰、にもかかわらず昨年と変わらぬ税額の徴収、果ては卑しき出自とはいえ聖女を処刑したことにより、全国的に流行病の罹患者が増加。王都の救護院では多額の寄付金を寄越す貴族や富裕層の平民のみしか受け入れぬ始末。平民どもは王家への不満を募らせております』

『さもありなん』

『閣下…新たな国王陛下戴冠の折り、このままでは王家への不信で民衆が集まらぬやも知れませぬぞ』


(父上が倒れてから、なんだと?作物不足も流行病の事も何も僕まで上がってきていないじゃないか…)


アレクシスが混乱している間にも、話は進む。


『ふむ。各国から重要な使者も多数来るというのに、それでは我が国の威信が揺らぐな。

“いい子”の王子様には、今後もしばらくは御し易い操り人形として気持ちよく傀儡されてもらわねばならぬし…ひと家族につき金貨3枚か。

では、祝い金は戴冠式後、王宮前広場での国王陛下の顔見せに家族総出で参加した世帯にのみ配布する、と条件をつけよ』

『は、なんと…』

『そのことを記した触書きを一戸ごとに配り、王宮前広場への出入り口にて、金貨一枚を触書きと交換する、とする。その上で後の戴冠パレードにも参加し、ばら撒かれる祝いの国花を家族の数だけ持ってくれば、後日残りの金貨二枚とも交換してやるとな』

『な、なるほど!それでしたら、王家に不信を募らせる者どもも喜んで参加いたしましょう…しかし、触書きの偽装や、国花を別で仕入れて虚偽の申告をする者も現れるのでは…』

『なに。不正を働き発覚した者は即刻一家揃って貧民窟へ落としてやるとでも付け加えておけ』

『はは!それは覿面でしょうな。では、そのように…ちなみに、殿下へは』

『必要ない。なにも知らぬ方が新国王陛下とて、幸せというもの』

『然り』

『これにて、ひとときは国民の不満も抑え込めよう。出した出費は来年、税額を引き上げれば容易に回収できる』

『さすがは閣下』


またもや知らぬことばかりが当然のように流れていく。受け入れ難い言葉や発言は確かにあったはずだが、それよりも尚、アレクシスにとっては容易に信じることが不可能なことが語られていた。


(僕の晴れの姿を見るのに、金を配らなければ民が集まって来ないだと?そんな馬鹿げたことを、この二人は裏では本気で思っていたなど…)


しかし、そんなアレクシスの複雑な胸中の葛藤とは裏腹に、次に映し出されたのはごく一般的な平民が暮らす質素な家の中のようだった。

王家から出された件の触書きをグシャリと握りつぶした男を、横にいた女が嗜める。


『あなた!この触書きは金貨と交換できるんでしょう?大切にしなくては』

『わかってる!だが、なんともケチ臭い話だ。偉そうに祝い金を配ると言っときながら、蓋を開けてみりゃ、新国王の戴冠式に家族総出で参加しろなんぞ…しかもパレードでまで新しいご主人様に行儀良く尻尾振れってか。こんなの祝い金じゃねー、参加報酬の間違いだろ!

…王様が倒れられてから、どうもこの国は様子がおかしい。“大陸一の奇跡の国“が聞いて呆れる。ここらでも流行病に罹った奴の話をチラホラ聞くし、せっかく現れた聖女様をまさか処刑しちまうなんて…バチが当たったんじゃねーのか!?』

『不敬な物言いはやめとくれよ!誰かに聞かれでもしたらどうすんの!』


焦って必死で宥めようとする女に、しかし男の怒りは収まらない。


『家族総出だぞ!?せっかく聖女様に診てもらって治る目処のついてたお袋が、今も寝たきりで苦しんでるのは誰のせいだと思ってる!』

『あなた…』


二人が深刻な顔で見つめる先、薄い仕切りの向こうで寝ている女性は、男の母親であった。

彼女は数年前、とある貴族の屋敷に掃除婦として働きに出ていたが、意地悪な主人に目を付けられ、特に悪いこともしていないのに、何かと理由をつけてことある毎に折檻されるようになった。

