表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

快炎鬼・外伝

作者: 吉田四郎


・その一

西暦20XX年・秋。

その日の朝のウエディングドレス姿の糸川真央は、大きな花束を胸元に持ち、弾けるような笑顔で、数段に椅子が設置されている前列の中央に座ると、タキシード姿の氷室丈二が緊張した面持ちで、真央の横に並んで座った。

 二人が並んでいる後ろには氷室家と糸川家の両親が立ち、丈二と真央の友人、知人たちは、結婚式場内の白壁をバックに新婦新郎と両家の家族を取り囲んだ。

集まった人たちの前でセットされていた三脚カメラのフォトフレームの中に、全員が綺麗に収まった。

三脚カメラのレンズを覗き込みながら、彼らに色々と手で指示していた政岡は、カメラをオートにセットして大急ぎで集合写真の中に入り込むと、ほどなくしてシャッターの切れる音がした。

カシャッ!

ウエディングフォト撮影は、全員の笑顔が見事に揃い、上出来の一枚の写真に仕上がっていた。

―――

 畳敷きの簡素で小さな部屋の布団の中でパッチリと目を見開いた真央は、そのままの状態で暫く天井を見つめていた。

「夢にまで見る花嫁姿って、よく耳にするけど……」

「私、初めて見たわ。自分の結婚式の夢を……」

ホテル側が用意していた浴衣着のまま布団から出た真央は、窓際のカーテンを一気に開けると両手を上に上げて伸びをして、清々しい朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。

「ああ、気持ちいい」

「正夢になってくれたら、もっといいのに……」

2階の窓から見た裏庭の芝生は綺麗に手入れされていて緑も鮮やかで美しく、大きなホテルの建物に沿って横に広く伸びていた。

裏庭の前方は雑木林になっていて、枝葉は鬱蒼と生い茂り、山の大きさはどれほどなのか、判らないようになっていた。

「ちょっぴりオーシャンビューを期待していたんだけど……」

「仕方がないわねぇ。ここは乗務員用の部屋なんだから……」

―――

国道171号線は京都市南区から大阪府の高槻市、茨木市、箕面市などを経由して、兵庫県の伊丹市に至り、西宮市と芦屋市を経て神戸市の中央区に至る一般国道のことである。

京阪神地域では国道171号線を「西国街道」又は「イナイチ」とも通称し、幅広い4車線の上下線を走行する車の量は、今もなお昼夜を問わずに多い。

先行車の大型運送トラックとの車間距離を適度に保ちながら、国道171号線を快適に走行している「京都ミカド交通・観光バス」の車内には、ツアーガイドの糸川真央の姿があった。

真央は前方の景色が大きく見通せるフロントガラスを背にしながら、乗降ドア近くに立っていた。

乗客は初老を迎え始めた男女混合のツアー客たちだが、ツアーに参加したメンバーは少なく、バスの後部は空席が目立っていた。

前席に集まっている客たちの話題は豊富なようで笑い声も多く、いつまで経っても話は絶えそうも無く、車内は和気藹々の状況が続いていた。

乗降口の近くに立っていた真央は、左手で車内の一部に手を添えて身を支え、右手に伸縮自在の有線ハンドマイクを持ちながら、まもなく終点が間近に迫ったことを、ツアー客たちの話題が途切れるのを待ってアナウンスを始めた。

「皆さま、大変にお疲れ様でした。秋はやっぱり観光のシーズンですね。バスは中国縦貫道を走って来ましたが、天王山トンネルの2車線と、京都南インターの出入り口が大渋滞との情報が入ってきましたので、私たちは今、一般道の国道171号線を走っています」

「もう暫くしましたら京都駅付近に到着の予定ですが、皆さま、お忘れ物だけは無いようにお願いしますね」

「今日は中学時代の親睦会の旅行だったそうで、お天気でよかったですね。今日の『安芸の宮島』はいかがでしたか?」

前席の幹事さんらしき女性が、笑顔で答えた。

「楽しかったで~す」

「今日の参加者は16名だったそうですが、多いのですか、それとも少ないのですか、こんなものですか?」

「こんなもので~す。同窓会と違いま~す」

真央は温厚そうな年配の男性に問いかけた。

「先生がご同行でしたが、先生は来年も?……」

「喜んで……」

先生は即座に応えた、

真央はラストガイドの口上に入った。

「長旅になりましたが、どうか、お気を付けてお帰り下さい」

「本日の担当は運転手の高田春男とガイドの糸川真央でした。皆さま、どうも、お疲れ様でした」

「どうぞ、お気を付けてお帰り下さい」

前席の幹事さんらしき女性が真央に取って代わるようにして立ち上がり、大きな声で乗客たちに笑顔で言った。

「また、会いましょう!」

真央は振り返って助手席に付くと、車内の前方の左右に設置されている2台のテレビが同時に点き、同じ画面には当時の一世を風靡した一昔前の大人気漫談家が扇子を大きく広げ、舞台の上から客席に語りかける姿が映し出されていた。

漫談家は「お嬢様、お綺麗ですね」「あれから40年……」「私は女性を見る目がなかったのです」と乗客たちをドッと笑いの渦の中に巻き込み、賑やかなバスは京都に向かって快適な帰途への走行を続けていた。

―――

秋の夕日が傾きかけたころ、建築資材の砂利を満載した大型のダンプカーが、西に向かって突っ走っていた。

爆走を続けるダンプカーは、追い越し車線を制限速度で走行中の乗用車の後部に急接近した。

ダンプカーはクラクションを鳴らしてあおると、乗用車はスムーズに左車線に入り込み、追い込み車線の右側走路をダンプカーに譲って先行させた。

車線を譲られたダンプカーは乗用車を追い越し、しばらくスピードを維持した状態での出来事だった。

脱輪事故の多くは左後輪に負担が掛かって脱輪するのだが、このダンプカーは違っていた。

金属疲労によるボルトの緩みなのか、それともナットの締め具合が悪かったのかは判明できないが、右後輪の外側のタイヤが走行中に吹っ飛んだ。

車軸に残されていたもう一本のタイヤに負担が急激に掛かってバーストすると、トレッド部やサイドウォール部が瞬時にして破壊され、タイヤの機能が失われたダンプカーは、細切れに寸断されたタイヤの破片を撒き散らしながら、激しい音とともにアスファルトを深く傷つけると、ガクンと急激にスピードが落ちた。

乗用車の6倍もあるダンプカーの冬用のタイヤの直径は約1㍍、重さは90から100キロもあり、脱輪したタイヤはスピードが落ちたダンプカーを追い越すと、物凄い勢いのまま中央車線を越えて反対車線へ吹っ飛んで行った。

右後輪の内側のタイヤがバーストしたダンプカーは、大きく右にハンドルを取られると、遠心力で車体が傾き後部は左に大きく振られたが、幸いにして横転を免れ、西向きの2車線を完全に封鎖した状態で停止した。

道を譲って左車線を走行中だった後続の自家用車は、前方のダンプカーの突然の異変に気付いて慌てて急ブレーキを踏んだのだが間に合わず、ダンプカーの右側面に激突すると、自家用車の後ろを走行中だったワゴン車も事故車の自家用車に突っ込み、3台の多重事故が発生した。

車軸から吹っ飛ばされたタイヤは中央分離帯の無い中央車線を飛び越えると、反対車線を勢いよく西に向かって転がっていた。

バウンドしながら転がるタイヤのスピードは落ちることはなく、むしろ加速されながら大きく弾み、飛ぶようにして転がっていった。

―――

京都市内に向かって快適な走行を続けていた「京都ミカド交通・観光バス」の運転手が前方車線を猛スピードで飛び込んでくるタイヤを目撃したのは、あっと思った一瞬だけだった。

運転手は急ブレーキを踏んだのだが時すでに遅く、前方で一度大きくバウンドしたタイヤは走行してくる観光バスに真正面から飛び込むようにして直撃した。     

ドカンと爆弾が落ちた時のような凄まじい衝撃音とともに、フロントガラスに網目模様のヒビ割れが生じ、バンパーは大きく凹んで、観光バスの前面は一瞬にして潰されてしまった。

勢いよくバスに突っ込んで来たタイヤの勢いは急激に吸収され、力なく路上をコロコロ……と転がると、歩道近くの街路樹にコツンと当たって、バタリとその場に倒れた。

車間距離を開けて観光バスの後部を快適に走行していた運送会社の大型トラックの運転手は、前方での衝撃音とバスの急ブレーキの赤ランプに気付いて慌ててブレーキを踏んだのだが間に合わず、急ブレーキの音とともにタイヤは路面をこすって白煙を上げ、トラックはバスの後部に向かって突っ込んでいた。

ミカド交通の観光バスに追突した運送会社の大型トラックに、後続車のマイクロバスや乗用車が次々と追突事故を起し、国道171号線は上下線ともに大惨事となる多重事故が発生したのだった。

