邂逅編 10
結納用として用意させていた上等な酒を浴びるほど飲み、酔いに任せて眠っていた赤獅子陛下。彼がやっと意識を取り戻したのは、翌日の真昼間のことでございます。
「陛下! 陛下!!」
ドンドンドン。女人の声で名を呼ばれつつ扉を叩かれれば、招いた覚えのない客人が誰かなんて赤獅子王には問わずともわかります。お節介で無情でリアリストで、良心的な幼馴染みです。
「……入れ。」
ソファの背凭れに両腕を開いて乗せたまま寝ていた陛下は首を鳴らしながら声をかけます。
誰もが恐れて近付こうとしないはずのこの部屋ですが、サラだけは迷いなく扉を開き、第一声はこれです。
「なんですか、お酒臭い……!」
本当に、彼女が嫁に来てくれていたものなら、どんなに幸運だったでしょう。実はこの陛下、未だに幼い頃の淡い恋心を忘れきれずにおりました。
その頃には既に彼女はとある公爵家嫡男に恋心を寄せていたため、顔がどうの以前に実るはずのない想いでしたが。
「窓、開けますわよ?」
「ああ、適当に頼む。」
大国の主が丸一日引きこもれるとは、本人でも考えてはおりません。
サラの手でカーテンと窓が次々開け放たれる音を聞きつつ、伸ばした手で水差しを取り、蓋を外してそのままごくごくとぬるい水を飲みくだします。酒にはめっぽう強いので、陛下はこの程度じゃまだまだ潰れておりません。
「陛下……、だから申し上げておりましたでしょう?」
空の酒壜を集めながら、サラは呆れ半分に尋ねます。
もう半分は優しさであります。
「すまぬ。俺もやっと頭が冷えた。」
今日ばかりはいつもの間違った王様テンションが保てる感じではないらしく、若干は素が出ております。
そういう顔を見せられる相手は、この地上でただ一人、唯一サラのみだけなのでありました。
本当ならば新たにもう一人、心許せる伴侶をと求めていたのですが。
「遅すぎたようだがな。」
「……まったく。」
二百三十七回目の失恋がこの程度で済んだのは、サラから見ればかなりラッキーです。
もっと灰か塵みたいになっているのを想像していました。実際、そんな日も過去には何度かありました。
会話が成り立つだけマシかもしれません。
「陛下。……まだお耳に入っていないかと思いますが、後宮の中庭の一角が枯れました。」
「ツキモノの暴走か。」
察しの早い陛下にほっとするサラでしたが、同時に不安でもあります。
赤獅子王は禍々しいご尊顔のせいで誤解を招きやすいお人ではありましたが、中身に関しては元々聡明です。
ただ、聡明な時ほど自分を犠牲にしている感があるのは否めません。戦争の時も、先王を手にかけた時も、そうでした。
「どうしてお気付きに?」
騒ぎ以降はずっと部屋に引き籠もっていたはずの彼がどうして外の状況を判断できたのか、不思議に思うサラでしたが、陛下は黙り込んでしまいます。
代わりに、ぽんぽん、と自分の胸板を叩いて示しました。
胸ポケットのしわしわに枯れた薔薇に気付いたサラは、必死に失笑を隠すより他にありません。陛下なりのおめかしだったのでしょうが。
「花の王国は納得しているものかと思ったが……、存外あの王子が送られてきた理由、厄介かもしれん。盲目であったため、考え至らなかった。」
昨夜の残りの乾きかけたチーズを摘まみつつ陛下が語ります。曰く、ツキモノにはプラスの力もあればマイナスの力もある、というのが獅子の国歴代の学者たちの推測とのこと。
花の子の力は豊穣と子安。その力の反対ならば、凶歉と死を意味するでしょう。
そんなもの、生きた時限爆弾と大差ありません。
「花の王国は暗に、こちらの都合で王子が返却されることを狙っているのか……。深くはわからぬがな。」
基本的にツキモノつきは国一つにつき一人だけですから、侵略国家でもない限りはどの国も他国の祖の聖霊やツキモノには詳しくありません。
全ては憶測に過ぎませんでしたが、実際陛下も似たような事件を起こしたことがありましたため、サラにも外れてはいないような気がいたしました。
「なんにしろ、原因が俺ならば話は早い。正式に真珠の名を渡す前で幸いだった。」
その一言で全てが決まったと言えるでしょう。
赤獅子王はフローディオを手放すと判断したようです。
「サラよ。あの王子は帰国を喜ぶであろうか。」
こういった問題は、「返しました。はいお終い!」とはなかなかいかないものです。フローディオにも立場というものがあります。
花の子に限ってありえないことでしょうが、これが普通の王女だったりするなら、役立たずと後ろ指さされることとてあるでしょう。なので念のための確認です。
「難しいかもしれません……。王子は姉君の身代わりとしてここに来たつもりでおりますから。」
他の国には庇護の対価を求めて受け取ってしまっている以上、彼の国に対してのみ特別扱いとはいきません。王子が返されれば、次は王女を要求することになります。
頭を冷やせと繰り返して壁となってくれていたサラは、どこまでも正しかったのだと、自ら全てぶち壊してしまった赤獅子王は髪を乱暴にかき上げました。
「……冷酷無慈悲な血の獅子に、最初から好意などあるわけがなかったか。また苦労をかけさせたらしい。」
笑って許すには、状況が重すぎます。サラは複雑な表情のまま口を噤んで、沈黙のまま恭しく頭を下げて応えるのみです。
「あの王子が好みそうな土地を領地としてくれてやる。それでも飢饉が起きた場合には、数年は将来の豊穣を祈って国庫を開かせるとしよう。見繕っておけ。」
取るに足らない小国の王子相手に、破格の処遇でありました。
酷い現実に打ちひしがれてなお、赤獅子王はフローディオを憎めずにいるようです。
「……本当によろしいので?」
「他に術がない。俺とて自分の国が惜しい。」
サラは普段こそあんな感じですが、できることなら陛下には幸せになってほしいと本気で願っておりました。
か弱い光ではありましたが、一縷の希望を見出したつもりで事に当たっていただけに、失恋の痛みには慣れずとも立ち直り方には慣れてしまっている赤獅子王が哀れでなりません。
しかし命じられたとあれば、サラにできることは恙無く遂行することのみです。
「かしこまりました。」
その日のうちに、サラは今後の沙汰についてをフローディオへ説明いたしました。
にもかかわらず、陛下の英断もむなしく、翌日の王宮では敷地内のありとあらゆる植物が次々枯れ果ててしまうのでありました。