折檻は次第に過激なものとなり、ついに大怪我を負わされてしまった。その上、彼女に非があるとそのまま一方的に解雇を告げられ、未払いの給金も支払われぬまま。

だが、そんな扱いを受けたと平民が訴え出たところで、誰が聞いてくれるというのか。


『聖女が王様に毒を盛ったって話らしいが、俺ら平民の誰が真正直に信じるかってんだ』


「っ!」


水面に映る光景を見ていると、不思議なことに平民の男の心情や、かつて男の母親が体験した悲惨な過去などが己の身に起きた事のように脳裏を駆け抜けていく。

アレクシスはじめ、その場の誰もが体を強ばらせ、苦悶の表情を浮かべた。


確かにこの王国は長らく平和で、食うに困らぬ程度の実りが続き、天災の類も起きない。他の国と比べればまだマシなのかもしれない。

しかし貧富の差があり、身分の差がある。最下層の貧民窟の者たちでなくとも、平民はいつだって貴族に好き放題され、最悪殺されても文句は言えない。万一貴族や神殿に楯突いたり、身分の高い者へ危害を加えれば、すぐさま兵士に引っ立てられて、全ての財産を没収された上で貧民窟送りとなる。


先頃、また1つ新たな貧民窟が出来たと耳にした。王が倒れ、貴族や神殿の横暴な振る舞いが目立つようになり、それに付随して割を食った平民達が貧民窟に落とされる事例が多発していたのだ。


それから約一月後。


戴冠式後の王宮前広場、何も知らない綺麗な顔で嬉しそうに下々の民衆に手を振る新国王となったアレクシスを憎々しげに睨みつける男の姿があった。彼の隣には妻である女が悲しげに佇んでいた。ここにはいない彼の母は、戴冠式の数日前に既に息を引き取っていた。


『何が“我が家族”だ』


「!!」


男は、アレクシスが独りよがりにもそう宣う度に虫唾が走った。自分達の苦悩も苦痛も何も知らず、何が“家族“か。誰が“父“の役割を果たしているというのか。本当なら頼まれても顔も見たくなかったというのに。

それでも生きていくために、金は必要で。金貨三枚の為に、歯を食いしばってはるか上で手を振るアレクシスの目を喜ばせるための要員として、バルコニーを見上げる。

辺りを見回せば、男と似たような顔つきの人間は数えきれないほどいた。


アレクシスが知る由もなかった、今朝の戴冠式後の一幕である。






「…あの者たちは、浅ましくも金に釣られて集まったと?」


全身の力が全て抜け落ちたように、ぐったりと放心したアレクシスから無意識に出た呟きに、前宰相は鋭い声を上げた。


「国王陛下。そう仕向けたのは間違いなく王家です。国民の暮らしに目を向けることなく、声なき声を拾うこともせず、己が望みばかりを押し付け、果ては道具として利用なされた。彼らのことを案ずるならまだしも、決して非難なさらぬよう」

「…叔父上」


あまりにも多くのことを突然知らされたアレクシスは整理が追いつかず、持て余す感情のままに前宰相を睨みつけた。


「なぜ、…止めなかった。なぜこんな、僕の、この国の新たな国王の門出に泥を塗るような真似をっなぜ!!」


掠れて上擦ったアレクシスのお門違いな叱責に、前宰相は一瞬瞠目してから、悲しげに目を伏せる。


「…最早、お忘れになったのですか?私はその頃、既に貴方から(いとま)を出されておりました」

「それ、は…」


途端にアレクシスの怒りが萎んでいく。


「宰相とは言え、私は貴方の叔父に当たる身の上。先の陛下…兄上がお倒れになって、烏滸がましくも新たなる為政者となられる若き貴方に正しき道を歩んでほしいと貴方のなさる事、幾度と諫言いたしました。しかしそんな私を疎まれるようになり、遂にはミリア嬢の父君である現宰相に席を譲るように、と」

