11.混乱
父王より15歳年下であったラルフにとっては叔母に当たる今は亡きフローレンス。
適齢期を過ぎた25才の時、同い年の当時王子であったムークライル王に正妃として嫁いだ。
そして生まれたのが娘のシェリス。
二人の間には他に子がなく、ムークライルの次代の王位にはシェリスの異母弟が就くことが決まっている。
…というのが、ラルフの中にある叔母についての情報だ。
自分が生まれた時にはすでに叔母は嫁いだ後だったし、会った回数も片手の指で数が足りるほどだ。
父や自分と同じ青い目に銀の髪を持っていた、美しい叔母。
それぐらいしか印象はなかったのだけども、叔母が自分に会うたび言っていたこと。
目元が父上にそっくりね。
目を細めて、目元を何度もなでながら薄くほほ笑んでいたけれども―。
「アン、どういうことだ。もっと詳しく話せ」
焦る気持ちをそのままに、ラルフは身体を震わせているアンに詰め寄る。
ドアの向こうから聞こえてくる父の笑い声が酷く不快なものに感じて仕方ない。
黙り込んでしまったアンに業を煮やしてドアの隙間から中を見遣ると、父がシェリスの髪に触れていた。
「本当にそなたは母にそっくりよ。まるでフローレンスが帰って来たかのようだ」
見たことがない、父のあのような笑顔。
アンは病を患っている、故に記憶と現実が混在しているのかもしれない。
そう思いながらも、思考は一人暴走を始める。
このような時は、どうあっても悪いことしか考えられないもの。
兄弟姉妹が互いを大事に思うのは当然のこと、であるはずだ。
一人の男がたくさんの女を囲う王家において時折例外はあるものの、普通はそうであるはずだ。
だから父が叔母を大事に想うというのは、疑う余地ない一般的なこと―。
「フローレンス様…どうかもう悲しまれないで下さい…これでよかったのです。本当はもっと早くにグラント様とは距離を置くべきでしたのに私がお役に立てなかったばかりに…。アイヴィ様もきっとご理解下さいます…あんなに仲がよろしいのですから…」
両手で顔を覆い隠して泣くアンの姿に、ラルフの動悸は高まるばかりで、一向に治まる気配がなかった。
あり得ない、とか、そんなことはない、とか。
一体何を根拠にそんなことがいえるのか。
無論それは、一つのことだけに当てはまらないけれども。
もしかしたら、なんて疑惑―。
今すぐにはっきりさせてしまいたかったけれどもアンは泣き続けたままラルフの問いには何も答えてくれなかったし、そうこうしているうちに医師を連れてジャックが戻って来たため、彼の中に生まれた疑惑の芽はそのままにされてしまった。
ものすごいスピードで成長を続けるそれにすべての思考を奪われ、一人ラルフは部屋への道をたどりながら指を折った。
以前、シェリスに聞いたことがあった。
従兄妹であるのに、どうして自分のことを「お兄様」と呼ぶのかと。
彼女は迷うことなくこう言った。
「私より年上なんだからお兄様とお呼びしたっておかしくないでしょ。それに私、異母姉様はいるけどお兄様はいないし、憧れっていうのもあるのかもしれないわ」
そう。自分は16才、彼女は15才。
あり得ない。
そもそも、父と叔母は同母兄妹であったはずだ。
父が彼女に向ける表情とアンの言葉だけで、どうしてそう、思ってしまったのか。
そう思うのに、なぜ、さっき芽生えたそれは、枯れることを知らないのか―。
彼女は初恋の従兄妹姫で、娶った妻の異母姉で、明日にはこの国を去り他国へ嫁ぐ女で…それなのに自分のことを好きだと言うから、感傷的になっているのかもしれなかった。
しかし複雑な心境であることに間違いはなく、そんな中さっきのようなことがあったから思考がおかしくなっているのだろう、そう思うことにした。
だが生前の叔母に言った言葉に嘘はなかった。
知らない男に彼女をとられるくらいなら自分の元に、本気でそう思ったのだ。
昔の想いに絡みあう今の気持ち。
たった一言では表わすことができない。
もやもやする。
夫婦の部屋を通り過ぎて自室へ向かうと、ドアの前に立っている人物が一人。
相手はラルフが一人だと確認するとにこにこ笑って声をかけてきた。
「ここでお会いするのはお久しぶりですね、王子」
「何をしている、ジュリア」
「だって、王子がつれないんですもの」
おもむろに懐から鍵を取り出して、彼女はラルフの目の前に差し出した。
「いつの間にかこれが使えなくなってしまって」
「ああ、鍵を付け替えたからな。そもそも俺とは何ら関わりのないお前が鍵を持っていること自体おかしかったんだ」
「関わりがないだなんて、酷いお言葉」
彼女はぴったりと彼に身体を寄せて、少し首を傾げて彼を見上げる。
それは彼にとってはよく見慣れた彼女の姿態。
「私たち、幼い頃からの付き合いではございませんか。前にも申し上げました通り、このようなことをするのは、王子にだけ、です」
彼女から漂ってくる女の匂いにクラクラした。
いまだ整頓されぬ思考にイライラした。
結局はたまりにたまった色々なことを発散させてしまいたくて、ラルフは彼女に視線を定めぬままその腕を掴んだ。
「鍵は渡さない。けれど、今日は特別だ」
バタン、と小さな音をたてて、ドアは閉められた。
たった一言で表せないこの気持ちをはっきりさせたかった。
客観的事実を並べ立ててみても答えにつながるものは何一つ見つからず、余計思考は乱れた。
幼い頃に学んだ『あきらめる』という心のおかげで、思い患うことは取り立ててこれまで感じたことはなかった。
立場上不自由なことはなかったし、更にこの外見も加わって女にも苦労しなかった。
将来、いずれ王位とこの国は自分の治めるところとなるだろう。
この先にも不安要素が見当たらないのに、どうして自分自身の内のことでこんなにも悩まなくてはならないのか。
「あ…あ…」
きしむベッドと嬌声を洩らす女の声に埋もれぬよう己を保ちながらラルフの思考は一人歩きを始める。
昔からそうだった。
女を抱いていてもどこか冷めている自分を自覚していた。
一度きりの女ならまだしも何度も抱いているジュリアが相手である時ですらこうなのだ。
おもいきりなかせてやりたいと思う反面、時折口を塞いで黙らせたくなる。
煩い、とか、耳障りだ、とか、よく分からないけれど。
目を閉じると、不意にシェリスの顔が浮かんだ。
連日彼女と二人、まさにこのベッドに腰かけてたわいない話をしていた。
彼女の恋人ごっこに付き合ってやっているという心情だった。
それなのに今夜自分と共にいるのはシェリスではない。
これがもしシェリスだったなら、なんて考えるだけバカげている。
シェリスが相手ならば少しは自分も違うのだろうか、なんて。
何を考えようとも、すでに彼女は他人のもの。
ジュリアの洩らす声の間隔が短くなる。
更に大きくきしむベッドの音に乱れる息。
だから気付けなかった。
シェリスがドア一つ隔てた向こうに立っていたことを。
いつものようにラルフと語り合おうとやってきた彼女が涙を流して瞳を閉じたことを。
翌朝、あらかじめシェリスに聞いていた旅立ちの時間に彼女の部屋へ行くと、そこに彼女はいなかった。
荷物もすでになく、城門へ行くと、すでにムークライルへ向けて旅立った後だと聞かされた。
急遽時間を繰り上げたのだという。
当然、ラルフは彼女のこの行動の意味を知らない。
ただただ彼は、その場に立ちすくんで拳を握りしめることしかできなかった。