―――

氷室丈二が所属している京都府警本部・捜査一課の刑事部屋では、沈黙と共に一種の異様な雰囲気の空気が漂っていた。

 部屋の奥の遠藤課長は、机上に置かれているデスクトップのパソコン画面に目を通しながら、時々、首を横に伸ばしては、丈二の様子を怪訝顔で伺っていた。

「……またかいな?」

課長は呆れた顔で呟いた。

「なんやねん? あいつ……」

 丈二の前のデスクの政岡刑事も課長と同様に、開かれたノートパソコンの画面を見ながら、丈二の行動をそれとなく、盗み見するようにして覗いていた。

『氷室さんちのジョージ君 このごろ少し変よ どうしたのかナ』

『丈二がおかしくなってきたのは、組長殺しの犯人を珍皇寺で逮捕してからだ』

『いや、おかしいのは、それ以前からかも?……』

政岡は丈二のおかしな言動を思い出した。それは、松原通りに向かう車内での出来事だった。

『あの時、丈二は言った。「俺に時間をくれ!」「直ぐに戻る。30分ほど俺に時間をくれ」と言い残すと、慌てて車から飛び出し珍皇寺へ向かった』

『……何だったんだ?』

『職務を放棄してでも急に欲しがっていた。あの30分間は?……』

刑事部屋に居合わせていた岡田、森野、真田の3名の同僚刑事たちも、別々のデスク、別々の角度で本立てや書類ケースの隙間から、丈二の態度や仕草や行動を、いぶかし気な目で伺っていた。

『どうした? 丈二』

『悩み事でも出来たのか?』 

うつになっちまい、仕事にやる気を失くしたのか?』

3名の刑事たちは丈二の様子を伺いながら、それぞれに別な思いを感じていた。

ひじ掛けの無い黒のリクライニング式のワークチェアーに座っている丈二は、両手を頭の後ろに組んで大きく身を反らすと、天井の一点だけをただぼんやりと見つめて回想にふけった。

『いたんだよなぁ。地獄には二人のエンマが……』

『一人は恰幅のいい男の閻魔と、もう一人は妖艶な女の艶魔えんまさんだった』

体勢を元に戻してた丈二は、ノートパソコンを開いて両手で顎を支え、電源の入っていない黒い画面に顔を近づけ、再度、物思いにふけった。

『俺が一番ビックリしたのは、二人のエンマは双子の兄妹きょうだいでありながら夫婦でもあり、二人のエンマの間には「魔餓鬼」という息子までもがいたってことだ』

『ビックリしたのはそれだけじゃない』

『三途の川のぬし奪衣婆だつえばは、山姥やまんばのような怖い婆さんじゃなく、パソコンを自由自在に操作できる頭脳明晰の美魔女だった。天邪鬼の娘のアララは猛毒を武器としていたが、メッチャ可愛い娘さんだった』

『羅獄殿の裏鬼門を一手に束ねていた西獄龍リュウは、青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうの達人でもあった』

『奪衣婆の亭主の懸衣翁けんねおうは、頭の白いカラスだったが鋭い嗅覚の持ち主だった』

『多くのスキルとハイスペックを持ち合わせた地獄の住人たちが「快炎鬼」だった俺をアシストしてくれた。だからこそ、真央を「奈落の底」に放り込んだ極悪非道の「閻魔の息子の魔餓鬼」を成敗することができた』

『俺がこうして刑事に戻れたってことは、エバと呼ばれていた奪衣婆だけじゃなく、白頭カラスだった亭主の懸衣翁けんねおうも三途の川に戻れたってことだ。もし、そうだとすれば「言うこと無し」の万々歳だ』

種類の違ったペンが差し入れてあったマグカップに手を伸ばし、丈二は一本のボールペンを取り出した。

『……少しは残ってくれていないかなぁ?』

『あの時の超能力が……』

丈二はプラスチック製のペンの両端を握ると、両の親指をペンの中ほどに寄せ、グイと力を込めてポキンと二つ折りにしょうと試みた。

バシーン!

「あたッ!」

ボールペンが折れる音よりも先に、丈二の後頭部を引っ叩いた乾いた音が静寂だった刑事部屋に鳴り響いた。

前のめりでバタリとデスクに両手を付いた丈二の背後には、課長の遠藤と両サイドには2名の刑事たちが立ち並び、丈二を睨みつけるような険しい表情で丈二を見下していた。

課長の左側に立っていた政岡が聞いた。

「俺も殴っていいですか?」

「かまへん! どつけ!」

間髪入れず、右側にいた森野刑事も課長に聞いた。

「よろしいでっか? ワシも」

「許す! シバき倒せ!」

 一歩前に出て丈二に近づいた政岡は丈二の左の後頭部を、続いて右の後頭部に、森野刑事の平手打ちにした。

「な、なんだ、なんだ、なんだッ!」

殴られた左右の後頭部に手を当てながら振り返った丈二は、背後で立ち並んでいる5人の姿に驚いた。

「何をしょうってんだ? 寄ってたかって……」

課長の遠藤は、静かな口調で丈二に聞いた。

「……どないするつもりや?」

「えッ?」

「新品に近いボールペンを、ヘシ折る気か?」

 返答に困った丈二は狼狽うろたえた。

「あ、あの、その、こ、これは……」

「税金やぞ」

「お前がヘシ折ろうとしとる、そのペンは……」

課長の言葉に間違いはないが、丈二はもう一つ納得することができなかった。

「……それが原因で?」

「寄って集って、この俺を殴ったんですか?」

「そや」

「文句あんのか?」

丈二は口を尖らせ、不満顔で言った。

「おかしいじゃないですか? ペンを折ろうとしたことが原因で集団暴行ってのは」

「おかしいのは、お前の方や」

「えッ?」

と、その時、机上の電話のベルが鳴った。丈二は不満顔で受話器を取った。

「氷室です」

電話を掛けて来た相手は、京都府警の代表電話にかけてきたようだった。

「はい。取り次いで下さい」

「もしもし、氷室ですが……」

無言で伝言を聞いていた丈二の表情が、一瞬にしてこわ張った。

「え―――ッ!」

「そ、そんな」

不吉な予感が丈二の脳裏をよぎった。

『なんてこった!』

『真央が搬送された「六道総合医療センター」ってのは、「閻魔の息子の魔餓鬼」とともに、「快炎鬼」だったこの俺が、爆死した場所じゃないか』

「わかりました」

血の気を失くした丈二は、静かに受話器を元に戻した。

そこに居合わせた全員が青ざめた丈二の表情を読み取り、ただ事ではないことを察知した。

課長は心配顔で丈二に聞いた。

「どないしたんや?」

「知り合いの女性からの連絡です」

「知り合いの女性の知り合いが多重追突事故に巻き込まれて、先ほど近くの病院に緊急搬送されたそうです」

 課長は怪訝な顔で、丈二に聞き返した。

「知り合いの知り合いちゅうたら、他人とちゃうんかい?」

「今は他人ですが、いずれ身内になる女性です」

 今度は政岡が血相を変えて、丈二に訊ねた。

「そ、それって、真央ちゃんのことか?」

丈二は顔を曇らせながら、力なく政岡に答えた。

「そうなんだ」

「誰やねん? 真央ちゃんって……」

丈二に代って、政岡が課長に答えた。

「丈二の彼女ですよ」

「ホンマかい?」

丈二は同意するようにして頷いた。

今度は課長が血相を変えた。

「え、えらいこっちゃ!」

「どこの病院へ搬送されたのか知らんけど、どういう状況なのかだけでも今から確認して来い! 早退届は後で出せ!」

「でも、仕事が……」

課長は青筋立てて怒った。

「デモもストもあるかい!」

「今のお前は、おってもおらんでも一緒や!」

「そ、そんな言い方って」

「じゃかましいわい!」

「ガタガタ言わんと、とっとと、早よ行きさらせッ!」

「ありがとうございます」

丈二は課長に深く一礼すると、足早に刑事部屋から出て行った。

―――

陽が落ちてすっかり暗くなった「京都市立・六道総合医療センター」の正面玄関先に一台のタクシーが横付けされると、降りて来た丈二を待ち構えていた一人の若い女性が駆け寄ってきた。

女性は真央の同僚の伊藤静香であった。

 気が急いていた丈二は足早に静香に近寄りながら、矢継ぎ早に質問を浴びせた。

「追突による多重事故に巻き込まれたと伺いましたが、どういう状況なのでしょうか。静香さんがここにいるってことは、真央は面会謝絶になるほどの状態だということでしょうか?」

 静香は小さな笑みを浮かべながら、丈二に応えた。

「安心して下さい」

「断言はできませんが、今のところ命に別状はないようです」

 丈二は不安げな表情で聞き返した。

「今のところ ……ですか?」

「はい」

「すべての検査を終えた訳ではないので、今はそうとしか言えません」

「事情はよく分かりました」

静香は首からぶら下げているひも付きの「入館・許可証」を丈二に見せた。

「通常時の業務を終えて、今は正面玄関が閉じられています。入館するためには、今はこのような許可証が必要になります」

「私が案内しますので、氷室さんも先に入館の手続きを終えてから真央の状況を詳しく説明したいと思っています」

「よろしいでしょうか? それで……」

 バス会社の社員たちや関係者たちは忙しく院内を動き回っているハズなのに、心強い同僚のバスガイドがここにいてくれて有り難いと感じた。

「分かりました。よろしくお願いします」

 静香に道案内された丈二は、正面玄関の左側に設置されている守衛室の方に足を向けた。

―――

被害者の安否を気遣って駆けつけて来た人数は、広い病院のロビーだけでは収まりきれず、照明が一段と落とされた暗い待合室でも数多く見られた。

通路においても各種の検査にベッドで運び込まれる患者や、病院関係者たちの動きが慌ただしくて騒然な状態となっており、入館手続きを済ませた丈二は治療や通行の邪魔にならないようにと気遣いながら、静香と共に喫茶室へ向かった。

―――

 喫茶室のドアを押し開けて店内を見渡すと、そこは待合室やロビーと同様にして人数は多く、店内は満席に近い状況だった。

 トレーにセルフ用のコーヒーセットを乗せながら店内を持ち歩き、片隅にあった二人用の小さなテーブルを見つけて席に着くと、丈二はトレーのコーヒーセットには手を付けず、身を大きく前に乗り出し、開口一番、心配顔で静香に尋ねた。

