7.鼓動
ここまで用意周到に準備し、決定されてしまっては、もはやラルフに打つ手などなかった。
何かを為そうとも為さずとも、時というものは皆平等に過ぎていくのだ。
2日後、果たしてムークライル国の豪華な駕籠が、共を連れて厳かにやって来た。
勿論ラルフは、自分の妻となるべき女性を出迎えない訳にはいかず、気乗りしないまま城門の前に立っていた。
ラルフの姿を認めると、駕籠の前を歩いていた者は深々と頭を下げた。
そして駕籠を停め、合図をし、すだれを開けさせた。
その中から出てきた人物。
始めに顔をのぞかせたのはイリス姫。
少々疲れた様子で辺りを見回している姫を抱き上げていたのは、シェリスだった。
彼女は異母妹をその場に下ろし、共に頭を下げた。
「この婚姻を以てこれまで以上に互いの国の絆を深め、共に繁栄して参りましょうと、父王より言伝を預かって参りました」
なぜだ、なぜシェリスがここにいる?
きょとんとしている少女ではなく、ラルフはシェリスを見ていた。
今すぐにでも彼女を質問攻めにしたかったが、状況がそれを許さなかった。
後ろに控えていた大臣は、すぐさまラルフとシェリスたちに城の中へ入るよう促した。
彼女は再び妹を抱き上げ、何も言わずに城の中へ入って行った。
ラルフはただその後ろ姿を、見ていることしかできなかった。
「おお、よくぞ参られた」
王自らが、ムークライル一行を出迎えた。
王の間に入った彼らを、王は満面の笑みで見つめ、労をねぎらった。
「父君は、息災でおられるか?」
「はい。母が亡くなりましてから数日は気落ちしておりましたが、今はこれまで同様励んでおります。お気遣いいたみいります」
「そうか。シェリス姫、そなたの母はこの国の生まれ、そなたにもナイトフォードの血が流れておる。第二の故郷へ帰って参ったと思い、ゆるりとくつろぐがよい。勿論他の者たちもだ」
王の言葉に、シェリスを含め皆が頭を下げた。
ただ一人、幼いイリスだけが物珍しそうに周りを見ていたのであるが―。
ラルフは父の隣に立って、高まる鼓動を胸に秘めて様子を伺っていた。
一行が到着したらすぐさま式を上げると言っていた王であったが、イリスが何度もあくびをしながら眠いと訴えたため、式は翌日に延期された。
王は侍女たちに怠りなく一行に仕えるよう命じた。
シェリスに抱き上げられた途端眠り始めたイリス。
与えられた部屋に下がった彼らに従って、ラルフも王の間を出た。
その晩、ラルフは眠れなかった。
あの後シェリスの部屋を訪ねようと思ったが、正式にまだ妻ではないイリスも一緒ということで、部屋に近寄ることすらできなかった。
共の者たちは客人とはいえ王族であるシェリスたちとは部屋が離されたが、それでもいつでも駆け付けることのできる距離にはいた。
さすがに遠慮したのだろうか、この日の晩はいつも勝手にやって来るジュリアも訪ねて来ず、ラルフは高まった鼓動を収める術を知らなかった。
自分がムークライルに行った時とは違う。
この国に彼女がいるというだけで、呼吸が早くなった。
そして―。
翌日、ラルフとイリスの式はつつがなく執り行われた。
まだ幼いとはいえ8才の姫は今自分の隣にいる男性とこれからこの城で暮らしていくということは分かっていたらしく、式の前にラルフに会った時「初めましてお兄様」と言った。
シェリスに色々と言われたのだろうか。
今日は一度も「疲れた」とか「眠い」とか、少女は口にしなかった。
お兄様、か。
これが笑わずにはいられようか。
兄ではない。自分はイリスと結婚したのだ。
だから、イリスに「お兄様」と呼ばれるのはおかしい。
自分のことをそう呼ぶのはイリスでも異母弟妹たちでもなく、シェリス一人しかいないはずなのに。
長身のラルフと成長期のイリスが並んでいると、夫婦ではなく兄妹のようにしか周りには見えなかった。
