宝箱の中のキラキラ
その時のシャンクス伯爵令嬢マリアーナは、学園の食堂で仲の良い令嬢たちと昼食をとった後、おしゃべりしながら廊下を歩いているところだった。
「おいっ、待て!!」
もう少しで教室にたどり着くというところで、怒りを含んだ誰かの声がマリアーナの後ろから聞こえてきた。
学園内のどこであろうと大声を出すことはマナー違反であり、品のない行為とされている。マリアーナは不快を隠そうともせず、眉間にシワを寄せて後ろを振り返った。
次の瞬間。
マリアーナは激しい衝撃に襲われた。それと同時に、体が弾かれたように大きく飛ばされて廊下の壁に激突する。
頬が熱を持ってジンジンしている。どうやら平手打ちされたらしい。
そう気付いたマリアーナは、驚愕の思いで痛む頬を手で押さえた。そのまま自分に暴力をふるった相手に目を向ける。
見上げた先にはマリアーナの婚約者であるヨハンセン侯爵家の嫡男、テイラーの姿があった。そのすぐ後ろには、最近テイラーが親しくしている男爵令嬢ジョゼの姿が見える。
ジョゼの口元には意地の悪い笑みが浮かんでいて、それに気付いたマリアーナは確信した。ああ、この騒動はジョゼの謀なんだな、と。
今年度の新入生として学園に入学してきたジョゼは、ポッカー男爵家の庶子であり、一年前までは平民として市井で暮らしていたらしい。一緒に暮らしていた母親が病で急死したため、男爵家が仕方なく引き取ることになったという噂を、マリアーナもこれまでに耳にしたことがあった。
貴族マナーをほとんど学んでいないジョゼは、表情をころころと変えて喜怒哀楽を表現し、異性に対して過度なスキンシップを平気でとる。そんな淑女らしからぬところが一部の貴族令息には新鮮で可愛く感じられたらしく、気が付くとジョゼは男子生徒たちの人気者になっていた。
残念なことに、マリアーナの婚約者であるテイラーも、ジョゼの魅力に取り付かれた内の一人だった。
マリアーナとテイラーは婚約しているが、その結びつきは政略的なものである。二人が婚約したのは六才の時で、以後はずっと親しい幼馴染のような関係を続けてきた。
これまで二人の間に恋愛感情があったことはない。けれども付き合いが長い分、仲は良かったし気心も知れている。愛はなくとも信頼し合える良きパートナーとしての夫婦になれるだろうと、マリアーナは思っていた。そしてそれはテイラーも同じだったはず。
「マリアーナ、絶対に大切にする。結婚したら二人で力を合わせて、両家の発展のために尽していこう!」
幼い頃のテイラーは人好きする笑顔をマリアーナに向け、瞳を輝かせながらそんなことを言っていた。マリアーナはそれをこそばゆい気持ちで聞きながら、「ええ、そうね」と笑顔で返事をしていたものである。
そんな風に、それなりに上手くいっていた二人の関係がおかしくなったのは、三ヵ月ほど前、ジョゼが学園に入学してきてからだ。もう情けないほど呆気なく、テイラーはコロリとジョゼに篭絡されてしまったのである。
ジョゼに出会って以来、テイラーは変わってしまった。
暇さえあればジョゼの元に駆け付け、自分を好きになってもらおうと媚びを売る。高価なプレゼントを頻繁に贈り、砂糖よりも甘い言葉を彼女の耳元で囁く。誰のことよりもなによりもジョゼを優先するようになった。
言うまでもなく、そのようなテイラーの態度は家門に泥を塗る恥ずべきものでしかない。いずれ伴侶になる者の務めとして、マリアーナはテイラーに何度か苦言を呈してきた。
しかしテイラーはそれを受け入れようとはせず、まるで鬱陶しい虫を払うような態度でマリアーナを追い払ったのである。
それでもマリアーナは待つことにした。その内きっとテイラーは正気に戻る。自分の愚かな行いに気付いてくれる。
そう信じて、事の成り行きを静観することにしたのだった。
そうしたら、なぜか事態はますます悪化することになった。マリアーナがジョゼを虐めているとの噂が、学園中の至るところで囁かれ始めたのである。
もちろんマリアーナは虐めなどしていない。それどころかジョゼとは話をしたことさえない。しかし、テイラーは真偽を確かめることなく、一方的にマリアーナを責め立てた。
「ジョゼが男爵家の庶子であることを馬鹿にして罵ったそうだな! 身分や育ちで人の価値を測るなんて最低だ!」
「マナーの授業中、わざとお茶をジョゼのドレスに零したというのは本当か! 信じられない、なぜそんな酷いことができるんだ!」
「ジョゼの教科書を破り捨てただろう! しらばっくれても無駄だ! 君にやられたとジョゼが言っている。は? やってない? バカを言うな、正直者のジョゼが嘘をつくはずがないだろう!」
毎日のようにテイラーがやってきて、してもいないことを責め立ててマリアーナを怒鳴りつけるようになったのだ。