「命に別条は無いだけの情報では心配です。真央は今、どのような状況下に置かれているのでしょうか?」

「右手の前腕中央部の骨折と、左足首を捻挫しただけのようです」

「腕の骨折は骨がつきにくく、神経、血管、筋、脱臼、などの合併損傷が起こることがあるそうですが、変形が少なければギプス治療。変形が大きい場合は手術治療が必要なようで、治療に長期間を要するかも知れないとのことです」

「そ、それって、大ケガじゃないですか?」

「今はレントゲンの検査だけで、CTもMRIも後回しにされて終わっていないので断言することはできませんが、内臓損傷などの状況は今は見受けられません。ナースさんたちの様子を伺っていると、『真央は複雑骨折ではなく、そんなに深刻な状態では無い』と、私はそう感じ取りました」

「意識はしっかりしているのですね?」

「はい」

 丈二はこの時初めて、ホッと安堵の表情を浮かべて後部の背凭れに凭れた。

「よかったです」

「不幸中の幸いというか、腕の骨折と足の捻挫だけで済んでくれて……」

座り直した丈二は、静香の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「真央の実家の方には?……」

「はい。糸川様には私の方から連絡しておきましたので、もう、間もなくご両親がお見えになると思われます」

「……そうですか」

丈二はおもむろに立ち上がって静かに告げた。

「では、私はこれで失礼します」

「えッ?」

静香は驚いたというよりも、呆気に取られた感じで丈二を見上げた。

丈二はケガを負った真央の顔を一度も見ることもなく、病棟の部屋の番号さえも聞かずに帰ろうとしていたからだ。

静香は思い切って、直球ど真ん中勝負で聞いた。

「丈二さんが直ぐに引き上げようとしている理由は『氷室家』と『糸川家』の両家が、今でも『ロミオとジュリエット』のように、まだ仲たがいをしているからですか?」

丈二は苦笑するような顔で答えた。

「静香さんにそう思われても仕方がありませんね。静香さんもよくご存じのように『氷室家』と『糸川家』は、今でも相変わらず『犬猿の中』です」

「シェークスピアのように血生臭い事件が両家にまだ起きていないのが幸いです。シェークスピアで両家が和解するのは、ロミオとジュリエットが死亡してからですからね。悲劇ですよ。二人が死亡してから両家が和解するなんて…‥」

丈二は座り直して、真剣な表情で静香の問いに答えた。

「……ですが、今日は両家の不仲が原因だから引き上げるのではありません。真央がどんな状況なのかを知りたかったものですから、慌てて駆けつけてきたと言う訳です。真央が大ケガでなかったことを知って、ホッとしています。今夜は真央をゆっくりと休ませてあげたいと思っています」

「それに、これから真央を見舞う時は、入院後四、五日経ったころ。手術が必要とした場合は、二、三日後くらいがベターだと自分は思っていますので、病院に連絡をして面会が可能かどうか、病状はどうかを確認してからにします」

「真央がまだ人に会うのが無理なようであれば見舞いは控え、回復に向かい安定した時期に入ってからにしようと思っています」

 丈二は再び立ち上がると、深々と静香に一礼した。

「自分はこれから仕事に戻りますが、真央のことをよろしくお願いします」

「あのう……」

立ち上がった静香は、申し訳なさそうに聞いた。

「真央のご両親に挨拶してからでは、ダメなのですか?」

丈二は頭を搔きながら、苦笑交じりで応えた。

「実は……」

「まだ話していないのですよ。真央と付き合っていることを、自分の両親だけでなく、真央の両親にも」

「えッ?」

静香の驚きの声は、周囲が驚くほどの大きな声だった。

「ええ―――ッ!」

「いずれは二人で挨拶に伺うつもりでいたのですが、気が動転しているこのようなところで出会えば火に油を注ぐことにもなりかねません。モノにはタイミングというものがあります」

「どうか、そこのところを、お察し下さい」

初めて聞かされる言葉であったが、丈二をこれ以上引き止める理由を、静香は見つけることができなかった。

「わかりました」

「お仕事、お気を付けて下さい」

喫茶室を出て行く丈二の後ろ姿を、静香はやるせなさそうな顔で見送っていた。

「交際しているとは、言い出せなかったのですね?」

「二人とも物心がついたころから、両家の仲が悪かったから……」

―――

 間口は狭く、店内の広さは五坪にも満たないほどの小さな小料理屋だった。通路に客席はなく、狭いカウンターの中では半袖で濃紺の料理服、腰には白の前掛けをした短髪でねじり鉢巻きが似合いそうな風貌の中年の店主が、手作りの料理を仕込み中だった。店主の本名は判らない。通称「ゲンさん」と呼ばれている人物である。

ゲンさんの顔には左の頬からあごにかけて、短刀か包丁で切られたような8㌢ほどの傷跡がクッキリと残されていた。

背の低い2段の棚板になっているカウンターの前の席には他の客の姿はなく、政岡がカウンターの中ほどの席で、二合の徳利を傾けながら大きめの猪口に酒を酌んで呑んでいた。

 グイと呑み干し、二杯目を猪口に注ぎながら、政岡はしみじみとした表情でゲンさんに言った。

「……俺も歳かなぁ?」

「酒の旨みが分かるようになってきましたよ」

料理を仕込み中のゲンさんは、政岡を見ずに言った。

「歳だよ。それも、いい歳だ」

「えッ?」

意外な返答に、政岡は思わずカウンター内のゲンさんを見た。

ゲンさんは顔も上げずに、手料理を仕込みながら応えた。

「そろそろ嫁を貰いなよ。あんたも結構いい歳になったのだから……」

「……なんだ? そういうことか」

と、その時、今どきにしては珍しい引き戸の木戸が政岡の後ろでガラリと開いた。

ゲンさんは初めて顔を上げて、来客を迎えた。

「らっしゃい!」

「おや、珍しい。待ち合わせでもしていたのですか? 政岡さんと」

政岡が思わず振り返ると、来客は丈二だった。

 無言で政岡の横の席に着いた丈二に、政岡は表情を曇らせながら静かな口調で聞いた。

「……ダメだったのか? 真央ちゃん」

「大丈夫だった」

「右腕の骨折と左足首の捻挫だけで済んだようだ」

政岡の表情が一瞬にして変わった。

「な、なんだとォ?」

バタリと丸イスが後ろに倒れるほどの勢いで立ち上がった政岡は、丈二の肩を押して正面を向かせると、グワッと胸倉を掴んで大きな声を上げた。

「テメーッ!」

「真央ちゃんが骨折したっていうのに、こんなところで呑んでていいのかッ!」

ゲンさんは苦笑した。

「悪かったねぇ。こんなところで……」

政岡のそれ以上の行き過ぎた行動を押さえ込むために、丈二は政岡の両手首をガッチリと掴み取りながら立ち上がった。

「落ち着け、政岡!」

カウンター内のゲンさんは手を休め、事の成り行きを腕組みしながら見守った。

「面白いねぇ」

「これほどまでに政岡さんが興奮するとは……」  

冷静な丈二は、興奮気味の政岡をなだめにかかった。

「政岡よ」

「真央はCTもMRIも後回しにされているほどのケガだ」

「そんなの関係ねーッ!」

「ケガの大小に関わらず、真央ちゃんの傍にいなけりゃ、ダメじゃないか!」

「俺がここにきた理由は、真央のケガが軽かったからだけじゃない」

「病院にはバス会社の関係者たちだけでなく、同僚の静香さんだって駆けつけてくれているし、真央の両親だって淡路島から駆けつけている。それに、完全看護の大病院だ。何もできずにただ院内をウロついて治療や介護の邪魔になるよりも、今夜は真央をゆっくり休めてやりたいと、俺はそう思って、ここへきたってワケだ」

政岡の興奮は収まり、胸倉を掴んでいた手が緩まった。

「……そうか」

「そういうことだったのか」

「そうだ。そういうことだ」

丈二は掴んでいた政岡の両手首から手を離すと、イスを元に戻して座り直した。

「ゲンさん。ビールとおでんを適当に見繕ってくれないか」

「あいよ」

 転がっていたイスを元に戻して丈二の横に座り直した政岡は、手酌で猪口に酒を注ぎながら聞いた。

「丈二よ」

「お前んちの『氷室家』と、真央ちゃんちの『糸川家』の仲が悪いのは静香さんから聞いて知ってはいるが、『ロミオとジュリエット』のように、両家が不仲になった元々の原因ってのは、何なんだ?」

「へい。お待ち」

 注文した「おでん」よりも先に、瓶ビールとコップが丈二の前に置かれた。

 丈二は手酌でコップにビールを注ぎながら、政岡の問いに答えた。

「真央が文献を調べたのだから真偽に間違いは無い。それを知らされた俺の記憶も間違ってはいないと思っている。時代をさかのぼれば元禄時代のことだ」

政岡は驚いた。

「へぇ~」

「江戸時代からかよ。両家が仲たがいして、いがみ合っていたのは?……」 

ゲンさんは感心した。

「遠い昔の話だってぇのに、よく覚えていましたねぇ?」

他人事ひとごとじゃないですからね。一度聞かされたら忘れられないですよ。実際に我が身に降り掛かってきている不幸な出来事ですから……」

湯気が立ち昇る皿の中には「大根」「ジャガイモ」「玉子」「厚揚げ」「ごぼてん」の五品が入っていて、皿の淵には練り物の「和辛子」が添えられていた。

 話の内容に興味を持ったゲンさんは、盗み聞きするのではなくてカウンターの中で腕を組み、堂々と丈二の前に立って話の続きを聞く態度を見せた。

「真央の話では、江戸の日本橋小舟町から歌川広重の江戸名所百景の第四十六景『よろいの渡し小網町』で有名な小網町にかけて、『照降町てりふりちょう』と呼ばれている同じ通りで、履物問屋と雨傘問屋が軒を並べて商売あきないをしていたそうだ」