16才の少年は、8才の少女の唇ではなく額に、契の口づけをした。
華麗なる女性遍歴を積み重ねてきたラルフではあったが、さすがに8才の少女相手にそのようなことはできず、所謂初夜は妻を寝かしつけるだけで終わった。
ムークライル王と同じ色の髪と瞳を持つ幼い妻は、兄と慕う夫に寄りかかるように眠ってしまった。
その穏やかな寝顔に、ラルフはホッと胸をなでおろした半面、これがあと数年続くのかと思うとげんなりしないではいられなかった。
正室を娶った今、イリスが幼いことも手伝って、父は今度は側室を娶れと言うのだろう。
側室は正室を娶るよりも簡単だ。
どこぞの国の姫が侍ることもあるが、よほど身分が卑しくなければラルフが気に入った女性を何人でも迎えることができる。
かつて父がそうであったように、強国ナイトフォードの次期王ということで、他の国々からこぞって我が娘を、と申し入れがあるかもしれない。
現に何件かすでに届いていると聞く。
眠るイリスを目の前にして、やはり自分も父のようになるしかないのかと、ラルフの気持ちはどんどん沈んでいく。
亡き母のような女たち、自分より早く生まれてしまったばかりに他国に出された兄姉たちのような者たちを、自ら作り出すのか―?
イリスが完全に寝入った後、ラルフは静かに寝台を抜け出した。
この部屋はあくまでも夫婦の寝室であって、これまで彼の部屋としてあった物は、これからもそのまま維持される。
一人になりたいと思った。
そうでなければ、見えぬ何かがおかしくなりそうで。
早朝、イリスが目を覚ます前に戻ればいい。
そう思ってドアを開けると、真っ直ぐにシェリスと目が合った。
「シェ…リス。なんでここに?」
彼女の部屋は、この階ではないはずだ。
「気になったの。イリスが泣いてないかなって」
寝巻きのドレスを纏っているようだった。
見たことのない姿に、彼はドキリとしたのだが。
「姫ならぐっすり眠っている。心配ない」
「そう」
きっと彼女の用件は済んだはずなのに、彼女はその場から立ち去ろうとしなかった。
次第に、ラルフの眉間に皴が寄る。
「まだ何か?」
シェリスはばつが悪そうなどうしたらいいのか分からないような表情で、遠慮がちにラルフを見上げていた。
ただそれだけで何も言わない。
しばし彼女を見ていたラルフだったが、やがて息をついて背中を向けた。
「用がないのなら部屋へ戻れ。こんなところ誰かに見られでもしたら…」
そのままラルフは歩きだそうとしたのだが―。
がっしりと、シェリスが自分の手を握った。
驚いて振り返ったラルフだったが、今度は彼女は俯いたままやはり何も言わない。
ここではなんだからと、しかしイリスの眠る寝室に彼女を入れるわけにもいかず、ラルフは仕方なく彼女を連れて自室へ戻った。
ムークライルにある部屋とは違う暗い部屋に、彼女はどう思っただろう。
普段から暗い部屋だ。まして今は夜。
明かりをつけていないこの部屋は、まさに闇。
いつもは夜になっても明かりをつけないラルフだったが、彼女がいてはそういうわけにもいかずおもむろに手を伸ばした。
しかしそれは彼女の手によって止められる。
明るい所が好きな彼女が「つけないで」と、それを拒否したのだ。
闇にのまれてしまったのか、今ここにいる彼女は本当にラルフの知っている彼女なのかと本気で疑いたくなるほど静かだった。
例えるなら彼女は太陽、自分は闇を好む月。
そんな彼女が闇の中に入りこんで、何ができるというのだ。
「シェリス。お前」
「お兄様。一つ…お聞きしたいことがあります」
ラルフの言葉を遮って、ようやく彼女が口を開いた。
いまだ暗闇に目が慣れていなかったラルフには、今の彼女の表情がどんなものであったのか、全く伺い知ることができなかった。