「お、叔父上…」


滔々と告げられた言葉に、アレクシスは気まづげに目を逸らした。

当時、父王が倒れ急遽国王代理を担うようになったアレクシスだったが、本格的な政務など勝手がわからず右往左往する事も多かった。叔父である宰相はそんな未熟なアレクシスを補い支えてくれたが、何をするにも訂正や否定でいちいち返される事に、不満を持つのは早かった。

確かに長年父王の右腕として国政に従事した宰相である。まだ完璧とは言えないアレクシスのやり方を指導するのもわからなくはないのだが。


そんな愚痴をミリアに零して数日も経たずに、彼女の父親が顔を見せるようになった。

地方貴族の出ながら神殿庁に長らく勤め、王都大神殿の神官長にも就いたことのある経験豊富なミリアの父親は、経歴に似合わぬとても気さくで腰の低い人格者であり、アレクシスはすぐさま彼を気に入った。

彼に色々相談するようになるのに時間は掛からなかった。

アレクシスのどんな些細な惑いも見過ごさずに、具に掬い取って肯定してくれるのが心地よかった。

それとは対照的に日に日に叔父が疎ましくなり、遠ざけようと思い始めるようになったのだが。


ある日天啓のように閃いたのだ。自分の治世において、何事にも頑なな叔父がこのまま宰相を務めるより、柔軟な思考を持つミリアの父が新たな宰相の座に就き、国政にも新たな風を吹き込む方がこの国の為になるのではないのか、と。


それから話は順調に進んだ。アレクシスの願い通り、叔父である宰相をはじめ、旧態依然とした数人の大臣と侍従長の首もすげ替えられた。

ーミリアの父、新宰相に都合の良い人材で固められたことにも気づかぬまま。



「…とはいえ、貴方は私にとって、新たな国王陛下であるよりも前に、敬愛する兄上のお子、大切な甥御でありました。今宵も出席は叶わぬとも、陛下のご戴冠、心よりお喜び申し上げておりました。…が、この先、再びお会いすることは生涯ないでしょう。ー誠に、残念です」


その言葉を最後に、前宰相の姿が霧のように消えていく。アレクシスは悲鳴を上げた。

それはまるで、前宰相がアレクシスを心から見限った瞬間のように思えてならなかった。


「いやだっま待ってくれ叔父上!話をっ話を聞いてくれ!本意ではなかった!!誤解なんだっあああ!叔父上ぇっ!!」


消えゆく前宰相に追い縋るアレクシスを他所に、他にも一人、またひとりと姿が消えた。


血の気の引いた真っ白な顔でアレクシスは辺りを見渡す。

残ったのは乳母のアンと、愛馬を世話した厩番、年老いたかつての護衛騎士。

彼らも強い戸惑いを隠せずにアレクシスを見つめている。


(なんだこれは、なんでこんなことになったんだ…僕は知らない。僕は知らなかったんだ…そうだ、僕が知らないことばかり突きつけられて、訳がわからない。誰も教えてくれなかったっ、誰も知らせないくせに、隠してたくせに、まるで全て…全て僕が悪いというように、こんな、こんなっ)


右手の痛みもとっくに忘れ、しばらく発作のように頭を掻きむしり続けたアレクシスは、ハッと思い出したようにしばらく無言でいたニコラを見上げた。


そうだ。アレクシスは思い直す。ニコラが現れてから何もかもおかしくなった。

本来なら、今宵は王となったアレクシスが、皆に祝われ見守られるなか、愛するミリアに隣で微笑まれ、病床にある父王と涙の再会を果たし、新たな女神様となった母と感動的な対面を果たす、そんな人生最良の夢であったはずなのに。