対面のゲンさんは、丈二を尋問するような態度で聞いた。

「それで?……」

「下駄を売る履物問屋は晴天を喜び、みのや傘を売る雨傘問屋は雨天を喜ぶ。だから、どうしてもこの二つの問屋は商売敵しょうばいがたきで犬猿の仲になってしまった」

ゲンさんは、大きく頷いて納得した。

「当然の結果だ」

「それで?」

 丈二はゲンさんの問いに答えた。

「履物問屋と雨傘問屋の店主たちがいがみ合うだけならまだしも、番頭に丁稚に小間物使いの女中たち、更には下駄屋と傘屋の職人たちまでもが顔を合わせれば相手をののしり合って、掴み合い、取っ組み合っての大喧嘩が日常茶飯事のように起こっていた」

政岡もゲンさんと同じように、納得しながら聞いていた。

「……判るぜ」

丈二は話を続けた。

「そういった揉め事は何も江戸の『照降町』だけに限ったことだけではなくて、下駄屋と傘屋は全国的な争いだったようだ」

「俺たちの故郷ふるさとは淡路島で、豊臣秀吉に人生を捧げた名参謀の蜂須賀小六はちすかころくが城主だった三熊城みくまじょうの城下町だ。今は洲本市と呼ばれているところでも、江戸の『照降町』と同じような争い事が起こっていた」

「時代は移り変わって住所も職業も変わった。怒りや憎しみは時とともに薄れ、いつかは忘れられてしまうものだと俺は思っていた。だが『氷室家』と『糸川家』の両家だけはそうじゃなかった」

政岡はグイと猪口を傾けてから、呟いた。

「今でもいがみ合いが続いているってことは、両家は商売仇きだっただけでなく、何か深いいわれと因縁があったのじゃねぇのか?」

丈二はビールを一気に飲み干すと、話を続けた。

「明治の終わりか大正の初め頃だと思うのだが……」

「俺の先祖は『じゃの目屋』という雨傘問屋で、跡取り息子に『宗太郎』という人物がいた。真央の先祖は『福田屋』という履物問屋で『おりく』という名の可愛い娘さんがいたそうだ」

ゲンさんが尋ねた。

「それで?……」

「商売仇の二人は恋に落ちてしまい、手に手を取って駆け落ちした」

政岡は猪口に徳利の酒を入れながら呟いた。

「思っていた通りだ」

「どうせ、そんなことだろうと思っていたぜ」

 丈二は反論するようにして言った。

「俺たちと同じ境遇だからそう感じてしまうのも知れないが『おりく』と『宗太郎』は、二人だけの幸せを願っての駆け落ちじゃないと思っている」

「……じゃあ、何が目的の駆け落ちだ?」

「これを機会に、両家が仲良くなってくれるのを願っての行動だとは思わないか?」

政岡は徳利を傾けながら、素っ気なく言った。

「思わないね」

「そんなに深い意味はない。話は簡単だ。単なる駆け落ちだ。『愛の逃避行』ってやつだ」

政岡に話す気が失せてしまった丈二は、向きをゲンさんの方に切り替えた。

「両家はそれを知って、当然、怒り心頭。はらわたが煮えくり返るほどのマジ切れのブチ切れで、『おりく』と『宗太郎』をののしり合っての非難合戦だ」

ゲンさんは、再度、同じ口調で話の続きを尋ねた。

「それで?」

「お遍路さんたちから入って来る風の便りや噂では、『おりく』と『宗太郎』の二人は阿波国あわのくに(徳島県)の長岡村で仲良く暮らしていて、祐太郎と剛司郎という二人の男の子に恵まれたことを知ると、両家は激怒、激怒、また激怒……ってわけだ」

政岡は不思議がった。

「……なぜなんだよ?」

「二人が幸せに暮らしていたのなら、いい話じゃねぇか」

「それによう」

「普通、可愛い孫が二人も出来たら、両家の両親は許してしまうと思うのだが、両家はなぜそれほどまでに怒るのだ?」

ゲンさんは、不思議がっている政岡に言った。

「それは、少しばかり違うねぇ。政岡さん」

「えッ」

「違うの?」

政岡をさとすようにして、ゲンさんは言った。

「両家とも、思い知らされたのですよ」

「……何を思い知らされたのですか?」

「愛のきずなってやつですよ」

「二人の絆が、より一層深まってしまっていることを思い知ったのですよ」

「ですから、両家の怒りの矛先ほこさきは、必然的に相手側の家族や身内たちに向かってしまって、お互いを憎しみ合っているのですよ」

「二人は自分たちのように喧嘩して、戻って来て欲しかったのだと思いやすね。どちらの家も、自分たちの実家の方に……ね」

政岡は不満顔でゲンさんに問い返した。

「でもそれって、遠い過去の出来事ですよね?」

「それなのに、なぜ、両家は引きずっているのですかね? 今もなお……」

「過去も現在も関係ねぇですよ。『積年の恨み』といって恨みは七代続くといいやすからね。ですから、両家は今でもいがみあっているのだと思いやすよ」

真央のケガがあった所為かもしれないが、冷静さを失ったように見える今夜の丈二はまだ「おでん」に箸を一度も付けずに話を続けた。

「ゲンさんの意見は理解できますが、俺の思いは政岡とまったく同じです」

「京阪神に住んでいれば隣にどこの誰がいようと干渉し合うことはまず少ない。俺たちの出身地の淡路島では両家の末裔まつえいたちは、今では苗字だけでなく住所もすっかり変わってしまっている。お互いに顔は知っていても、もう親戚じゃないのだから、目と目が合っても波風を立てずに、双方がそっぽを向き合い無視していればそれで済むことなのに、道で出会えばののしり合っての大喧嘩。そんなみにくい両家のいがみ合いが今でも続いているのですよ。うんざりするほどに、延々と……」

 丈二は愚痴っぽく、吐き捨てるようにして呟いた。

「逃げれば勝ちって言葉があるじゃないか。触らぬ神に祟りなしって言葉もある。俺は両家の人たちの気が知れない。喧嘩が退屈しのぎかレクレーションになっているのではないかと思えるほどだ」

ゲンさんは溜息まじりに、しみじみと言った。

「……善し悪しですねぇ?」

「狭い島国の町内ってのも……」

腕を大きく組み直したゲンさんは、丈二の顔を覗き込むように少しばかり身を乗り出して聞いた。

「……で、どうなさるおつもりですか?」

丈二は怪訝顔で聞いた。

「何がですか?」

「彼女との結婚ですよ」

丈二は即答せずに、僅かに間を置いてから応えた。

「少し躊躇ためらっています。はっきり言って二の足を踏んでいます」

ゲンさんは、がっかりした表情で言った。

「……そうですかい」

「幻滅させられましたね」

「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』のように『両家の不仲』が原因で、二の足を踏むようじゃあ、大した男ではありやせんね。氷室丈二って男は」

 痛い所をズバリと突かれた丈二は、苦笑するしかなかった。

「そう言われても仕方がありませんね」

コップにビールを注ぐと、丈二は一気に飲み干した。

「ゲンさんがいうように、俺ってホントにダメな男なんですよ」

「一人でも多くの人たちから結婚を祝福されたいと願っている、欲の深いダメ男だ」

「氷室さんの考え方はどうだっていいですよ。肝心の彼女の方はどう思っているのです?」

「履物問屋の『おりく』と雨傘問屋の『宗太郎』のように、駆け落ちしてもいいと思っているのですか。氷室さんと」

「真央は何も言いませんが、俺は俺なりに感じ取っています。駆け落ちではなく、真央はこの俺と普通に結婚をしたがっていると……」

「ケガした女性を病院に残して飲みにくるほどの酷い男です。自惚うぬぼれか、思い過ごしなのじゃないのですか。氷室さんの?……」

丈二は、またも苦笑した。

「……そうかも、しれませんね?」

「思っていたよりも『ケガが軽かったので飲みに来た』。それでは言い訳にはなりませんよねぇ?」

 丈二は厚揚げをつまみ取りながら、真剣な表情でゲンさんに聞いた。

「ゲンさん」

「あいよ」

「……結婚って、何なんでしょうかね?」

「おや?」

「哲学的なことを仰って……」

「似合いませんねぇ。そんな言葉は氷室さんには」

気分を害した丈二は、厚揚げを皿に戻して問い返した。

「じゃあ、この俺には、どんな言葉が似合っているのですか?」

「ロマンチックというほどでもねぇし、敢えて言わせて貰えるなら漫画が好きな刑事さんですから、漫画チックでしょうかねぇ?」

「おい、ゲンさん! 漫画チックは無いだろ?」

「せめて、ドラマチックにしてくれよ」

徳利の酒を猪口に注ぎながら、ぼやくようにして政岡は言った。

「バカヤロー。何がドラマチックだ。プラスチックだろ? お前がヘシ折ろうとしていたボールペンは……」

丈二の顔を覗き込みながら、ゲンさんは言った。

「プラスチックがお嫌いなようですね? 氷室さんは……」

「あっしが好きなのは、エロチックなんですよ」

ゲンさんは笑いながら、丈二の前から離れていった。



・その二

ナースの服装と言えば、以前はナースキャップに白衣姿だったが、現在は機能性が重視されていてカラフルなユニホームが使用されている。

一見してベテランナースだと思われる片桐景子は、ノーキャップで薄いピンク系のパンツスタイルのユニホームにナースシューズ。首には聴診器を軽く引っ掛け、胸のポケットに2本のペンを差し、ナースの身長に合わせた上下昇降機能を備えたナースカートを押しながら、外科病棟の廊下を病室に向かってゆっくりと進んでいた。