最初の頃はマリアーナも反論した。自分はなにもしていないと訴えた。けれどもテイラーは聞く耳を持たず、ジョゼの味方をするばかりである。
こうなってくると、マリアーナの堪忍袋の緒もさすがに切れる。テイラーとの関係を考え直すべきかもしれないと真剣に考えていた矢先に、今回の事件が起こったのだった。
それにしても、とマリアーナは考える。
女性を殴ることは、言うまでもなくとんでもない暴挙であり、紳士にあるまじき卑劣な行為である。それを人気の多い学園の廊下で行うなど、考えが足りないにもほどがある。
少し前までのテイラーは、ここまで愚かな人間ではなかった。もっと思慮深く、人を気遣うことのできる優しい人間だった。
それがこんなにも変わってしまうなんて……。
テイラーの変化を悲しく思いながらも、よし、とマリアーナは心に決めた。
これを機にテイラーとの婚約を解消し、なおかつ、してもいない虐めの噂で失墜した自分の名誉を回復しよう、と。
マリアーナはそっと周囲に目を走らせた。
そこにはマリアーナの友人を含めた多くの生徒たちがいて、テイラーの最低な行いに驚き、眉をひそめ、令嬢の中にはあまりのショックに倒れそうになっている者さえ確認できた。
ほとんどの生徒たちが、女性に手を上げたテイラーに非難の目を向けている。
中には冷ややかな顔でマリアーナを見ている令嬢や、いい気味だと言わんばかりにニヤニヤしている令息もいる。マリアーナのジョゼに対する虐めの噂を信じている生徒たちだろう。
マリアーナはそれらを瞬時に確認すると、今から自分はどういう行動をとるべきかを考え始めた。そして計画が練り上がると、その第一歩として、まずは弱々しい演技を皆の前で披露することにしたのだった。
その理由はマリアーナの見た目の印象が「強い女」だからだ。
マリアーナはかなりの美人ではあるが、少しつり目で勝気な容貌をしている。口調もハキハキとしていて、男性には生意気で可愛げがなく見えるタイプである。
そんないつも強気なマリアーナが泣いてみせたらどうなるか。
人前で涙など絶対に見せそうにないマリアーナの思いがけない弱々しい姿に、皆間違いなく驚くはずだ。
それでなくとも殴られた直後である。マリアーナの姿はとても痛ましく、憐れで可哀想な庇護すべき存在に見えるに違いない。
そんな同情心を誘う姿を武器にして、まずは周囲の人間を味方に引き入れようとマリアーナは思った。それに成功すれば、後のことはどうにでもなる。
さて。マリアーナがテイラーに殴られてからこの結論に至るまで約五秒。考えがまとまったところで反撃に出ることにした。
「うっ……ひどい……どうしてこんな……」
打たれて赤く腫れた頬がよく見えるように、マリアーナは手を顎のラインに添えるように当てた。そして悲し気な表情でホロホロと涙を流す。
その場にいた者たちが、一斉に息を呑んだ。
いつでも凛として品のあるマリアーナが泣いている!
テイラーも驚きのあまり目を大きく見開いた。儚げに泣くマリアーナの悲哀に満ちた姿に動揺して、ただただ唖然とするばかりである。
計画通り、と心の中でほくそ笑みながら、マリアーナは震える声でテイラーに問うた。
「テイラー様、なぜです。どうしてこんなひどいことを……」
「あ、いや、それは……」
「まさか、理由もなくわたしを殴ったのですか? こんな公衆の面前で晒し者にするかのように? あんまりだわ。わたしたち、幼い頃からの婚約者じゃないですか……それなのに……ううっ」
両手で顔を覆い、更に激しくマリアーナは泣き始めた。
テイラーはそれを見て更に動揺する。
気の強いマリアーナのことだから、殴られたら怒り狂って怒鳴り返してくるだろうと思っていたのだ。それが言い返すどころか、殴った理由を知りたいとだけ言い、ただただ弱々しく涙を流す。
体を小さく震わせながら悲し気に泣き続けるマリアーナを見ていると、まるで自分がとんでもなく極悪非道なことをしているような気がしてきて、テイラーは堪らなく後ろめたい気持ちになった。
けれどもそこでハッと我に返る。いや違う、そうじゃない、とテイラーは拳を強く握りしめた。
自分は悪くない。悪いのはマリアーナだ。
なぜなら先に酷いことをしたのは、ジョゼに嫌がらせや虐めをしたのはマリアーナの方だからだ。
自分は婚約者としてマリアーナに己の罪を認めさせて反省を促し、ジョゼに謝罪させなければならない。それこそが自分のやるべきことなのだ。
そうだ、自分は間違っていない。
そんなことをテイラーが考え、自分の正当性を再認識していた時、テイラーの後ろに隠れるようにしていたジョゼがヒョイと顔を出した。そして、マリアーナをキッと睨みつけて言った。
