第三話
「樹、傘は?」
「待って。持ってけばいいんでしょ」
「うん」
「今日さ、墓参り行きたいんだけど」
「お、いいよ。私も行く」
「車出す?」
「別にそんなかからないし……大丈夫じゃない?」
「そう? じゃあいいや」
僕の頭の片隅には、いつも彼女がいて。
思い出のひとつには、先生がいる。
今は全然、会えていないけれど。
きっとどこかで、幸せに暮らしている。
お世話になったはずなのに、僕が礼をする前に、カウンセラーをやめてしまった。
先生が早くに娘を産んだ事は知っていたけれど、僕達と同じように、悩みを抱えていた事は知らなかった。
というより、分からなかった。
先生、ごめん。
もっと早くに、気づいていればよかった。
「昨日はあんなに晴れてたのにね」
「俺じゃないよ、多分」
「うん。分かってるけど」
「……大きい方の傘にすればよかった」
「……なんかさ」
「何?」
「私達だけじゃなくて、色んな人が悩んでるわけじゃん?」
「うん」
「だから、雨が降ってる日っていうのは、みんなが同じ気持ちの時なのかなぁって」
「……どういう事?」
「雨が降ってれば、会社とか学校に行かなきゃいけない人は、面倒くさいって思うでしょ?」
「思うね」
「てことは、その瞬間はみんな同じ事を考えてる……みたいな」
「……ふーん」
「興味ないね」
「いや、ないわけじゃないけど」
「いつもそうか」
「麗々が考えてる事って、哲学じみてるなーって思っただけ」
「哲学?」
「そうやって人の心情を考えたり、天気そのものを考えてたりとか」
「……まぁ、好きだから。そういうの」
「いいと思うよ。雨が降ってる理由とか、僕達と同じような人がいるって事とか。分かりやすい」
「……雨止んだ?」
「止んだね」
「……やっぱり天気って、猫みたいなんだね」
彼の両親のお墓参りに来て改めて、彼の孤独を感じた。本当に、彼は一人になってしまったのだと。
私が寄り添って、支え合ったとしても、彼の寂しさが解消される事はないのだろう。
彼を育てた親戚は、養護施設に預けたあと、消え入るように遠くへ行ってしまったらしい。
相手にも相手の事情があり、彼にも彼の事情がある。
分かり合うことは出来ないのだろうか。
私が彼に尽くしても、打ち解ける事は不可能なのだろうか。
今日は空が灰色に染まっている。
珍しく、天気は曇りだった。
ハッキリとしない、晴れているわけでもなく、雨が降っているわけでもない天気。
こんな日でも、家を出なくてはいけない人がいるんだろう。
出勤しなくてはいけない人、学校へ行かなくてはいけない人。
僕には、その辛さがよく分かる。
他の人間にも、理解出来るだろうけれど。
深く呼吸をした途端に、風が強くなる。
窓が少し音を立て、カタカタと揺れている。
まるで、僕に答えを求めているかのように。
「ねぇ、まだ寝てるの?」
「……ごめん、体調悪くて」
「え、早く言ってよ! 大丈夫なの?」
「うん。寝てれば治るから、麗々は気にしなくていいよ」
「そう……何かあったら呼んでね」
「ありがとう」
「……あの、聞き流してくれていいんだけど」
「樹のお母さん、名前なんて言うのかなって、最近よく考えててさ」
「息子にこんな素敵な名前をつけたんだから、お母さんも素敵な名前なんだろうな……って」
「……それだけ。お大事にね」
「……ママ」
「もう、教えて欲しいな」
「ママは、なんて名前なの?」
「……そうねぇ」
「樹が、ちゃんと覚えていてくれるって、約束してくれれば教えてあげる」
「約束する! 絶対!」
「本当?じゃあ……」
「ママの名前は、清花よ」
「清花……綺麗な名前」
「ありがとう、樹」
「絶対絶対、忘れないよ」
「うん。絶対ね」
「また会おうね……お母さん」