「き、さまがいるから。貴様が、図々しくも夢に現れたりするから。こんな寒々しい不毛の地!お前がいるからこんなんなんだ!勝手に女神様の泉を使ったりするからおかしなものばかりが映されたのだ!!…そうだ、貴様は…大罪人。愛するミリアを手酷く虐げ、多くの者を傷つけ、父をっ、我らが国王陛下に毒を盛った!!大罪人の分際で!処刑された分際で!!恥を知れっこのっ気狂いの大嘘つきが!!!」


血走った目を見開いて、ぐちゃぐちゃに乱れた髪を振り乱し、唾飛ばして声の限り叫んだアレクシス。

普段の美麗さは欠片も残っておらず、その姿は常軌を逸していた。叫んだ言葉も支離滅裂で、乳母のアンの姿がこれ以上見ていられない、とでも言うように、後ろで音も立てずに消えたことにも気づけていない。


ニコラは先程までのように気安く口を開くことはなかった。

ただ、フッと諦めたような乾いた笑みを浮かべると、無言で水面を指差す。途端今まで以上に輝きはじめたそれに、アレクシスは全身を硬直させた。


「あ、ああ、あ、あ、あああ…」


別に何が映りはじめてもいない内から、無様な呻き声が勝手にアレクシスの口から出ていく。


見たくもないのに逸らすことの出来ない水面には、アレクシスが信じていたものの真実が、これまでと同じようにひとつひとつ丁寧に映し出されていった。




聖女ニコラから虐げられていたはずのミリアが、王都大神殿内の人払いした部屋で、日夜ニコラをあの手この手で虐げる姿。


アレクシスがミリアと出会ったのはちょうどこの頃。聖女の様子伺いに訪れた神殿の中庭で、ポロポロと涙を零すそれは美しいミリアと出会った。

「あるお方の仕打ちが悲しくて…」神官長の娘であるミリアが慮らなければならない存在。誰に言われずともアレクシスは勝手に察した気になって、泣いて震えるミリアの肩を抱いたのだった。そこから急速に2人の仲は深まっていった。


あんな恐ろしげな顔で、当の聖女ニコラを様々な方法で楽しげに虐げていたとも知らずに。

時に棘の付いたムチで背中を打ち、時に数人で押さえつけさせて腐った食べ物を食わせ、時に罵倒を浴びせて冷水をぶち撒け、寒い冬の夜にそのまま放置した。

ミリア以外に聖女ニコラに虐められたと訴えていたはずの者達も、嬉々として虐めに加担していた。


一年前のあの日。父王に毒を盛ったのも、ミリアであった。

嘘の命令で王宮にニコラを呼びつけたタイミングで給仕の者に毒を仕込ませ、それを知らずに父王は出された毒入りのワインを飲み、見計らったようにミリアが発見してみせた。毒は新宰相が用意していた。


確かにニコラは当時、一貫して自分はやっていないと訴えていた。すでにミリアと恋仲であったアレクシスをはじめ、誰一人として卑しい貧民であったニコラを信じることなく、着々とニコラの処刑への手続が進められていったのだ。


そんな毒に倒れ、病床の父が何故寝込んだまま、起きられないのか。


水面は唐突に“今”を映した。

途端、アレクシスはその場で嘔吐した。他の残った者たちからも悲鳴が上がった。


「ひいっ」

「なんて罪深いことを…!」


先ほどアレクシスと同じベッドで寝たはずのミリアが、どこかの机の上、大きく耳障りな音を立てながら、新しい侍従長となった男と獣のように絡み合っていた。

そういえば、あの男はミリアとは乳兄妹であり、兄のような存在なのだと無邪気に言っていたミリア。彼女の笑顔が脳裏に浮かんで、またアレクシスは迫り上がって来るものを抑えきれなかった。


側に山と積まれた書類の束が床に散らばる。そのいくつかに見覚えがあり、アレクシスはあの二人が睦み合う場所が自身の執務室であることを知った。


(道理で…()()にいないはずだ)