「あたし、マリアーナ様に階段から突き落とされました。すごく怖かったし痛かった。テイラーはあたしのために怒ってくれただけです。なにも悪いことなんてしてないわっ、ひどいのはマリアーナ様の方よ!」
「そ、そうだ、ジョゼの言う通りだ」
テイラーはジョゼの肩を優しく抱くと、マリアーナを睨みつけた。
「マリアーナ! 君は俺と仲の良いジョゼに嫉妬して、階段から突き落としたらしいな。幸い軽い怪我ですんだけれど、打ち所が悪ければ死んでいたかもしれない。俺がさっき君を殴ったのは、そんなひどいことを平気で行う君の目を覚まさせるためだ! もう弱い者虐めなんてやめるんだ。そして、今すぐジョゼに謝れ!」
「……わたしはそんなこと、していません」
マリアーナは涙の浮かんだ瞳でテイラーを悲し気に見つめ、弱々しい声で反論する。
「ジョゼ様を階段から落とすなんて、そんな恐ろしいことしていません。わたしがやった証拠はあるのですか」
「ジョゼがそう言っている。そうだな、ジョゼ。マリアーナから突き落とされたんだよな」
「そうです、マリアーナ様にやられました! すごく怖かったです。ぐすっ」
包帯を巻いた腕を上げ、ジョゼは皆に見せつけた。
「ほら、見て下さい。落ちた拍子に打って痣になったんです。あの時は死を覚悟しました。あたし、本当に怖くて……」
ぐすんぐすんとジョゼは泣く。
しかし、どう見ても彼女の大きな瞳からは一滴の涙も流れていない。ただの嘘泣きである。それなのにテイラーはその嘘泣きに気付くことなく、心配で堪らないといった気遣う視線をジョゼに向ける。頬をほのかに染めてそれを見つめ返すジョゼ。
自分たちの世界に入り込んで見つめ合う二人を前に、マリアーナは小さくため息をついた。
あんな戯言に簡単に騙されて。
まったく情けない。
ジョゼの嘘にコロリと騙されるテイラーのことが、呆れを通り越して憐れに思えてくるマリアーナである。
とはいえ情けは禁物。婚約者に信じてもらえず、悲しみにくれる令嬢の演技をマリアーナは続行した。ぐっと力を入れて眉を八の字にすると、睫毛を震わせながらテイラーに縋るように問いかけた。
「証拠はないんですよね? ご本人以外にわたしがジョゼ様を突き落とすところを見た人はいるのですか? そもそも、階段から落ちたのはいつのことなのですか?」
「証人など必要ない。被害者であるジョゼ本人が犯人を見たと、君にやられたと証言しているのだから」
当然のことのようにテイラーは言う。
つまり、他に証人はいないし裏付けもないということ。
テイラーってこんなに頭の悪い人だったかしらと呆れながら、マリアーナはポロリと涙を流した。
「わたしはやっていないと言いました。けれどもテイラー様は、婚約者であるわたしよりもジョゼ様の言い分を信じるのですね」
「当たり前だ。心優しく正直で純粋なジョゼが嘘をつくはずがない。それに比べて、君は高い身分を盾にジョゼを虐めるような心醜き女性だ。信じるられるわけがないじゃないか。ともかく、君は今すぐジョゼに謝れ」
「でも、わたしは本当にやっていないんです。テイラー様、どうか信じて下さい」
しかし、テイラーはマリアーナの言葉に聞く耳を持たず、呆れたように大きく息を吐いた後にこう言った。
「ここまで言ってもまだ嘘を貫き通そうとするのか、呆れ果てたよ。もういい。マリアーナ、君のような性根の腐った女は我がヨハンセン侯爵家の次期当主夫人として相応しくない。俺たちの婚約を今ここで破棄させてもらう」
それを聞いていたジョゼの瞳が喜びに輝く。
マリアーナは縋るようにテイラーを見つめながら涙を流していたが、やがて諦めたように言った。
「どうあっても、わたしのことを信じてはくれないのですね。分かりました。正式な取り決めは当主同士の話し合いになるでしょうが、わたしとしては婚約破棄に異論ありません。了承させていただきます」
もともとテイラーとの関係を見直すつもりだったマリアーナにしてみれば、婚約破棄は大賛成でしかない。しかも、テイラーの方から言い出したのだから、慰謝料だってたっぷりブン取れるはずだ。
思わずニヤついてしまいそうになり、マリアーナは慌てて口元を手で隠した。
いけない、まだ気を抜いてはダメよ。
コホンと咳払いをすると、マリアーナは次へと駒を進めることにした。それは、やってもいない虐めのせいで失墜したマリアーナの名誉を回復することである。
これはかなり重要なことだ。虐めをしたことにされたままでは、慰謝料の金額が少なくなってしまうかもしれない。下手をすれば「おまえに瑕疵あっての婚約破棄なのだから、むしろ金を払え」とさえ言われかねない。
しくじるわけにはいかない、とマリアーナは心の中で気合を入れた。
神妙な顔をしてテイラーに問う。
