10.予感
それから数日。
8才の新妻イリスがようやく異母姉のシェリスよりも夫であるラルフと過ごす時間が長くなった頃、近日嫁ぐことが決まっているシェリスが帰国することになった。
まるでゲームを楽しむが如くシェリスと恋人ごっこをしていたラルフであったが、いざ彼女がいなくなってしまうと思うと寂しさを感じずにはいられなかった。
それは勿論彼女も同じで、毎夜イリスが眠った頃を見計らってはラルフと彼の自室で会い、たわいのない話をしては時間を過ごしていた。
自分が思っていたよりも彼女との時間を大事にしていたのだろう。
気付かぬうちに、ラルフは自室の鍵を替えていた。
おかげでジュリアとは、ここ数日まともに顔を合わせていない。
そしていよいよ彼女の帰国が翌日となった日、ラルフの名を呼ぶ懐かしい声があった。
「ラルフ様!」
イリスを侍女に預けて部屋を出たラルフが目にしたのは―。
「ジャック!ジャックじゃないか!」
「はい!お懐かしゅうございます」
自分の目の高さとほとんど変わらないところにある茶色の瞳。
ラルフは焦るように声の主に近づいた。
ジャックと呼ばれた彼より2つ年上のこの男性は、ラルフの乳母の息子だった。
幼い頃孤独を感じていたラルフにとって兄でもあり友でもあったのはこのジャックだけだった。
そのジャックが青年となった時、ラルフはこれからも城にいて働いて欲しいと心中願ったのだが、ジャック自身の強い希望で、彼は城の外へ出た。
彼の母の故郷へ帰るため。
今、彼はラルフの計らいもあってその故郷で官吏をしている。
「どうした?たまには顔を見せよと文を出してもことごとく断り続けてきた無礼者のくせに」
「それは耳の痛いお話ですが…けれど、王子が結婚されたと聞いて、どうしてお祝いを申し上げない訳がございましょう!こればかりは絶対に直接申し上げたかったのです。それに…母とて同じ気持ちでしょう」
「アンの病状はいまだ変わり無し、か?」
「はい。症状に波はございますが…。けれど私が王子のご結婚の話をした時はおめでたいことだと申したのですよ。それで自分もお祝いを申し上げるのだと言い張って」
「そうか…」
視線を下げると、車椅子に乗ったまま遠くを見つめている初老の女性がいた。
女性は、果たしてラルフに気付いているのかどうなのか。
ラルフはその場に屈んで女性の視線と自分の視線が合うよう身体を動かした。
「アン。オレだ。分かるか?」
「……」
「お前はオレの乳母だった。半分、オレはお前に育ててもらったようなものだ」
アンと呼ばれた女性はなんとなくはラルフを見ているようであったが、反応はなかった。
「昔と違って王子はたくましくなられました。故に母も戸惑っているのでしょう」
「そんなことはないさ」
青年になったジャックが故郷に帰った理由は、ひとえに病を患った母の療養のためであったのだ。
それを知っていたからこそ当時は強引に彼を引き止めることができなかったラルフであったのだが、今回は久しぶりの再会ということもあり、にこやかにジャックに笑顔を返した。
「ゆっくりしていけるのか?お前も懐かしいだろう」
「そうですね。ゆっくりしていきたいのはやまやまなのですが…」
「今やお前の故郷はお前がいなければ政治が上手く進まぬか。評判は聞いているぞ」
「止めて下さい。今の私があるのは王子のおかげです。本当ならば王子にお仕えせねばならなかったのに我がままを聞いて下さって…」
「オレにとってはお前と同じぐらいアンのことも大事なんだ、気にするな」
自分の遥か頭上で交わされる会話にも耳を傾けず遠くを見つめているアン。
そんな乳母を時折心を痛めながらラルフは見つめていたのだけど、ジャックの言葉に思考が遮られた。
「そういえば王子、奥方様は?」
「ああ、今は勉学の時間でな。勿論終わったら引き合わせよう」
「ならば先に王様にご挨拶申し上げてもよろしいでしょうか」
「構わない。今は政務の時間ではないはずだからな」
ガラガラと車椅子の車輪が響かせる音を聞きながら、ラルフは父王の部屋へ向かった。