 ナースカートには、ペンライト、医療用ハサミ、ナースウォッチ、テープカッター、電卓付き点滴タイマー、駆血帯、記録用紙を挟むバイダーなどの検診道具が収納スペースとケースの中に整理されて収められていた。

「検診です」

ナースカートを押して景子が入室すると、四つに仕切られていた部屋のカーテンはすべて開かれていて、頸椎けいついカラーで首を保護している老女と、手にギプス、足にギプスをしている年配の女性3名と、若い真央の4名が待っていた。

3名の年配の女性たちは同じバスのツアーの乗客で、軽傷者たちが同じ部屋に入室されていた。

景子はドア近くの患者から、問診と検診を始めた。

包帯を巻かれている左の足首を前に投げ出すようにして窓際のベッドに座り、上腕部から手部までの短上股ギブスをアームサスペンダーで首にかけて保護していた真央は、ナースの景子がバイタルサイン(5つの「生命徴候」で「脈拍」「呼吸」「体温」「血圧」「意識レベル」)の測定をしながら、患者たちと楽しそうにおしゃべりに花を咲かせて長引いていることを知ると、ベッドの近くに置いてあった松葉杖を左手に持ってベッドから降りた。真央は窓際に近づくと、どこを見るとはなしに、ただぼんやりと中庭を眺めていた。

「熱心に見ているわね」

「何か気になるモノでも見つけたの?」

 驚いた真央が振り返ると、ナースカートを通路に置いた景子が記録用紙を挟んだクリップボードを小脇に持って立っていた。

真央は中庭にいる人物を見ながら言った。

「とっても仲がいいのですね。あの二人……」

「そうね。遠くから見ていても、感じのいい夫婦だわね」

 真央と一緒に5階の窓際から景子が目撃したカップルは、車イスに乗っている40代前後の男性と、その車イスを押している同年代の女性だった。

男性はパジャマ姿の上からジャケットを引っ掛け、足元に毛布が掛けられていて、女性の方は容姿に派手さはなく、しとやかに感じられた。

 女性は中庭に設置されているベンチの横に車イスを置くと、ベンチの端に腰をかけ、男性の手の甲に優しく手を乗せ、楽しそうに笑みを浮かべながら会話していた。

「羨ましいです。女性のかがみのように見えます」

「なれるものなら、私もなりたいです。あのような奥さんのように……」

「なれますよ。糸川さんだったら」

「あら?」

「私の性格も知らないのに、簡単に言ってくれちゃって」

「悪い性格なの?」

 真央は苦笑しながら言った。

「いえ、いい性格だと思います」

「だったら、それでOKね」

 真央は中庭のカップルを見ながら、景子に聞いた。

「……事故に遭われたのですか?」

 景子は暫し躊躇ためらいながらも答えた。

「私たちには『守秘義務』というのがあってね。それを絶対に守らなければならないのだけど、彼女自身が他の患者さんたちに公言しているから言うけど、ご主人の『水谷さん』が救急車で搬送された時はかなり重篤の肺炎で衰弱も酷く、一時は命も危ぶまれたほどだったのよ。それに悪化していたのは肺だけじゃなく、糖尿病でもあったし腎臓の数値がもうアウトっていうくらいに落ちていて、人工透析が必要なほどに大きなダメージを受けていたの」

「彼女は付きっきりで、涙ぐましいほどの献身的な看病を続けたわ」

「ですから、彼女のお陰でしょうね。瀕死の状態からご主人があそこまで回復できたのは……」

景子は感動したように、しみじみとした表情で言った。

「やっぱり、『愛は良薬に勝る』のかも?」

「……いい言葉ですね」

「有名な人の言葉なのですか?」

「誰が言ったのか知らないけど、逆に『やまいは気から』っていうのもあるのよ。病気は気持ち次第で、良くも悪くもなるし、どんな良薬があったとしても、本人に病気を治す気が全くなければ、治る病気も治らないってことね」

「付きっきりの看病と言っていましたけど……」

「お子さんはいないのですか?」

「さあ、どうかしら?」

「いるとしたら高校生か大学生でしょうから、家事も自炊も出来るでしょうし、小さなお孫さんだったら、どちらかのお爺ちゃんとお婆ちゃんたちが面倒を見ているかも知れないわね?」

 景子は真央をうながした。

「検診しましょうか」

「はい」

―――

 ベッドに仰臥位ぎょうがいで寝かされていた真央は、左腕の上腕から2㌢ほどの上にマンシェットを巻き付けられ、聴診器による血圧測定を受けていた。

 真央は半身を起こしながら、測り終わった景子に聞いた。

「完治するのに、何ヶ月くらいかかりますか?」

 ベッドの上で血圧測定器のセットを片付けながら、景子は聞き返した。

「リハビリの先生はどう言っているの?」

「負傷前の状態に戻るまでは、おおむね3ヶ月から6ヶ月くらいだそうです」

「じゃあ、それくらいね」

「……」

邪険にあしらわれたような気がしたが正論である。「退院はいつ頃ですか」と聞けばよかったと後悔したが、それ以上聞く気にはなれなかった。

―――

 広い中庭の中央にはワイングラスの形を模した石造りの噴水が設置されていて、患者や職員たちがベンチ代わりに気軽に腰を掛けられるスペースが設けられていた。

中庭を散策する散歩道の道幅は広く、全面がバリアフリーの設計になっていて、

散歩道には一定の間隔を置いて四季を楽しませてくれる各種の花々と低木が植えられている白い花壇が置かれていた。

暖かい小春日和こはるびよりの日射しが木漏れ日として差し込むオヤツタイムの15時を過ぎた頃には、リハビリと気分をリフレッシュさせるために、どこからともなく職員や患者と介護する人たちが三々五々(さんさんごご)に姿を見せ出し始め、車イスとベンチで楽しそうに会話していた「水谷夫妻」の周辺でも、リハビリと散歩する患者さんたちが二人の前を行き交うようになってきた。

穏やかな陽光を浴びながら、水谷恵利奈は夫に話しかけた。

「昨日は木枯らしのように風が強かったのに、今日は風も止んで随分とあったかいですね」

「何か冷たいものでも買ってきましょうか?」

隆弘は恐縮しながら言った。

「済まないねぇ」

「キミには本当に申し訳ないと思っている。感謝している。こんな私のために色々と気を使わせてしまって……」

「何を他人行儀なことを言っているのよ。私たち夫婦じゃないの」

「じゃあ私、買ってくるね」

「ありがとう」

「慌てて戻らなくてもいいよ。日向ぼっこをしているからね。私なら心配は要らないから」

隆弘の膝に掛けてあった毛布を掛け直すと、恵利奈はその場から去って行った。

「……私は悪い男だ」

「あれほどまでに思いやりと優しさを持っている女性を、私は深い苦しみと悲しみのふちに突き落としてしまったのだから……」

「夫婦の間で『恩返し』と言う言葉は適切じゃないが、早く回復して彼女を楽にしてやらなければ……」

隆弘は去っていく恵利奈の後ろ姿を見送りながら、在りし日の朝の情景を思い出していた。

―――

 玄関の上がりかまちに腰をかけ、靴を履きかけの隆弘の背後で声がした。

「パパ、行ってらっしゃい」

 隆弘の背後に妻の恵利奈と小学校高学年の娘の「詩織」が立っていて、詩織が隆弘に声をかけたのだった。

 靴を履き終えた隆弘は、傍に置いてあった黒いビジネスバッグを手にして立ち上がると、二人に振り返ることも無く言った。

「じゃあ、行くよ」

 玄関のドアを押し開け部屋を出て行く隆弘を、恵利奈は笑顔で送り出した。

「いってらっしゃい」

―――

 その日の空は雲一つなく、どこまでも青い朝だった。

エントランスホールを足早に通り抜け表通りに出た隆弘は、一度もマンションを振り返ることもなく、まるでステップを踏んでいるかのごとく足取りは軽やかで、直ぐに人混みの中へと消えていった。

―――

 病院の売店の横の通路に沿って自販機と長イスが設置されていて、その長イスの中央で、何も買っていない様子の恵利奈が一人でポツンと座って肩の力を落とし、ぼんやりと廊下の床を見つめながら、在りし日の夜の情景を思い出していた。