「先ほどもお聞きしましたが、どうか教えて下さい。ジョゼ様が階段から落とされたのは、いつのことなのですか?」
テイラーがフンと不快そうに鼻息を吐く。
「自分がやったくせに白々しい。まあいいさ、教えてやろう。昨日の放課後だ。そうだな、ジョゼ?」
「はいっ!」
元気よく返事をするジョゼに、マリアーナは密かにニヤリと嗤った。しかし、表面上はショックを受けたような顔をして見せると、なにも言わず、ただただ静かに涙を流して見せた。
それを見て、なにを勘違いしたのかテイラーが鼻白む。
「なんだ、あれだけのことをしておいて言い訳ひとつできないのか、情けない。しかし、泣いたからといって許されると思うなよ。ほら、早くジョゼに謝るんだ」
「早く謝って下さい。あたし、謝れば許してあげますから」
勝ち誇った顔で詰め寄ってくる二人を前に、マリアーナは呆れてしまう。どうしてこんなに愚かで単純なんだろう。
テイラーとの関係を解消することは、やはり正しい判断だったと改めてそう思う。
実は昨日の放課後、マリアーナは友人二人とずっと一緒にいた。片時も離れずに一緒にいた。彼女たちに見つからないようにジョゼを階段から落とすなど、できるはずがない。
毎日のことではあるが、マリアーナはその友人たちといつも一緒に昼食をとっている。もちろん今日も一緒だった。今もすぐそばで心配そうに事の成り行きを見守ってくれている。
大切な大切なマリアーナの大好きな友人たち。
一人は小さな体に溢れ出んばかりの元気がつまった子爵令嬢のカーラで、もう一人は豪奢な金色の巻き髪をした侯爵令嬢ジェイニーである。
マリアーナが殴られた時、二人はすぐにマリアーナに駆け寄ろうとした。が、マリアーナはそれを視線で止めた。このまましばらく黙って様子を見ていて欲しいと、二人に表情で頼んだのである。
察しのいい二人は、すぐにマリアーナの思いに気付いてくれた。以後は口を挟むことなく、静かに成り行きを見守ってくれていた。
その二人がここにきて、満を持したと言わんばかりに動き出した。マリアーナを守るかのように両隣に寄り添うと、腕を組み、怒り心頭といった感じでテイラーとジョゼを思いっきり睨みつけた。
令嬢二人から強く睨みつけられ、そのあまりの迫力にテイラーは思わず半歩ほど後退った。その動きに合わせたかのように、ずいとジェイニーが前に出る。
「テイラー様、謝れとはどういうことですの? マリアーナ様はやっていないと言ってらっしゃるわ」
「ふ、ふん、あんなのは言い逃れるための嘘に決まっている!」
「嘘? あら、それはおかしいですわねぇ」
かわいらしく首を傾げた後、ジェイニーは細めた目でテイラーをねめつけた。
「だって昨日の放課後、わたくしたち三人は教室を出たその足で、街で評判のカフェへと一緒に出かけましたのよ? 寄り道はしておらず、そこの男爵令嬢とは一度も会いませんでしたわ」
「……ジェイニー嬢、友人を庇いたい気持ちは分かるが、あまり褒められたこととは思えないな。友人だからこそ真実を語るべきでは?」
「あら、テイラー様はわたくしが嘘をついているとおっしゃるの? 今代の王妃様を伯母に持つこのわたくしが? こんな公衆の面前で嘘を言っていると? おっしゃるの? え、本当に?」
目が一ミリも笑っていない笑顔を自分に向けてくるジェイニーに、テイラーの背筋に悪寒が走る。
「そ、そんなつもりはないが、しかし、状況から考えると……」
とその時、テイラーの後ろからジョゼが叫んだ。
「あのっ、あのっ、もしかしたら、あたしが見間違えたかもしれないです」
ジョゼの声に、え、とテイラーが目を大きく見開いた。
「シ、ジョゼ……?」
「あたしを突き落とした相手のこと、実は後ろ姿しか見えなかったんです。マリアーナ様と同じ髪色だったし後ろ姿もよく似てたから、それでつい思い込んじゃったのかも。でもそれはいつもマリアーナ様に虐められていたから、今回もそうに違いないと思っちゃったからで……」
「な、なるほど、そうだったのか。そ、そうだな、やはりジョゼは悪くない。悪いのは勘違いされる原因を作ったマリアーナの方だ。自業自得だ!」
誤りを謝罪するでもなく、冤罪をかけられたマリアーナの方に非があると言わんばかりのテイラーたち。そんな彼らに我慢できなくなったのか、今度はカーラまでもが凍える視線をテイラーとジョゼに向けた。
「ねえ、そこのあなた、虐められたとか言っているけれど、マリアーナ様が本当にあなたを虐めたの?」
「されました! ホントですっ! 低い身分をバカにされたり、庶子であることを蔑まれたり、教科書を破かれたり廊下で足をひっかけて転ばされたりしました。それに池に落とされたことだって、お母様の形見のネックレスを捨てられたことだってあります! あたし、とても悲しくて……っ!!」