つい数刻前、確かに同じ熱を分かち合った相手だというのに、アレクシスには何か別の生き物のように悍ましく見えた。


『ねえ。ねえっ本当に大丈夫なんでしょうね!?前国王はっ』

『心配いりません。世話付きの侍女はみな我らの子飼い。日夜飲ませている薬湯は、必ずや前国王の死期を早めるはず』

『まどろっこしい…わたしの“いい子”がやっとこの国の王となったのよ!?目の上のたんこぶは少しでも早くいなくなってもらわなくちゃ』

『怪しまれぬよう、ここは慎重に参りましょう』

『聖女ニコラの“呪い”なんて…ふふ!あんな女…多少の傷か病か治せるだけの最貧民のみなしごに、そんな知恵も力もあるはずないのに。ほおんっと“いい子”の王子様はなんでも馬鹿みたいに信じちゃって可愛いわあ!』

『ああ、ミリア様…まさか、本気であの男を』

『もお、嫉妬?本気なわけないじゃない、あんなお子ちゃま!わたしが本当に好きなのあなただけよ。

それでも、お父様がこの国を牛耳るためには1日でも早くわたしがあの男との間に子を作らなきゃなんないの。あの男の子を産むまではせいぜい優しくおだててあげなきゃ。

でもね?さっきなんか“初夜“だっていうのに、夢で女神になった母親に会えるとか、父親に会えるとか?それと女神はなんでも知っているとかなんとか…よくわからないけどすっごく薄気味悪いこと言い出して…ああ!思い出したらなんだかまた怖くなってきた…ねえ!もっと強く抱きしめて?何もかも忘れるくらい!』

『仰せのままに』


その後、再び始まった獣の交尾をぼんやり眺めながら、誰もいなくなってしまったことなど気に留めることなく、アレクシスはニコラの顔も見ぬまま尋ねた。


「父上と、母上は…?こんな出来損ないのどうしようもない役立たずの僕に会いたくないから、いないのか?」

「…先の国王陛下が“呪い”に遭われたのは、本当ですよ」


「は?」


ニコラのまさかの返答に、アレクシスは目を見張った。

父王に毒を盛ったのも、その後病状が回復せず悪化するようになんらかの毒を飲ませ続けているのも、ミリアと侍従長、そして新宰相であるはず。

“呪い”などという物騒な現象をアレクシスは認識したことがなかったが、本当に実在するというのか。


だとしたら他の誰が…無意識にニコラへ視線を向けると、なんの感慨も無さそうにニコラは首を横に振った。


「私じゃありませんよ。そんな意味のないことする理由ありませんし…ただ、そうですね。先ほど言ってましたよね“新国王陛下”…ここを寒々しい不毛の土地だって」

「あ、ああ…」


此処にきて突然、呼び名が改まって狼狽えそうになるのをなんとか落ち着けて、アレクシスは続きを促す。


「かつては草花が生い茂った、本当に美しい場所だったみたいです。でもある出来事が起きてしまって、一瞬にしてこんな地になってしまい、泉も枯れた。少なからずいた他の女神様たちも、みんなどこかにお隠れになってしまってます。ずっとずっと見守ってきた“家族”が、あんな風になってしまったのが、悲しかったんでしょうね」

「他の、女神様…」


アレクシスに怖気が走った。

それは、いうまでもなく、アレクシスたち歴代王家に連なるだろう血筋の女性たち。アレクシスの祖先もまたあんな風に現世を見ていたのだとしたら。


「な、なぜ…女神様方は教えてくださらなかったんだ?」


性懲りも無く、そんな人任せで無責任な言葉がアレクシスの口を突いて出た。言った途端に青褪めるまでを、じっと無言で見下ろしてから、ニコラは不意に遠い目をした。


「この場所に住まう女神様は、なんでもできる訳じゃありません。アイラル王国のみを贔屓して守護してるから、建国以来、他の神様たちからはとうに見放されているようです。現世への干渉も、聖女の加護を与えることと、あとはせいぜい、こうして新王の戴冠の夜の夢で、みんなで集まって、時に現世の子孫を叱咤激励するくらいだと………もっと干渉できたなら、私だって」

