第六話
「夢野那菜……?」
大学の展示室に、文学作品が展示されていた。
その中で一際目立っていた作品の作者は、見覚えのある名前だった。
僕が好きだった人。
彼女の事を、二年経った今も忘れられないでいた。
同じ大学と聞いていたけれど、無事に合格したのかな。
この大人数の中から、探し出すというのは、到底無理な事だろう。
この名前も、もしかしたら彼女ではないかもしれない。
誰かのペンネームなのかもしれないし、彼女と瓜二つの人間なのかもしれない。
そう考えていくと、段々と希望を失っていってしまう。
もし彼女本人だとしたら。
どこにいるのだろう。
「吉矢津」
「お、秋野か」
「なんかさ、敬語じゃないのもそれはそれで違和感あるけど……」
「あ、敬語がいい?」
「ううん、このままでいい」
「そういえば、展示室行った?」
「さっき行ったばっかり。みんなすごいなーって思う」
「実は私のも展示されてるんだよ」
「そうなの? 教えてくれればよかったのに」
「今教えた」
「……そっか」
「後で見てみて。ペンネーム使ってるから、分からないかもしれないけど」
「え、ペンネーム教えてよ」
「……夢野那菜」
僕の好きな人は、すぐ近くにいた。
たくさん話して、いつの間にか仲を深めていた。
彼女は、僕の事を覚えているだろうか。
あの時教えてくれた名前は、ペンネームだった。
どうして、嘘をついたんだろう。
僕に彼女は、不釣り合いなのだろうか。
言ってしまった。
勢いで、ペンネームを言ってしまった。
もし彼が私の事を覚えていたとしたら、今頃衝撃を受けているだろう。
私は嘘つきだ。
初対面のフリをして、新しい人間関係を作ろうと企んだ私は。
彼にどう、説明すればいいのだろう。
昔先生に言った事を、そっくりそのまま伝えれば、分かってくれるだろうか。
「……秋野」
「何?」
「作品、見たよ」
「あぁ……ありがとう」
「僕は文学苦手だから、尊敬する」
「いや、尊敬するほどのものじゃないから……」
「そうかな? 僕は好きだけど」
「え? あ、そう……」
「……また会えると思ってなかった」
「……覚えてて、くれたの?」
彼が私の事を覚えていた。
特に私を責めるわけでもなく、理由を聞くわけでもなく。
ただ、会えてよかったと言ってくれた。
こんなに広い大学の中で、再会出来た奇跡は。
これからやり直せば大丈夫という、合図なのだろうか。
「……シェアハウスとか、どう?」
「え、一緒に住むってこと?」
「まぁ……大学とバイトでずっと家にいる事はないし、節約できるかなって」
「僕は別にいいけど、大丈夫?」
「うん。吉矢津って女の子っぽいとこあるし、大丈夫」
「あ……やっぱり、分かるんだね」
「やっぱりって?」
「僕、女の子に憧れてるから……」
「お、コスメとか……興味ある?」
「しようとは思わないけど、興味なら」
「それなら、一緒に住んで得することだらけかもね」
「……迷惑かけたらごめんね、寝るの遅いし」
「気にしなくていいよ。昔みたいに、気楽でいてくれていいから」
「ありがとう」
一緒に住み始めてから、時が過ぎるのはあっという間だった。
レポートを提出し、講義やバイトも落ち着いた頃、やっと二人で話せる時間が出来た。
彼女はなんでも肯定的に考えてくれて、僕の性同一性障害についても、理解を示してくれた。
男だけど、女に憧れている。
それは罪のようなものだと思っていたけれど、彼女に出会って、その考えは変わった。
自分の思ったように生きればいい。
後悔のないように、好きなように。
昔よりも少し、薄くなった痕。
先生以外に、打ち明けられる人は誰もいなかった。
その先生すら、いなくなってしまった。
あれは、彼の母親だったのに。
まだ小学生だった私は、必死であの人を助けようとした。
彼を跳ね除けてでも、助けようと。
それがあっていたのか、間違っていたのかは、分からない。
ただ、あの人を助けるために。
足が勝手に、前へ進んでいた。