ジョゼは顔を両手で覆うと、ひっくひっくと泣き始めた。かわいそうに、とテイラーが労わるようにジョゼを抱きしめる。
それを見ていた周囲の生徒たちからは、ジョゼに同情するような優しい視線が向けられた。反対に、虐めたとされるマリアーナには、怒りと蔑みの視線が突き刺さる。
「泣くな、ジョゼ。これからは俺が守ってあげるから。もう二度と虐めなどさせやしない」
「あ……ありがとう、テイラー。すごく嬉しい。あたし、今までずっと、とても怖かったの! 辛かったの! ぐすっ」
「大丈夫だ、もう大丈夫」
「うんっ、ありがとう、テイラー」
「あー、ゴホンゴホン」
とそこでカーラがわざとらしく咳払いをしてみせた。その顔は笑顔でありながら、不機嫌さとイラつきの感情だけを表している。
「話を戻すけど、マリアーナ様がいつ虐めをしたと言うの? 言わせてもらえばあなた、いつも男性たち数人を周りにはべらしていて、一人になることがないように見えたけど? テイラー様も、休み時間や放課後のたびに彼女と一緒にいましたよね? そんな中で、マリアーナ様がそこの令嬢に虐めをする機会があったとは思えませんが?」
「そ、それは……」
一瞬たじろいだテイラーだったが、すぐに反論した。
「ジョゼだって一人になる時くらいはあるだろう。俺は学年が違うから、常に一緒にいたわけじゃない」
「そうです。マリアーナ様はいつもあたしが一人でいる時を見計らって意地悪してくるんです。だから人に助けてもらうことができなくて……」
「あら、そんなこと不可能じゃない?」
「え? 不可能? なんで?」
不思議そうな顔をするジョゼに、諭すような口調でカーラが説明する。
「あなたが一人になる時を狙うためには、マリアーナ様はいつもあなたを見張っていなければならない。先ほどテイラー様も言っていたけれど、わたしたちとあなたとは学年が違うから校舎も別。休み時間のたびに一年の校舎に行って虐める機会がくるのを見張り続けるなんて、そんなことできるはずがないわ。しかも、それをわたしやジェイニー様に見つからないように実行するなんて、絶対に不可能よ」
その通りだわ、とジェイニーも同意する。
ジェイニー、カーラ、マリアーナの三人は、学園にいる間は基本的にいつも一緒に行動している。そんな中、マリアーナがこっそりと教室を抜け出し、他の二人に知られずにジョゼを虐めるなど、どう考えても不可能なのだった。
「わたくしたち以外のクラスメートの方々も、マリアーナ様はいつも教室にいたと、虐めを行う暇なんてなかった筈だと、きっとそう証言して下さるわ。でも、あなたは言うのよね? 一人でいた時にマリアーナ様に虐められたと」
ジェイニーから冷たい視線を向けられて、ジョゼがギクリと体を震わせた。
「え、えっと、それは……あの……」
「ねえ、あなた本当にマリアーナ様に虐められましたの? もしかして、嘘をついているのではなくて?」
「あっ、あた、あたしは虐められたの、本当よ!!」
喚くジョゼを無視して、ジェイニーとカーラはテイラーに問いかけた。
「テイラー様、そもそもあなたはマリアーナ様が虐めをしているところを一度でも見たことがありますの?」
「そっ、そんなもの、あるに決まって……」
「……本当に? 神に誓えます?」
「う……」
言い淀んだことが答えのようなものである。
しかし、テイラーはしぶとかった。正論で言い返してきたのである。
「確かに俺は見たことがない。けれど、見ていないからといって虐めがなかったとは言えない。それに俺が見ていなくとも、これだけ噂になっているんだから、誰かしら目撃者はいるはずだ」
「なるほど、おっしゃる通りですわね。では、今この場にいらっしゃる皆様にお聞きしてみましょう」
ジェイニーが周囲の生徒たちをぐるりと見回した。いつの間にか、周囲にはかなりの人だかりができている。
「皆様の中で、そこの男爵令嬢がマリアーナ様に虐められているところを見たことのある方、いらっしゃいまして? いらっしゃるなら挙手をお願いしますわ」
しかし、待てど暮らせど誰一人として手をあげようとはしない。
さすがに場もざわつき始めた。
学園の生徒たちはこれまで何度も耳にしてきた。婚約者を奪われそうになった伯爵令嬢マリアーナが、嫉妬のあまりジョゼという名の男爵令嬢を虐めていると。かなり陰湿な虐めを繰り返し行っていると、そう聞いていたのだ。
しかしたった今、それらの噂の信憑性の低さが露呈した。
もしかすると、すべて嘘だったのかもしれない。
マリアーナはなにもしていなかったのかもしれない。
となると、次に考えるのはこれである。
自分たちを虚偽の噂で騙してきたのは一体誰だ?