―――

 ダイニングキッチンの壁に掛けられていた時計の針は22時を過ぎていた。

 テーブルに頬杖ほほづえをついた恵利奈は、隆弘の夕食を前にして深い溜め息をついた。

「はあ~~」

「……遅いわねぇ。残業で会議でもしているのかしら?」

娘の詩織が眠そうに目をこすりながら、恵利奈に近づいてきた。

「……ママ。おやすみなさい」

 恵利奈は立ち上がりもせずに、そのままの態度で返事をした。

「おやすみなさい」

 自室に戻る詩織の後ろ姿を見送った恵利奈は、壁の時計の針を確かめた。

「……飲みにでも行っているのかしら?」

「それならそれで、連絡くらいしてくれてもいいのに」

 服のポケットからスマホを取り出し、恵利奈は画面を見た。

「ラインもメールも……新着なし」

「事故にさえ遇っていなければ、いいんだけどね」

恵利奈は画面をポンと押し、心配顔でスマホを耳に近づけると、流れてきたのは女性アナウンスの声だった。

【只今、お掛けになった電話は電波が届かない場所に入っているか、電源が入っていない為、かかりません】

 クワッと恵利奈の形相が変わり、怒りの炎に火が点いた。

「なぜよ!」

 手にしていたスマホの画面に向かって、恵利奈は大きな声で吠えた。

「どうして電源を切っているのよ!」

「なぜ、マナーモードにしてくれていないのよ!」

―――

自室から出てきた詩織が大きな欠伸あくびとノビをしながら、ダイニングキッチンに入ってきた。

「ママ、おはよう」

 テーブルに両肘を付いて寝入り込んでいた恵利奈は、詩織の声で起こされた。いつしか夜は開けていた。

 起き上った恵利奈は、テーブルの上に残された昨夜の夕食を、冷めたい視線で見下した。

「……帰って来なかったのね」

―――

自販機の横の長イスからゆっくりと腰を上げた恵利奈は、冷めた表情で廊下の床を見下していた。

「……今では思い出ね」

「そういうこともあったわね」

 離れた場所から恵利奈を呼ぶ声がした。

「ママ―――ッ!」

 足早に恵利奈に近づいてきた若き女性は、少女からすっかり成人女性に変貌した詩織だった。

「部屋にママがいなかったから捜したわ。病院では携帯が使用できないから捜し回ったわ。そしたら、あの人に中庭で出会ったの」

「あの人は教えてくれたわ。『ママは売店にいる』」って」

「あの人、あの人って……」

恵利奈は少し不満顔で言った。

「その人、あなたのパパじゃないの」

 恵利奈の不満には委細構わず、詩織は一気にまくし立てた。

「ママはどうしてそこまで献身的に尽くすのよ!」

「あの人は、一度は私たちを見捨てた人じゃないの! どうして個室にしたのよ! 4人部屋で充分じゃないの!」

「……」

「ママはあの人の為に朝の6時から9時までショッピングモールで清掃員として働いて、昼間は病院であの人の看病して、夕方になったら24時間営業の食堂チェーン店で深夜近くまで働いているじゃない! 同じマンションに住みながら私は学業とバイトよ。ママと私は滅多に顔を合わせることができていないじゃないの! すべてはあの人が原因じゃないの! ママは一体いつ身体を休めているのよ! 教えてよ!」

「毎日働いている訳じゃないわ。休みだって取ってるし、看病だって毎日ここに来ている訳じゃないのよ」

「それって、言い訳じゃない!」

「休みの時でさえも掃除と洗濯と買い物に費やしてママのすべてはあの人の為に回っているじゃないの! ママの時間はどこにあるっていうのよ!」

「ごめんなさいね。詩織……」

「こうなったのもママが至らなかったからなの。子育てに夢中になり過ぎてしまって、パパに気配りと心配りができていなかったからなの」

「失踪したのはママの所為じゃないわ!」

「元々、あの人はそういう性格の人だったのよ! 会社と家庭を平気で捨てることのできる自己中の人だったのよ!」

恵利奈は悲しそうな顔で、詩織に聞いた。

「今日は、それを言いに来たの?」

「違うわ」

「ママが余りにも働き詰めで、あの人に付きっきりだから、ママの身体を心配して来たの」

「だったら、心配は要らないわ」

「私は至って元気よ。さあ、一緒に部屋に戻りましょう」

「私、帰る!」

クルリと背を向け、足早に帰って行く詩織の後ろ姿を見送りながら、恵利奈は心の中で謝っていた。

『ごめんなさいね。詩織……』

『今度は、あなたに心配り気配りができなくて……』

―――

外科病棟の5階ラウンジの中央には楕円形をした大型のテーブルが置かれ、その周辺には10数脚のイスが設置されていたが、他の入院患者たちと職員たちは誰一人として姿を見せず、ラウンジには左足首の包帯が取れた真央と、見舞客の丈二の二人だけが仲良く横に並んで座っていた。

「頼むよ」

「退院したらリハビリ中に、『快炎鬼』を書いてくれよ」

「イヤよ」

丈二は不思議に思った。

「どうしてそんなに嫌がるんだ?」

「文才のある真央だったら簡単なことじゃないか」

「タイトルの『快炎鬼』は悪くはないと思うけど、私は早々とファーストシーンで地獄の穴に投げ込まれてしまうのでしょう?」

「俺は直ぐにその穴に飛び込んだ。真央を助けるために……」

「でも、私が登場するのは、回想シーンとラストシーンだけなんでしょう?」

「仕方が無いよ」

「真央が地獄のどこで彷徨っているのか判らなかったからね。だから俺は、閻魔さんに会いに行き、そして、パソコンを自在に操作することができる妖艶な女性の『三途の川の奪衣婆』と、『天邪鬼の娘』でポイズンガールの『アララ』。そして、裏鬼門を一手に束ねている『西獄龍』たちと共にこの現世に現れ、極悪非道の『閻魔の息子』の『魔餓鬼』を成敗したんだ」

同意を求めるようして、丈二は聞いた。

「どうだ。面白いストーリーだとは思わないか?」

「それは十人十色だと思います」

「純愛もののラブストーリーが好みの人がいれば、血が滴る残酷なホラーが好みの人もいるし、地獄とか鬼というだけで毛嫌いする人だっているわ。小説は食べ物と一緒です。色々と好き嫌いがあるのです」

「もし、私が執筆するとしたら、タイトルは『愛のきずな』で、病弱な夫の妻として力強く生き抜いていく女性を書くわ。『愛と涙に溢れるヒューマンドラマ』を書くわ。私も結婚したら、ああいう女性になりたいと憧れている女性がいるの。ただ一途に、病弱な夫に愛を捧げ続ける健気けなげで、ストーリーのモデルになるような女性が、実際にこの病院の中にいるのよ」

「マジか?」

「彼女の献身的な愛の姿を一度見て欲しいけど、この時間帯じゃダメね。この頃は10時過ぎくらいに中庭に出てくるから……」

「真央が憧れている女性だ。一度拝見してみたいけど『快炎鬼』の原稿の方がもっと早く見たい。見せてくれよ」

「ダメ―――ッ!」

真央はキッパリと断った。

―――

売店の横に設置されている自販機で恵利奈が好みの飲み物のボタンを押していると、週刊誌を持って売店から出て来た真央が近づいて来た。

「こんにちは」

ペットボトルを取りながら振り返り、恵利奈は怪訝顔で真央を見上げた。

「?」

「……どちらさまでしょうか?」

「南病棟の5階に入院している糸川です」

「中庭にいる奥さんを毎日のように見ています。ご主人と随分と仲がいいですね。羨ましいです」

「私も結婚したら奥さんのようになりたいと思っています。夫婦円満のコツとか、秘訣のようなものがあるのですか?」

恵利奈は笑顔で、快く応えた。

「そんなものはないですよ。病弱な夫を付きっきりで看病していれば、誰にでもそう見えるだけのことですよ」

「私にそういう質問をするってことは、ご結婚がお近いようですね?」

「それだったらいいのですけど、色々と事情がありまして……」

「あら、そうなの?」

「相談に乗るってワケじゃないけど、もしよかったら、お話を聞かせてもらえないかしら? 少しはお役に立てるかも」

「お心使いありがとうございます。でも、今日はご挨拶だけにしておきます。そのお飲み物を早くご主人にお渡しして下さい」

「そうよね」

「会って直ぐに悩み事を打ち明けることなんて、できないわよね。じゃあ、私も自己紹介だけにしておくわ。私の名前は水谷恵利奈。今後ともよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

両手に二つのペットボトルを持った恵利奈は、その場から立ち去って行った。

 恵利奈の後ろ姿を見送りながら、真央は思った。

「会って早々に、『少しはお役に立てるかも』……か」

「咄嗟に言えない言葉だわ」

「夫婦が仲良くやっていくためには、常々、ああいう細かな神経とか、心使いが必要なのかもしれないわね?」

―――

小春日和の暖かな日差しがカーテン越しに部屋に差し込んでいた。

 ベッドで寝ている隆弘の傍でイスに腰をかけ、恵利奈がうつらうつらと小さく舟を漕いでいると、隆弘が呼んだ。

「え、り、な…… えりな…… 恵利奈」

ハッと恵利奈が目覚めると、隆弘は軽いいびきをかいて睡眠中だった。

 恵利奈は苦笑した。

「な~んだ。寝言だったの?」

 笑顔で隆弘の寝顔を見ていた恵利奈の顔が、真面目な表情へと変わってゆき、

次第に険しくなり、やがては、敗北にも似た苦渋の表情へと変化していった。

枕元近くのコンセントからナースコードを引き抜くと、恵利奈は隆弘の枕と首の隙間からコードをゆっくりと忍ばせ、首の下を左右に通した。

隆弘に気付かれないようにコードに余裕を持って胸元で交差させると、片方のコードの端をベッドのパイプにくくりつけた。

 元の場所に戻った恵利奈は、残された片方のコードを手の中に巻き付けると、コードを握りしめながらクルリと隆弘に背を向け、一気に身を落としてコードを担ぐようにして引っ張った。

