3.苦悩
父譲りのこの髪と瞳の色が嫌いだった。
その色を恨めしそうに見つめる母のまなざしが嫌いだった。
しかしいくら気持ちがあがいてみせても、目には見えぬ枷でこの身体は父に、母に、この国につながれており、彼に逃げることなどできなかった。
その事実を悟り、何もかもが煩わしくて自暴自棄になっていた頃、女というものを知った。
彼女たちに触れている間は高揚とする感情の中に、確かに何か安らぎめいたものを感じることができた。
初めて逃げ場というものを、見つけたような気がした。
例えそこに、愛はなくとも。
先ほどまで華麗に踊っていた彼女の銀髪は、ようやく落ち着きをみせた。
思ったよりも力がこもっていたらしい、腕を掴まれている彼女は一言「痛いわ」と言って笑った。
笑んだ瞳の奥に映る自分が、妙に汚れたものに見えた。
「美しくなったな、シェリス」
「私から見ればお兄様の方がお美しいわ。妬けちゃうくらい。同じ色の髪と瞳を持っているのに、お兄様のそれの方が似合っているなんてずるい」
「俺は…嫌いだ」
俯いてその色を半分隠してしまったラルフを、シェリスは微笑しながら見ていた。
彼が幼い頃の彼女を覚えていたように、彼女もまた幼い頃の彼を覚えていたのだ。
初めて会った従兄妹は、お世辞抜きに美しかった。
母に「あの方はあなたのお兄様のような方よ」と紹介され、心が浮き立ったのを覚えている。
だからずっと会えずにいたこの数年間、どれほどに彼を慕ったか知れない。
あの頃もどこか影を背負っているように見えたものだったが、そういうところも全く変わっていないなんて。
「あら、私は好き。だってお兄様とおそろいですもの。私ね、鏡を見るたびいつもお兄様のことを思い出していたのよ」
今度は、彼女が視線を下げる番だった。
「でも本当にまだこの国にいる間に会えてよかった…もしかしたらもう、二度と会えなかったかもしれないから…」
「…なぜだ?」
彼と彼女の国は同盟国である。
そうそう幾度とも往来しているわけではないが、彼らは従兄妹どうしでもある。
二度と会えないなんてこと、ありえないのに。
「私ね、数ヵ月後にサントリエ国へ嫁ぐことが決まっているの。一度嫁いだら、そうそう簡単には帰ってこれないと聞いたわ。現にお母様も、嫁がれてから一度もお兄様のお国へお帰りになられてないそうだし…」
彼女の言葉に、鼓動が大きく波を打ったのが分かった。
顔を上げて彼女の頬に手を伸ばすと、ほんの少し、手が濡れた。
「同盟の証か?それとも単に…」
人質か?
ラルフが手に触れたそれを舐めあげると、ほんのりと塩味がした。
初めて見た、彼女の涙。
「お兄様もご存じだと思うけれど、ムークライルは決して裕福な国ではないわ。だからこそ私が嫁がねばならないの」
経済支援か。
それもまた、王族に生まれた者の運命とも言える。
いずれラルフも、政略的にたくさんの妻を持つことになるのだから―。
けれどね。
残りの涙をぬぐって、彼女は顔を上げ、ラルフを見据えた。
輝きを増した青い瞳は、まるで彼を射抜いたかのように捕らえ、決して彼が目をそらすことを許さなかった。
彼は思わず目を見開く。
「思ってしまうの。絶対に…運命に逆らうことはできないんだろうかって。お父様にはお母様を含めてたくさんの女の人がいらっしゃるけれど、私も相手の方に侍るたくさんの女の中の一人になるしかないのかなって」
「…力ある者のところには、色々なものが集まるものだ」
彼女は大きく肩を揺らして、再び俯いてしまった。
彼に自分の言葉を否定してもらいたいと思ったわけではないだろうが、しかし一応慰めの言葉を考えているうちに、ふと、ラルフは思った。
彼女が嫁がねばならない理由は、確かに経済支援なのだろう。
だが、もしそれだけだったなら、なぜナイトフォードを頼らないのだろう。