思い当たる人物は一人しかいなかった。
その人物は、つい先ほど自ら口を開いてこう言っていた。
『されました! ホントですっ! 低い身分をバカにされたり、庶子であることを蔑まれたり、教科書を破かれたり廊下で足をひっかけて転ばされたりしたし、池に落とされたことだって、お母様の形見のネックレスを捨てられたことだってあります! あたし、とても悲しくて……っ!!』
シーンと静まり返る中、一人の令息の声が響いた。
「はっ、ホントかよ。あれ全部嘘だったのか? うわー、信じられないな。演技力すごすぎ。同情した俺の優しい気持ちを返して欲しい」
それは、噂に惑わされた者たち全員の心の代弁で。
次の瞬間、騙されたことに対する怒りの矛先が一気にジョゼへと向かった。
「嘘をついていたのね!」
「男爵家の分際で伯爵家の人間を陥れようとしたのか」
「許せないな」
「信じられない、悪辣が過ぎるわ!」
「学園では身分関係なく平等とは謳われてるけれど、これは看過できない」
周囲の人間から急に怒りを向けられたジョゼは、顔を青褪めさせてテイラーにしがみついた。
「え、なんで? どうしてこうなるの? テイラー、あたし怖いっ……え?」
しかし、怯えるジョゼを安心させるどころか、テイラーはその手を乱暴に払いのけた。
ジョゼは驚いて目を大きく見開く。
「テ、テイラー?」
「ジョゼ、俺を騙していたのか? 虐められたりなど、していなかったのか?!」
「いえ、あの……違うの、テイラー」
「図々しく俺の名を呼ぶな!」
「いやっ、そんな悲しいこと言わないで!」
「うるさいっ。ああ、なんてことだ! くそっ、俺に近寄るな! ポッカー男爵には父上を通して正式に抗議させてもらうからな!!」
「お父様に?! やめて!」
「不愉快だ、失せろ!」
「そんな悲しいこと言わないで。あたしのこと好きって言ったじゃない!」
ジョゼに泣きながら足にしがみ付かれ、テイラーは身動きが取れなくなっている。力任せに剥がそうとしても、ジョゼの力は見た目より強いらしく、なかなか振り払えずにみっともなくもがくばかりである。
そのまま二人は見苦しく言い争いを始めたのだった。
周囲の生徒たちがテイラーとジョゼを冷ややかに見据える中、マリアーナと友人の令嬢二人は静かにその場を離れた。テイラーから平手打ちされたマリアーナの頬の手当をするために、医務室へと向かったのである。
医務室に入ってドアを閉めた途端、マリアーナはジェイニーとカーラを抱きしめた。
「ありがとう、二人とも。おかげですべてが思う通りに進んだわ!」
「やりましたわね!」
「よかった!」
三人で円陣を組むようにして抱きしめ合う。
「あの男がいきなりマリアーナ様に殴りかかった時は、もう心臓が止まるかと思ったわ!」
「殴られた衝撃がかなり激しかったように見えましたけれど、大丈夫ですの?」
ジェイニーが心配そうにマリアーナの頬に手を添える。
「ああ、これは……ふふ、実は見た目ほどひどくないの」
世間一般には隠していることではあるが、実はマリアーナは幼い頃からお転婆な少女だった。三才年上の兄と競うようにして、剣術や体術の訓練を嬉々として行っていたくらいである。
だから今回、後ろから近付いてきたテイラーに殴られると気付いた瞬間、わずかに体を後ろに引いて平手の勢いを殺し、自分の足の力で壁に向かって勢いよく吹っ飛び、わざと壁に激しくぶつかって見せたのである。テイラーがとんでもなく非道なことをしたと、周囲の皆に見せつけるためだった。
「それにね」
いたずらっぽくマリアーナは笑う。
確かにテイラーはマリアーナを殴った。しかし、彼もしっかりと教育を受けた貴族男性である。か弱い女性を本気で殴ったりはしなかった。
音で表現するならば「ぺちん」と鳴るくらいのへなちょこビンタだったのである。マリアーナが勢いよく壁に激突したのを見て、最も驚いたのはテイラーだったに違いない。
殴られた時には怒りが湧いた。
けれど、そのおかげで周囲の同情をうまく買うことができたし、その流れもあって、虐めの噂が嘘だったことを証明する話にも聞く耳を持ってもらえたのだ。
今になって考えると、皮肉にも最初にテイラーが殴ってくれたからこそ、マリアーナへの同情を集めることができて、すべてのことが思い通りに進んだと言える。