 突然の出来事に熟睡していた隆弘は仰天した。

咄嗟にコードを両手で掴み、何とか解こうとしていた時に隆弘は気付いた。

ベッドからは女性の後頭部だけしか見えなかったが、コードを引っ張っているのは恵利奈だと直ぐに判った。

「なぜだ?」

 隆弘の問いに応えず、恵利奈は無言でコードを引っ張り続けた。

「……」

 何かを悟ったように隆弘は抵抗を止め、静かに目を閉じ、恵利奈のなすがままに身をゆだねた。

 暫しの沈黙の時間が過ぎていった。

やがて、隆弘は絶命した。

―――

勢いよく部屋のドアが開かれ、血相を変えた若いナースが飛び込んで来た。

「ど、どうかしましたか?」

ベッドの近くのイスに腰かけていた恵利奈が、隆弘を見ながら物静かに応えた。

「私が殺しました」

「えッ?」

ナースが慌ててベッドに駆け寄ると、隆弘の顔の上には二つ折りにされた白いタオルが乗せられていた。

「冗談じゃないわよ!」

タオルを放り投げるようにして取り払うと、ペンライトを取り出したナースは、隆弘の片方の瞼を開いて瞳孔を調べた。

「!」

「そ、そんな……」

 隆弘の首には絞殺された証拠となる鬱血うっけつした一本の線だけがクッキリと残されており、殺人の道具に利用されたナースコードはコンセントに差し込まれ、元の状態に戻されていた。

「あなた! なんてことを!」

 恵利奈は言い訳もせず、ただ無言で、その場に立っているだけだった。

院内携帯を取り出したナースは、ナースセンターに報告した。

「た、大変です!」

「水谷さんが大変なことになっています!」

「担当の山添先生を、大至急で呼び出して下さい!」

―――

 検診セットを片付けながら、真央たちを担当しているベテランナースの景子がぼやくようにして呟いた。

「ショックだわ」

 ベッドに腰かけていた真央が、怪訝な顔で聞いた。

「何かあったのですか?」

 景子は片付ける手を止め、世間話をするようにして言った。

「ほら。結婚したらああいう奥さんになりたいと、あなたが憧れていた仲のいい夫婦の奥さんの方が、ご主人の首を絞めて殺してしまったのよ」

「ウソ?」

「ウソや冗談でこんなこと言えないわよ。パトカーは何台も集まって来るし、担当のナースや先生は事情聴取を受けるし、彼女は連行されて行くし、現場検証があったりなんかして、そりゃもう、大変だったのよ」

「あんなに仲がよかったのに、どうしてご主人を?……」

「知らないわよ。私だって真相を知りたいわよ。ご主人は快方に向かっていたし、介護疲れでも無いし、一体何だったのかしら? あの二人の仲の良さは‥‥」

 余りにも受けた衝撃は大きく、真央は次の言葉を失っていた。

「……」

検診セットの片付けが終わり、ナースカートを押して部屋から出て行く景子の後ろ姿を見送りながら、真央は親しくなっていた恵利奈のことを思い出していた。

―――

真央と恵利奈の二人は売店横の長イスに座っていた。

「……というワケなんです」と深刻な表情で、真央は恵利奈に悩みを打ち明けていた。

「あなた一人で悩まずに、彼とよく相談して、二人で一緒に両家の両親に二人の交際を許して貰った方がいいと私は思うけど、それじゃダメなの?」

「彼は忙しい人で……。私と一緒に行動するのが難しくて」

「何をやっている人なの? あなたの彼氏」

「刑事さんです」

「あら」

「大変でしょう? 刑事さんを恋人にすると」

 どんよりと曇っていた真央の表情が、僅かに明るくなって笑みを浮かべた。

「そうなんですよ」

「刑事さんのお仕事って基本的には日勤で、土日祝日は休みです。平日の勤務時間も8時30分から17時15分までとなっているのに、デートはよくすっぽかされるし、お見舞いだって私のケガが軽いと知ると、なかなか見舞いに来てくれないのです」

「退院する時に来てくれますから、その時に一度、叱ってやって下さい」

「もっと彼女を大切にしなさいって」

「任せなさい」

「ドカンと大きな雷を落としてやるわ」

 二人で笑いあったことを思い出しながらベッドから離れた真央は窓際に立つと、水谷夫妻が好んで座っていた中庭の空席のベンチを、今にも泣き出しそうな顔で見つめていた。

「……どうしてなの?」

「あんなに愛していたご主人だったのに……」

―――

 殺風景な取り調べ室の中央には1台の机と、机を間にして2脚のイスが置かれ、

身柄を拘束されて警察官に連行されて来た恵利奈がそのイスに座ると、供述調書を持った丈二が遅れて入室して、恵利奈の前のイスに座った。

警察官はその場からいなくなって一対一の対応となったが、閉塞へいそく感を軽減させるために、出入り口のドアは開放されたままであった。壁に掛けられている時計の針は、午前10時を僅かに過ぎたところを差していた。

 かしこまっている恵利奈に対して、丈二が告げた。

「これは『供述拒否権の告知』であって、あなたには『言いたくないことは無理に言わなくてもいい』という『黙認権』があります」

恵利奈は黙って、丈二の告知を聞いていた。

「……」

「では、ご主人を殺した『動機』を伺います」

「あなたはなぜ、ご主人の首をナースコードで絞めたのですか? 殺す動機は何だったのですか?」

「……」

 恵利奈は貝のように、固く口を閉ざしたままで、何一つ話そうとはしなかった。

「黙秘するつもりですか?」

「……」

被疑者には大雑把に分けて3種類の人たちがいる。すんなりと犯行を認める者がいれば、必死になって無罪を訴え、自分が犯した犯行を是が非でも正当化しようとする者が多く、まれにだが、恵利奈のように固く口を閉ざす者がいる。

取り調べは休憩時間を除いて1日8時間を上限としているが、丈二は焦ることも無く、恵利奈が自供してくれるのを、腕組みをしながら辛抱強く待っていた。

 沈黙とともに時間は過ぎていったが恵利奈の意思は強く、いつまでも深く項垂うなだれているだけで、自供する気配は微塵も感じられなかった。

 壁の時計の針は、すでに午後の5時を過ぎていた。

恵利奈は項垂れたまま、在りし日のことを思い出していた。

―――

 宝石のように光り輝く夜景が眺望できるホテルの高級レストランの窓際の席で、恵利奈と娘の詩織がちょっと贅沢なディナーが置かれているテーブルを挟み、赤ワインの入ったグラスを片手に軽くカツンと合わせて、一斉に声を上げた。

「カンパーイ!」

「お誕生日おめでとう」

「来年はあなたも成人式ね」

 詩織は深々と頭を下げてから言った。

「ありがとうございました。ここまで来られたのは、すべてはお母様が頑張ってくれたお陰です」

「いやだぁ。この子ったら、お母様だなんて……」

「じゃあ、ママ様。ありがとうございました」

「それって、余計におかしいじゃないの」

 二人は大きく笑い合い、贅沢なひと時を過ごしていた。

―――

とある会社の大きな食堂を、清掃姿の3人の中年女性とともに、恵利奈は掃除に励んでいた。

コードレスの掃除機で床の塵や埃を吸い取っている恵利奈に、リーダーらしき女性が言った。

「心配しなくても、そのうち戻って来るわよ」

 恵利奈は掃除機の手を止めて、片手に除菌スプレーを持ち、片方でテーブルを拭いている中年女性に真面目まじめな顔で聞いた。

「そうかしら?」

「そうよ」

「男ってものはね。浮気して初めて女房の良さってものが分かるのよ。ああ~、やっぱりウチの女房が一番いいな~って」

 恵利奈は苦笑した

「それだと、私の主人は浮気して蒸発したみたいですね?」

 それを聞いて、太めの女性が恵利奈に言った。

「何を間の抜けたことを言ってんのよ!」

「女が出来て、トンズラしたのに決まってんじゃないの!」

「そうかしら?」

細身の女性が、追い打ちをかけるようにして、恵利奈に言った。

「あんた、日頃のご主人の様子を見ていて、何か変だぞ、何か怪しいぞって少しは疑わなかったの?」

「思いませんでした。いつもと同じようにしていました。疑ったことなんて一度もなかったです」

リーダーらしき女性が聞いた。

「ご主人がいなくなってから、どれくらい経っているの?」

「忘れてしまいました。数えることもやめました」

太めの女性が言った。

「だったら、3年で離婚は完全に成立するし、7年以上経っているのだったら、死亡届だって出せるハズよ?」

リーダーらしき女性が即座に言った。

「それは大きな間違い。大間違い!」

「まずは家庭裁判所に離婚請求を申し立てて、ご主人が3年以上の間、生死不明だと、家庭裁判所は失踪宣告を認めてくれ、そこで初めて離婚請求ができるの。そして生死が7年間明らかでない時にも、家庭裁判所は失踪宣告を認めてくれて、法律上で死亡したものと認めてくれるのよ」