「え?」

「…いえ。さて、前の国王陛下でしたね。あの方を呪ったのは、私の前に女神様となったお方です」

「前、だと…?」


アレクシスはその先を聞きたくないような気がした。


「呪いと言っても、あの方にその自覚はないんだと思います。ただ、あまりの悲しみと絶望に耐えきれなくなって、昏睡状態にあった前の国王陛下の“魂“を攫って閉じこもっちゃったみたいです」

「その、その…女神様とは…」

「ああ…言うの忘れてましたけど、すぐ“下”におられますよ」


こともなげに言ったニコラに、アレクシスは意味を測りかねた。


「?何を言う。ここは…女神の泉では」

「さっき言いませんでしたか?“泉も枯れた”って。まあ、言ってみればここも、()()()()では“女神様の泉”かもしれませんけど…」

「何が、いいたい?」


そこでニコラは初めて、慈悲深い笑みを浮かべてみせた。


「貴方のいるその水溜まりは、女神様の流した“涙”です。先の国王陛下の魂を攫ってきてからずっと、女神様は泣いて暮らしています。こんな大きな水溜まりができるほど…呪われてるのはむしろ、女神様の方かもしれませんね。徐々にその体から神聖な力が溶けだし、やがて自己を保てなくなるかもって、他の女神様たちが嘆いていました」

「は、あ…あ…」


アレクシスの鼓動が速くなる。今にも胸を突き破りそうな心臓を上から押さえつけていても、今にもどうにかなってしまいそうだ。

あの日。父王が毒を盛られ、聖女ニコラが濡れ衣を着せられ捕らえられた、あの日。

出来ることなら今すぐあの日に戻りたい。

無知なアレクシスが、ミリアたちの策謀にも気づかず、愚鈍にもなんの調査もせずにニコラを犯人と決めつけた。あの男(アレクシス)を今すぐ殺してやりたいのに。


「ほら。水底をよく目を凝らして見てください。いらっしゃいますよ?ー貴方のお母様が」


踝辺りまでしか浸からない浅瀬だと思っていた。

しかしニコラの言葉に操られるように下を覗くと、足裏のさらに底が抜けて見え、水の色がぐんぐんと暗く、深く沈んでいく。

どこまでも深い水の底に、水草のように揺蕩う長い髪が浮かんでいた。真っ黒な球のような塊を大事そうにお腹に抱えた、女性の姿。

彼女はふと、こちらをふり仰ぐように、絶望に染まった双眸でアレクシスを捉えた。晴れ渡る青空のような、アレクシスと同じ色をした、その瞳で。









「あ、あああああああああああああああああああっ!!!!!」



断末魔のような叫び声を上げて、アレクシスは飛び起きた。

寝汗で全身がびっしょりと濡れていた。まるで長い間水に浸かっていたのかと言うほどに身体が冷え切っている。なんの傷もない右手を呆然と見つめるが、その手は無様なほど大きく震えていた。