とはいえ、虐めの噂を払拭できたのは、間違いなく友人二人のおかげだった。
虐めがすべてジョゼの自作自演だという話を、皆が思ったよりもあっさり受け入れてくれたのは、ジェイニーとカーラがいたからだ。二人が分かりやすく説明してくれたからこそ、信じてもらうことができた。
虐めの加害者だと思われているマリアーナだけなら、誰もまともに話を聞いてくれようともしなかったかもしれない。
「本当にありがとうございます、ジェイニー様、カーラ様」
マリアーナは心からの感謝の気持ちを二人に伝えた。
テイラーに恋心は持っていなかった。それでも自分の婚約者が他の女性と親しくしている姿を見るたびに、マリアーナの心は傷ついた。やってもない虐めについてテイラーから怒鳴りつけられ、学園中の生徒たちから冷たい目で見られ続けたこの数ヵ月、本当に悲しかったし辛かった。
そんな中、心折れることなくマリアーナが胸を張り、前を向いていられたのは、いつも励まし、勇気付けてくれて、どんな時も信じてくれたジェイニーとカーラがいてくれたからだ。
婚約者には恵まれなかった。けれど、それを補って余りあるほど素晴しい友人たちが自分にはいる。
わたしは最高に幸運な人間だわ、とマリアーナは心の底から思うのだった。
それから一週間、マリアーナは心身の療養のためとしてずっと自宅に引き籠っていたのだが、その間に色々なことが片付いた。
まずはテイラーとの婚約の解消。
公衆の面前で行われた一方的な婚約破棄宣言やジョゼとの不貞行為、また、婚約者であるマリアーナを守るどころかジョゼを虐めたと決めつけて責め立てたことなど、これまでの経緯を聞いたマリアーナの両親は怒りに怒った。すぐにヨハンセン侯爵家に正式な抗議を行い、テイラーとの婚約は即破棄された。そして、莫大な慰謝料の支払いを約束させたのである。
家門に泥を塗ったとしてテイラーは廃嫡され、同時に学園も退学させられた。今は領地で謹慎させられているらしい。
テイラーの言い分としては、自分も騙された被害者なのだから廃嫡されるなんておかしいし、マリアーナとの婚約破棄も無効だ、となるらしいが、当然ながらそんな自分本意な言い分が認められるはずがない。
愚かで身勝手なことばかり言う息子に見切りをつけた父親に、これ以上反抗するようなら除籍すると脅されたテイラーは、しぶしぶ領地で大人しくしているそうだ。
そして、もう一人の問題児であるジョゼがどうなったかというと、彼女も学園を退学した。
何人もの貴族令息を誘惑して問題を起こしまくったジョゼは、そのことを聞いてブチ切れた父男爵から、三十才も年上の裕福な商人の妾として売られてしまったのである。
後に聞いた話によると、ジョゼはすぐに主人の寵愛を勝ち得て、男爵家にいた頃よりも裕福な暮らしを満喫しているという。
さすがは元平民は強く逞しい。
転んでもただでは起きない、といったところか。
ただし、その三年後には本妻の息子との浮気が発覚し、今度は他国の奴隷商に売られることなるのだが、それはまた別の話になる。
*****
一週間の療養後、学園に戻ったマリアーナには、数ヵ月ぶりに平穏な日々が訪れた。
テイラーとの婚約が破棄されたことで、若干傷物っぽくなってしまったマリアーナではあるが、本人はそのことを気にしてはいなかった。しばらくは誰とも婚約せず、のんびりと一人身を堪能できて丁度いいとすら思っていたのである。
婚約者との付き合いより、友人であるジェイニーやカーラとの時間を楽しみたいと思ったからだ。
「あら、わたくしとしては、マリアーナ様に弟を紹介したいと思っておりますのよ?」
放課後、いつもの三人でカフェに立ち寄り、美味しいケーキとお茶を楽しみながらおしゃべりに花を咲かせていた時「しばらくは婚約者なんていらない」と呟いたマリアーナに、ジェイニーがにっこり笑いながらそんなことを言った。
「ええ?! ジェイニー様の弟君を? 今はおいくつなの?」
「三つ年下で、すごくカワイイんですの。成人後は父から子爵位を譲り受ける予定でしてよ」
「年下……三才……うーん」
考える素振りをマリアーナが見せると、カーラも負けじとこんなことを言い出した。