「シェリス、お父上はお前が嫁ぐことに対して他に何か仰せにはならなかったのか?」
「え?」
目をこすって、彼女は顔を上げた。
煌めく青い瞳が、まっすぐに彼を見つめていた。
美しい。
「何を?お兄様?」
自分で尋ねておきながら、一瞬ラルフは言葉を失った。
従兄妹であるという贔屓目をのぞいても、彼女はやはり美しい。
「あ…いや…な、一度父上の使者としてサントリエへ行ったことがあるが、比べればナイトフォードの方がすべてが優っていたように思う。ましてムークライルとナイトフォードは同盟国、叔母上が嫁がれている故、兄弟国と言ってもいい。なのになぜナイトフォードではなくサントリエに?」
「いくらそのような関係であっても、お金の援助をお兄様のお国にお願いすることはお父様にはできなかったのではないかしら。もしご了承頂いても、ムークライルからさし上げられるものは一つもないし」
「…従兄妹でも婚姻は結べるのに?」
ラルフの手が、目を見開いたシェリスに向かって伸びた。
自分は何をしているのか、ぼんやりと思った。
彼女は確かに美しい。
だが、美しいだけの女なら、何も彼女でなくてもたくさんいる。
彼女は、否が応でも自分の色を思い出させるのに―。
「ラルフ…お兄様―?」
彼女の自分の名を呼ぶ声に、我に返った。
何をしようとした?
再会するまで記憶の中で美しいままにとっておいた従兄妹姫に、一体何をしようとした?
乱暴に彼女の手を振り払ったラルフは、大きく首を振った。
だめだ、シェリスだけは、絶対に。
まして嫁ぐことが決まっている彼女を―。
その時、外から二人を呼ぶ声がした。
「国王様がお呼びでございます」
目を丸くしたまま呆然としているシェリスをそのままに、ラルフは立ちあがってカーテンを閉め、ドアを開けてそこに控えている者を見た。
先ほどの侍女だった。
しばらく侍女を見つめた後、おもむろに彼はその手を取って、身体をかがめて侍女の耳元で囁いた。
すると、侍女は頬を染めて、遠慮がちに彼を見て、小さく頷いた。
ラルフはそれを確認すると、侍女の手をとったままその首筋に唇を寄せた。
そしてそのまま部屋を出たラルフを、シェリスは慌てて追いかけた。
すれ違いざまに侍女を見遣ると、彼女は先ほどラルフが唇を寄せたそこをまるで隠すかのように手を添えていて、頬を赤くしたままほほ笑んでいた。
「お兄様、待って…!」
「姫がバタバタ走るもんじゃないだろう?」
立ち止まって振り返ったラルフの表情に、シェリスはドキリとしたのだが―。
「ねえ、さっき侍女に何を仰ったの?」
一瞬だったがはっきりと見た侍女の様子は、まるで―。
「…そうか、お前も嫁ぐことが決まっているなら、覚えておいた方がいいだろう。あの侍女はお前のお父上がオレにつけてくれた世話役、いわば共寝役だ」
「共…寝?」
「ああ。それを確認したにすぎない。さっきは突然お前が乱入してきたから聞きそびれたんでな」
彼が意地悪そうに二ヤリと笑ったのを見て、彼女は一歩下がった。
今の今まで話をしていたお兄様は、彼女の知っている『お兄様』とはまるで別人のようで―。
「お兄様。お兄様は好きでもない人と、同衾できるの?今夜、あの侍女をお抱きになるの?」
「…意外か?だがオレは、そうでもしなければ今まで生きてこれなかったんだよ。お前はさっき主人に侍るたくさんの女の一人になることを嘆いていたが、この世にはどうあっても仕方のないことというものが存在する。抗うことのできない運命というものがな」
彼は何度も彼女の銀髪と青い瞳を美しいと称賛していたが、彼のそれこそが、本当に美しいとシェリスは心から思った。
どうすることもできない苦悶の表情を浮かべて再び彼女に背を向けた時に彼に従ってなびいた彼女よりも短い銀髪は、日の光を受けてこれ以上ないぐらいに輝いていた。