響くその音は、不快ではないが妙に頭に残る、そんな音に聞こえて仕方なかったのだが―。
積もる話はたくさんあった。
ジャックと会うのはもう何年ぶりであったか、すぐには思い出せないほどであったから。
折に触れてアンにも声をかけながら父王の部屋の前へ来ると、ドアが少し、開いていた。
父王に声をかけようとしたラルフであったが、その前に部屋の中から何やら声が聞こえてきた。
「そうか、明日帰国するか」
「はい。妹だけではなく私にまでよくして頂いて本当にありがとうございました」
シェリスの声だ。
隙間から覗き込むと、父王は大きなソファにシェリスを座らせて言葉を交わしていた。
明日の早朝発つと言っていたから、今日のうちに挨拶を済ませてしまおうとしているのだろう。
ラルフはジャックに首を振る。
「今、父上は他の客と話し中のようだ。すまないが時間をずらしてもらえないか?」
「構いませんよ。でしたら先に昔お世話になった方々にご挨拶して参ります。こちらこそ申し訳ありません、わざわざ王子に連れてきて頂いたのに。…では参りましょうか、母上」
ジャックは相変わらず無反応な母に声をかけ、車椅子の向きを変えようとした、その時だった。
「いけません…いけません…もうこれ以上罪を重ねては…」
突然アンが小声で呟き出したのだ。
何のことかとラルフとジャックは顔を見合わせ首を傾げた。
しかしその間もアンは同じ言葉を繰り返している。
「いけません…いけません…」
次第に身体を大きく震わせ、表情がこわばっていくアン。
不安を覚えたラルフはジャックに言った。
「もしや発作とか、そういうものではないのか?」
「私の知り得る限り発作は起こしたことがないのですが…」
「だからといって病を得ているアンが発作を起こさないとも限らないだろう。医師に見せた方が良い」
「そ、そうですね。医師の部屋は昔と変わってはおりませんか?」
「ああ。ここからは少し遠いが変わっていない」
「分かりました。それでは母を連れて行きます」
「この症状が何なのか分からない以上動かすのはよくない。オレが見ているからお前は医師を呼んで来てくれないか」
ジャックは頭を下げてすぐさま走り去っていった。
その間もずっと、アンは呟き続けている。
そんなアンをラルフは眉間に皴を寄せたまま見つめている。
「アン。大丈夫か?」
「いけません…いけません…」
「何がいけないんだ?」
アンは不意にラルフと視線を合わせた。
ジャックと同じ茶色の目が、強く彼をとらえた。
「グラント様…グラント王子」
アンは目を見開いてラルフの肩に手をかけた。
アンが呼んだ名は、ドア一つ向こうにいる父の名だ。
どうやらアンはラルフを父と間違えているようだった。
「アン、オレはラルフだ…」
「グラント様、もうこれ以上罪を重ねてはなりませぬ。あなた様はもうすぐ王になられる身。あなた様の想いはフローレンス様だけではなく、たくさんのお妃方、そして何よりアイヴィ様を悲しませるだけでございます…!」
「母…上を?」
アイヴィは亡くなった母の名だ。
ラルフは周りに誰もいないのを確認した後、真っ直ぐにアンと視線を合わせた。
「アン。オレ…いや、私が何を想うことが叔母…フローレンスやアイヴィを悲しませるというのだ?申してみよ」
「私はアイヴィ様のお生みになられるお子様の乳母になることが決まっております。けれどもこれまでずっとフローレンス様にお仕えしてきた身としては、お二人が悲しまれることが分かっていてこれ以上黙って見ていることはできませぬ…。フローレンス様をムークライルの王子の元へ嫁がせることをお決めになられたのは他でもないあなた様ではございませぬか…」
「だから何がフローレンスやアイヴィを悲しませるというのか?」
ラルフの頭の中は混乱していた。
何がどういうことで叔母や母を悲しませることになるのか全く分からない。
しかしアンは何度も首を振る。
「想うことをお止め下さいとは申しませぬ。ですがだからといって倫理を破っても良いということにはなりませぬ。フローレンス様はあなた様の同母妹。いくら愛しく想われても、妹君であられることに変わりはないのです…!」