 細身の女性がリーダーらしき女性に尋ねた。

「随分と詳しいのですね?」

 リーダーらしき女性が、苦笑しながら答えた。

「経験者は語るってね」

「経験者なのよ。私は……」

細身の女性は大きな声を出して驚いた。

「ええ―――ッ!」

「き、聞いてなーい!」

調子を合わせるようにして、リーダーらしき女性は言った。

「言ってなーい!」

 恵利奈が心配顔で聞いた。

「失踪したのですか? ご主人……」

 リーダーらしき女性が、胸を張って自慢げに言った。

「はい。消えました」

「ですから、死亡届も出してやりました。図太いヤツだからどこかで生きているハズよ。どこだか知らないけど」

「あんたも、家庭裁判所に離婚請求を申し立てておいた方がいいわね」

 恵利奈は苦笑交じりで答えた。

「そうですね。考えておきます」

「考えておきますじゃないの! 明日にでも家庭裁判所へ行ってきなさい!」

 恵利奈は片方の手で、リーダーらしき女性に敬礼をした。

「わかりました。班長殿!」

無人の大食堂で、4人は大きく笑いあった。

―――

 ある日の夜のことだった。

 ダイニングキッチンのテーブルの上に置かれていた携帯が、バイブ音と同時に鳴った。

携帯を手にした恵利奈は、怪訝な顔で表示された番号を見た。

「間違い電話かしら? 番号だけの表示だけど……」

 恵利奈は携帯を耳元に近づけ、相手に呼びかけた。

「もしもし」

 携帯から聞こえてきた声は、見知らぬ女の声だった。

【水谷さんね?】

「はい」

「どちらさまでしょうか?」

【誰だっていいのよ。そんなこと】

「!」

【返すからね】

「何を返すのですか?」

【あんたの亭主さ】

「えッ?」

【あんたの亭主の携帯にイニシャルだけがあったから、奥さんじゃないかと思ってかけたら、やっぱり奥さんだったわね】

【あんたのところへ戻るかどうか知らないけどさあ。とにかく、この携帯と一緒に返すからね】

 相手の女は一方的に恵利奈に伝えると、携帯を切った。

 恵利奈は手にしていた携帯を、怒りの形相で睨みつけた。

「何よ!」

「返す返すと、品物のように扱って……」

―――

 激しい雨が路面を叩きつけていた。

 傘を持ってマンションから出て来た恵利奈は、表通りの左右を確かめたが隆弘の姿はなかった。

 傘を差したまま、恵利奈は一晩中、マンションの前で隆弘の帰りを待っていた。

 夜が明け始めた時だった。

土砂降りの雨の中で、隆弘らしき人物が遠くに小さく見えてきた。

 傘も差さずにずぶ濡れになりながら、トボトボとみすぼらしい足取りで恵利奈に近づく隆弘の姿が、水煙の中でハッキリと見えてきた。

 恵利奈は駆け寄ることもなく、近づく隆弘を冷めた表情で見つめていた。

 晴天の朝、弾むようにして出て行った男が、土砂降りの夜明けにずぶ濡れになりながら、打ちひしがれるようにして戻って来たのだった。

 隆弘は恵利奈の前に立った。二人に会話は無く、対峙するようにして向き合っていた。恵利奈は惨めったらしい姿の隆弘を見つめながら、心の中で葛藤を続けていた。

『蹴りつけてやろうと思って、辛抱強く待っていたような気もするし……』

『ここでお帰りなさいというべきなのかしら?』

先に口を開いたのは隆弘の方だった。

伏し目がちだった隆弘は、恵利奈の顔色を下から伺うようにして言った。

「……入っていいかな?」

「あなたの家よ」

「スマン。俺を許してくれ」

「さあ、早く中に入って……」

 マンションに向かおうとしてトボトボと数歩歩いた隆弘は、その場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。

「ど、どうしたの!」

 土砂降りの雨の中、恵利奈は傘をほっぽり出して隆弘を抱き起した。

「あなた! しっかりして―――ッ!」

―――

 取り調べ室では、恵利奈の長い沈黙が続いていた。

「……」

先に口を開いたのは、根負け気味の丈二の方だった。

「献身的なあなたの姿を、私は一度だけ拝見したことがあります」

 恵利奈は初めて顔をあげた。

「えっ?」

「私の知っている女性が、あなたのような女性になりたいと憧れていたのです」

「もしかして……」

「あなたの知っている女性は、糸川さんですか?」

「ええ……」

「彼女に言われて病室の窓際から、中庭にいるあなたとご主人を拝見しました。本当に仲のいいご夫婦のように見えました」

「……」

「今ごろ彼女は、あなたの犯行を知って嘆き悲しんでいると思います」

 恵利奈は、再び項垂れた。

「……」

「ご主人の病気も快方に向かい、前途を悲観しての犯行とは思えません」

「……」

「ご主人も後悔して、あなたの元へ帰って来たじゃないですか」

「それなのに、なぜ?」

「……」

「あなたが逃げ回っているご主人を見つけ出し、その場で殺害するとか、相手の女性を傷つけたというのなら話は分かります」

「……」

「ノコノコと帰ってきたご主人を、許すことができなかったのですか?」

「……」

「あなたは、ご主人が帰って来たのをとても喜び、その看病も並々ならぬものと聞いていました」

「……」

「なぜ、ご主人を殺したのですか?」

 永い沈黙の後だった。項垂れたままの恵利奈が消え入るような声で言った。

「あの人は……」

 恵利奈の取り調べは明日になると覚悟していた丈二は、恵利奈の言葉に思わず前に身を乗り出した。

「あの人が、どうかしたのですか?」

「あの人は夢の中で『私の名前』を呼んだのです」

「?」

「知らない女性の名前だったら、よかったのです」

「どういう意味でしょうか?」

「あの時、主人が他の女性の名前を呼んでくれていれば、私は、主人を殺さずに済みました」

「私はその名前の女性から、主人を取り戻そうと必死になったと思うのです」

「でも、主人は心身ともに、この私の元に帰って来たのです」

「よかったじゃないですか」

「いいえ、よくはありません」

「……なぜ?」

「思えば私にとって、主人がいなくなっていたあの時が、一番生活に張りがあって充実していたような気がするのです」

「いつの日か……。私はきっと主人を私の元に取り返してみせる。女手一つで子供を立派な人間に成長させてみせるという心の張りがありました」

「それが、それが……」

 感極まった恵利奈は、机にどっと俯せ泣き崩れてしまった。

「うあああ―――ッ!」

 丈二は為す術も無く、黙って泣き続けている恵利奈を見ているだけだった。

 やがて恵利奈は顔を上げ、涙を拭いながら自供を始めた。

「目には見えない、私の知らない、私のライバルの女性から主人を返された時、私は主人に対して怒りというよりも、虚しさを感じてしまいました」

「私は私の力で主人を奪い返したのでは無いのです。主人は身体を悪くして、女に見捨てられて行くところも無いから、私の元に帰って来たのです」

「私は、そんな主人を見たくはありませんでした」

「でも、そんな主人でも、もし『夢の中』で私以外の女性の名前を呼んでくれていたら、私は二度と主人を奪われないようにと、私は良き妻に、そして良き母親になっていたと思うのです」

「では、ご主人が夢の中であなたの名前を呼んだから、殺してしまったというのですね?」

 恵利奈は丈二の顔を見つめ、ハッキリとした声で言った。

「はい」

 丈二は彼女の言葉が信じられなかった。

「たった……」

「たったそれだけのことが、殺人の動機だと言うのですか?」

「私にとっては、とても『重大な言葉』でした」

 丈二は何も言えず、恵利奈の顔を黙って見つめていた。

「……」

―――

 事情聴取の書類を持って丈二が部屋に戻ると、他の刑事たちは帰宅していて、課長の遠藤だけがデスクに残っていた。

 課長は丈二に気付くと、快く声をかけた。

「おう」

「ご苦労はんやったな」

―――

 部屋の中央に置かれている小型の低いテーブルを間にして、課長と丈二の二人が深刻な表情で向かい合っていた。

「……というワケです。信じられないですよ」

「彼女の心情を理解出来ません。自分が彼女の立場だったら、まずは病気を治し、それから離婚を迫ります。殺したりなんかしません」

「ライバルがいなくなったのを知って虚しさを感じた。夢の中で自分の名前を呼ばれた。殺意を抱いた。そして殺した」

「夫が夢の中で別の女性の名前を呼んだとしても、相手は見知らぬ女性じゃないですか。それが本当の動機だったら命が幾つあっても足りませんよ。そんな簡単な動機で人は殺せませんよ」

「そやけど、現実にあの女は亭主の首を絞めて殺しとる」

「簡単な動機やったさかいに、簡単に殺したのかも知れんぞ」

 丈二は課長の意見に、納得がいかなかった。

「そんなものでしょうか?」

「そんなもんや」

「そんなアホみたいな話を信じるヤツは誰もおらん。それがよう分かっていたさかいに、あの女は長いこと黙ってたのかも知れんな」

「まぁ、どっちゃにしろ、今までに聞いたこともない動機や」

課長は笑いながら、席を立った。

「おハンも嫁ハンをもろたら、寝言には気ィつけなあかんでぇ。いつ寝首を掻かれるかわからんでぇ?」

「バ、バカなことを言わないで下さいよ」

「……ところで、彼女の退院はいつや?」

「明日です」

―――

 病院の正門から一台の白いセダンが表の通りに出て来た。

 丈二は運転しながら、三角巾で右腕をカバーしている助手席の真央に聞いた。

「完治したら、二人して行かないか?」

「……どこへ?」

「俺たちの故郷ふるさとだよ。両家の両親に挨拶をしに行くんだ」

「それって、プロポーズ?」

「いや、そうじゃない。正式なプロポーズはプレゼントの指輪を買ってからだ」

真央は笑顔で、かろやかに言った。

「は~い。待ってま~す」

 子供が母親に甘えるようにして、丈二は頼んだ。

「その前に書いてくれよぉ。『快炎鬼』を……」

 真央はあっかんべーをするようにして、丈二に言った。

「ダメ―――ッ!」

疾走するセダンは、京都の市街地の中に颯爽と消えて行った。

                                 完



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