「あ、あ、あ」


「ちょっと!陛下?さっきの叫び声はなあに?隣の部屋まで響いてきたじゃない」


クスクスと軽やかな笑みを浮かべながら、ミリアがアレクシスのいる寝室に入ってきた。

可憐で愛らしい見慣れた姿。しかし、唐突にある一点を指差して笑い始めると、


「やあだ!陛下ったら、股のその染みなに!まさか、おねしょ?うっそお信じられない!昨日戴冠されたばっかりって言うのにもう!まだまだ“お子ちゃま”なんだから」

「っ!!」


その言葉を聞いた瞬間、アレクシスの脳裏に昨夜の獣のように悍ましいミリアの姿が呼び起こされ、衝動のまま握りしめた拳をミリアの顔面に叩きつけた。


「があっ!!!?あ゛っ!??ひいっいやあ゛あ゛あ゛あああっ何、なにすんのよ突然っ!!!」

「貴様あああっ!!!この汚らわしい売女が!アバズレが!!よくも父上に毒を盛ったなっ!!!」

「な!!な、なんで…そ、そんな!?知らない、わたしじゃないわよ!わたしなわけないじゃない!陛下!いやあああっやめっ!ひぎっ!!べ!やめでぇ!!」


馬乗りになって激情のまま何度もミリアの憎い顔を殴りつけ、渾身の力を込めてそのか細い首に手をかけた。


「殺してやるっ!!!お前のせいだっ!!!お前のお前のお前のせいでっすべてっ!!!父上も母上もみんなみんなお前がああああああっ」


「ー陛下!?なにをなさっておいでです!」

「きゃああああああ!ミリア様がっ!だれかっ誰か早く宰相閣下を!」

「侍従長様を呼べ!!」


騒ぎを聞きつけた者たちにより、すぐさま乱心したアレクシスはミリアから引き離されたが、あまりの暴行に既にミリアは虫の息であった。


「うううっははうえ、ははうえははうえええっごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなざいいい」


幼子のように頭を抱えて泣きじゃくるアレクシスに、周囲の者は皆気が触れたのだと、恐れ慄いた。


その後、現場に到着した宰相により、アレクシスは幽閉された。


しばらくしていくらか冷静さを取り戻せたアレクシスだったが、夢で見たことをいくら訴えても、誰も取り合わず、それどころか王宮内の半数以上の者が、既に宰相派にすげ替わっている現状では、何ひとつ打つ手立てがなかった。


数日後、前の国王陛下崩御の訃報が王国内に伝えられ、民の間に衝撃が走った。

さらに一ヶ月後、後悔と自責の念に耐えられなくなったアレクシスが自死しているのが発見され、時を置いて現国王陛下が病死したと伝えられた。


アイラル王国は建国以来の混乱に包まれた。




ーそんな中、人知れず“女神の加護”を受けた少女がひとり。


前聖女と同じ貧民窟で生まれた娘であったが、そんな彼女を密かに訪ねてきたとある壮年の貴族がいた。


「聖女様、今この国はかつてない混乱の最中にあります。不肖の身ではありますが、どうか御身を当家で保護させていただきたく」

「貴方は、確か…前宰相閣下、ですよね?わたしがなぜ“聖女”だと?」

「ー夢を、見ました。ひどく物悲しい大地で、聖女様の行く末を案じられ、私に守ってほしいと願われる女神様の夢を…その方は、先の聖女様と瓜二つでいらっしゃった」

「え!ニコ…?まさか、あのニコラが?」


新たな聖女・エリスは、ニコラより3つ下の孤児であり、物心つく前から一緒に暮らしていたニコラとは、本当の姉妹のように育った。

ニコラはこの貧民窟で、身寄りのない孤児たちをまとめ上げるリーダー的存在だった。

頭が良くて、腕っ節もその辺の男の子より強くて、怖い大人にも決して怯まない。エリスに沢山の愛情を注いでくれた、誰よりも優しい大好きなニコラ。

早く大きくなって今度はエリスがニコラを守りたいと思っていた矢先に、ニコラは聖女として神殿に連れて行かれた。


聖女の証明とは、治癒能力の発現に他ならない。

かつて怪我をしたエリスを癒したところを近くの大人に見咎められて、ニコラが聖女であると知れ渡ってしまった。あの時のことをエリスは今でも深く悔やんでいる。


だからこそ、エリスは慎重に行動していた。大好きなニコラが理不尽にも処刑され、その後を引き継ぐように聖女の力がエリスに宿った。これは絶対ニコラの導きだと、エリスは信じて疑わなかった。

