8.抱擁
改めて見れば、彼女の瞳はとても落ち着いていて、ゆっくりと瞼を閉じては、再び開けることを繰り返していた。
時折ラルフを遠慮がちに見上げるのだけど、しかしすぐに俯いてしまう。
おかしなものだと、彼は苦笑したくなるのをこらえてそんな彼女をぼんやり見つめていた。
娶ったばかりの妻は、彼女の異母妹はすぐ近くの部屋で穏やかに寝息をたてているというのに、自分は妻ではなくその姉と共に自室にいる。
彼女のちょっとしたしぐさやその姿態に少なからず反応している自分がなんだかとてもおかしくて仕方なかったのだけども―。
「聞きたいこと?今更何か?」
言葉に深い意味を込めたつもりは全くなかったのだが、彼女は少々ムッとした表情をしながら彼を見上げた。
「…きっとずっと気にしていたのは私だけなんです。だからこそ真意を、お尋ねしたかったのに」
「真意?何の?」
「お兄様がお母様にお話し下さったことです」
それだけを言うと、彼女は頬を染めて俯いてしまった。
彼女の言葉に、反応に、呆気にとられてしまったのはラルフの方だったのかもしれないけれど。
「ああ…お前を俺に預けて頂けないかと申し上げたことか?深い意味などなかったんだがな。あの時お前に言わなかったか?」
「仰ってませんわ。だってあの時お兄様は強引に私に…」
「そういえばそうだったな」
ニヤニヤ笑う彼に警戒したのか、彼女は一歩下がった。
またあの時と同じことをされるのかと思ったのかもしれない。
一歩下がってジロリとにらむように彼を見て、口をぎゅっと結んでしまった。
そんな彼女に彼は笑う。
「心配するな。さすがの俺でも妻を迎えた夜に他の女に手出しするようなことはしない」
「…ちゃんと異母妹を、妻だと思って下さいますか?」
「どういう意味だ」
「だってあの子はまだ8つ。その…お兄様が他の方になさるようなことはできませんわ」
「ハハ…お前が心配するようなことじゃない」
彼女の口からこのような言葉が出るのも滑稽だと思ったが、話しているうちに彼はようやく気付く。
彼女の様子が明らかにおかしい。
新婚の彼の元にわざわざやってきて話さなければならないようなことを彼女は話していない。
周りの目に触れたらあらぬことを言われるかもしれないことを果たして彼女は分かっていないのか?
「して、お前はここに何をしに来たんだ?聞きたいことが一つあると言っていたのに、もういくつも俺は答えている」
彼女は大きく肩を震わせた。
そして、大きく息を吸って気まずそうに彼を見上げる。
「ですから…真意です。本当にあれは、私をこのナイトフォードよりも小国へやるのを惜しんで下さったからなのですか?」
「何が言いたい?」
「私を…好いていて下さったからでは…ないのですか?」
「好いているさ。だってお前は俺の妹のようなものだし…」
「私は、妹ではありません」
「シェリス?」
彼女はドレスの裾をぎゅっと握って唇をかみしめ、こらえるように彼を見上げている。
何かを伝えたいのに伝えられない、伝えてはならないのに伝えたい。
おもわず彼は目を見開く。
「だって私、お母様に申し上げることができなかったんですもの。だから嬉しかったの。同情でも哀れみでもよかったの。お兄様の元へ行けるのなら…!」
彼女は唐突に涙を流して彼の懐に飛び込んだ。
「私、ずっとずっと子どもの頃からお兄様のこと、お慕いしていました。けれど伝えてはならない、お父様に縁組の話をされた時からあきらめなくてはならない、そう思っていたのに、でもあの日、お兄様に口づけをされた時から、忘れられなくなってしまったの…。だから今回、強引にイリスについてきたの。嫁ぐ前にお母様とお兄様のお国に来てみたかった。もう一度、お兄様にお会いしたかった…」
ラルフの衣服が彼女の涙によって静かに濡れていく。
垂れたままの両腕は今まさに自分の懐で泣いている女を抱きしめることができないでいる。
今、なんと言った?
これまで幾人もの女性に愛を囁かれたことのあるラルフではあったけれども、この時分、とても動揺していた。
彼にとってシェリスは初恋の女性であることに間違いはない。
しかしそれと同時に、否が応にも我が身を思い出させる象徴でもあった。
銀髪の髪、青い瞳、自分も彼女と同じものをもっている。
彼女が母より受け継いだのと同じように父王よりそれを受け継いだ自分は、この国から、立場から、そしてこの血から逃れられぬのだと思い知らないわけにはいかなかったのだ。
彼女のそれは美しいと本心から思ってはいた、彼女だからこそ銀も青も似合っていたのだ。
その彼女が、自分を好いているという。慕っていたという。
今、自分はどうするべきであるのか。
思考が鈍る。
あの時、彼女の母に数年ぶりに再会した時、自分はどんな想いで「シェリスを自分に預けてほしい」と言ったのであったか。
羨ましかった、取り戻したかった。
あの頃の、まだ何も知らなかった頃の自分。
子守唄のように母が自分に言い聞かせた言葉の意味を理解する前の自分。
純粋に、初めて出会った従妹に恋をした自分。
自然、瞳が閉じられた。
色々な思いが、すさまじい勢いで彼の頭の中を駆けて行った。
ようやく、彼の両腕はおそるおそる動きをみせた。
ゆっくりと、彼女の身体を自分から引き離した。
これが今、彼にできる精いっぱいのことだった。
「シェリス、俺がお前のことを大事に思っていることに変わりはない。お前は俺の…初恋の女だからな。でもお前はすでにサントリエ国の王の元へ嫁ぐことが決まった身、そして俺はお前の異母妹を娶った身、これ以上一緒にいることはできない」
「いや…お兄様」
彼女は尚彼の服を掴んで離さない。
涙を流して首を振る。
「もし今手を離してしまったら、きっともうお兄様とお話することさえできなくなってしまう…」
「そんなことはない、お前がこの国にいる間は話をする機会ぐらいはあるさ」
「でも私は…」
「シェリス!」
ラルフの諌めるような大声に、彼女は大きく身体を震わせた。
そしてしばらく彼を見上げた後、視線を伏せて息をついた。
「ごめんなさい。決してお兄様を困らせるつもりはなかったのに…結局困らせてしまったわ」
「シェリス、俺はな…」
彼女は再び首を振る。
それはさっきのとは違って、まるで自分を嘲り笑っているかのような、そのような動作だった。
両手で何度も涙をぬぐって、次に顔を上げた時の彼女の表情は、すっきりしたかのように晴れ渡っていた。
「今のこと、忘れて下さい。でも、ナイトフォード国に来てみたかったというのは本当よ。だって、嫁いでしまったなら安易に他国へ出かけることなどできなくなってしまうでしょう?」
このような笑い方をする彼女を、かつてラルフは見たことがなかった。
強引に涙を収めたようではあるが、ともすれば簡単に、泣きだしそうではないか。
ラルフの手が、無意識のうちに彼女の顔に伸びる。
とても優しく彼女の目元に触れ、頬に下り、そして唇に触れた。
そこは以前と変わらず柔らかかった。
何かを考えたわけではない。
言い訳をするなら引きこまれた、それしかない。
彼は一度は引き放した彼女の身体をそっと引き寄せ、そっと彼女の唇に己をそれを押し付けた。