「あら、だったらウチのお兄様なんてどう? 見た目がクマみたいでモッサリしているせいで、いまだに婚約者が見つからないの。でも、とっても優しいし、働き者だし、真面目だし、愛情深いし、自慢のお兄様よ!」
「まあぁ、クマさん!!」
叫んだのはジェイニーである。
頬をほんのり赤く染めて、美しい瞳を輝かせている。
「クマさん……ああ、わたくしの好みのど真ん中ですわっ!」
「「ええ!?」」
「わたくし、今の婚約者との関係を白紙に戻してもらおうかしら。ねえカーラ様、そうしたらわたくしにお兄様をご紹介下さる?」
「な、なに言ってるの、ダメに決まってるじゃない! ジェイニー様のご婚約者といえば第二王子殿下よね。しかも溺愛されまくってるし」
「そ、そうよ。冗談でも、そんなこと言ってはダメだわ! カーラ様のお兄様のお命がマズいことになってしまうわよ」
「ええ~~~~、そんな、いいじゃありませんか。わたくしが絶対にお守りますから、お兄様をご紹介下さいませ!」
「ええー、じゃないわよ。第二王子殿下、麗しい美青年じゃない! そっちで満足しなさいよ」
「……正直、あの芸術品のようなお耽美系のお顔は、わたくしの好みではないのですわ。やはり、男は雄臭い感じの方がそそりますわね!」
「「ぎゃーっ!!」」
マリアーナとカーラ、二人がかりでジェイミーの口を手で塞いだ。
「しっ、滅多なことを言ってはだめっ。どこに殿下の密偵が隠れているか分からないのよ?! ってか、絶対にジェイミー様の周りにはニ、三人張り付いているからっ」
「そうよそうよ! ジェイミー様、滅多なこと言わないでっ。ウチのお兄様、本気で消されちゃうからっ!!」
「もがもが」
まあそんな風に、女同士でくだらないおしゃべりをして、美味しいお菓子を食べて、買い物をしたり、街中をただぶらぶらと目的もなく探索する。誕生日にプレゼントを贈り合ったり、愚痴を言い合ったり、落ち込んだ時は互いに元気付け合ったりしながら、大切な時間を積み重ねていく。
貴族の家の生まれた以上、いつかはまたマリアーナも誰かと婚約し、結婚し、血を継ぐために子を成すだろう。気付かぬ内に確実に時は流れ、少しずつ大人になっていくに違いない。
そして、いつか。
二十年後や三十年後。遠い昔のことを、若かりし学生だった日々のことを、懐かしく思い出す時がくるに違いない。友人たちと過ごす当たり前の日常は、未来の自分にとって、まるで宝箱の中の宝石のように光り輝いているはずだ。
その時のためにも。
「わたし、お二人ともっとたくさん楽しいことをして過ごしたいわ! ねえ、次の夏季休暇、我が領の別荘地に遊びに来ない? 綺麗な湖があって、水遊びができるの。ボート遊び、ぜひお二人と一緒にしたいわ」
マリアーナがそう言うと、ジェイミーとカーラが瞳を輝かせた。
「まあ、ぜひお伺いさせていただきたいわ!」
「わたしも行きたい!!」
「ああ、早く休みにならないかしら。今からとても楽しみ」
ふふふ、と三人で顔を見合わせて笑った。
そして、二ヵ月後の夏季休暇。
なんとかマリアーナと義理の姉妹の関係になろうと画策するジェイミーとカーラが、それぞれ弟と兄を付き添いとして別荘にやって来ることになる。
その時、お忍びでこっそりとやってきた第二王子がジェイミーとカーラ兄との仲を盛大に勘違いしてしまい、あわや決闘騒ぎになりかけたり、その後なぜか意気投合して第二王子とカーラ兄とが親友になったり、マリアーナの妹とジェイミーの弟とが恋仲になったりと、思い出の宝箱には美しい宝石がどんどん増えていった。
そして二年後にはマリアーナとカーラの兄が結婚し、仲睦まじい二人は三男一女の子宝に恵まれることになる。
自分たちの結婚や兄弟姉妹同士の結婚により、気が付くと義理の姉妹になっていたマリアーナとジェイミーとカーラは、自分たちの子供が学園に通うようになった今も交流を欠かすことなく、定期的に会っては楽しい話に花を咲かせている。
そうやって今もまだ、マリアーナの宝箱の中のキラキラは増え続けている。
そのキラキラは、この先もずっと増え続けるに違いない。
end
最後まで目を通して下さってありがとうございました。
誤字脱字ありましたら申し訳ありません!!!m(_ _)m