この力は、理不尽ばかりを強いる貴族や神殿のためなんかに使わない。この貧民窟で、ニコラやエリスが守ろうとした小さな命を守るために使うのだ。


「…私は、貴方様たちの“家族”ではありませんよ?…貴族様や神殿の為に聖女をするつもりはありませんから」


警戒の色を濃くして不遜にもキッパリと言い切ったエリスにしかし、前宰相は穏やかな顔つきを崩すことなく、深く頷いた。


「勿論、聖女様のなさりたいようになさるとよろしい。もとより、我らは“家族”などではなかったのです。あんなものは傲慢な為政者にだけ使い勝手の良い方便に過ぎない」


深い悔恨を滲ませた様子の前宰相に、エリスは瞠目した。


「…宰相閣下?」

「“前”宰相です、聖女様」


「…ふ」


すかさず律儀に訂正してきた前宰相に、気の抜けたように笑みを零したエリス。

まだ全面的に信じることは出来ないが、目の前の貴族はこれまでエリスがイメージしていた“傲慢なお貴族様“とは、もしかしたら違うのかもしれない。


何より、女神様が…ニコラが引き合わせてくれた出会いなら、エリスは決して無駄にはしないと心に決めた。


ニコラはかつて、よくエリスに話してくれた。


『私たちみたいな子供がさ、もうこれ以上増えないようにしたいんだよね』


貧民窟で生きる孤児は、その大多数が娼婦の捨てた子供だ。

貧民窟に暮らす女は、15歳を超えると神殿庁が各都市で運営する公娼館に強制的に連れていかれて娼婦となる。

そこで10年の奉仕義務を言い渡されるが、半分以上の女は10年を待たずに死を選ぶ。

残りの娼婦は10年の奉仕義務を明けて貧民窟に戻されるが、心身ともにボロボロな女が多く、誰もがみな短命であった。


神殿の教えにあるように、貧民窟の男は娼婦の女とのみ婚姻を結べるが、継続して円満な夫婦生活を送れる者たちは極端に少ない。大体はすぐ別れるか、死別する。

建国以来一夫一妻の価値観が強く深く根付いたこの国では、たとえどれだけ愛していようと、他の相手と関係を結ぶ娼婦を心から受け入れられる男は少なく、女の方もまた自らを罪深き存在として許容できなくなるのだ。


そのため破綻した夫婦の間にできた子供は、どちらにも引き取られずに捨てられることが多かった。ニコラやエリスもその口だ。


『馬鹿みたいだよね。私たち自身は何にもしてないのに、生まれた時から卑しい存在だって言われてさ。大人になったらその証明みたいに娼婦にされて、また私たちみたいな子供が出来る…何が“女神の寵愛を受けた奇跡の国アイラル”だよクソッタレ!!』

『ニコ…』

『だからさ、もういい加減こんな地獄みたいなサイクル私たちで辞めたいんだよね…てまあ、どうしたらいいかわかんないけど』


そんな話をして少しした頃だった。ニコラに“女神の加護”が表れたのは。


(大好きなニコラ。ニコが処刑されたって聞いた時は本当に目の前が真っ暗になった。出来ることなら私もすぐ後を追いかけたいくらい悲しかったよ。でも、ニコがしてたこと引き継いで、小さな子たちの面倒見てたから、そういう訳にはいかなかった。あの子達を放ってニコのとこ行ったら、絶対怒られるしね)


次の年を明ければ、エリスは15歳。

聖女に選ばれた自分は娼婦に落とされるのを免れるかも知れないが、他の子たちは違う。ウジウジしている時間はないのだ。



「それじゃあ…まずは、私のお話を聞いてくれますか?前宰相閣下」

「勿論です。それと私はグェンダル、と申します。どうぞこれからは気安く名でお呼びください。聖女様」

「それじゃあ、私のことも、エリスで」


(見ててねニコラ。私、絶対にニコラの想い成し遂げてみせるよ。絶対絶対、みんなを救ってみせるから!)


雲の合間から差し込んだ光を浴びて、エリスは決意を新たにした。



























「頑張りすぎるなよー。幸せになってくれたらいいんだよー」






なぜ公娼舘が神殿管轄なのか、なぜニコラが聖女に選ばれたのかとか・・・入れきれなかった箇所いくつかあるので、いつか追加できればいいな、と。


お粗末様でした。

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