5話 戦後の大東京鉄道②
日本経済は、朝鮮戦争による特需を足掛かりに飛躍的な回復を見せた。1950年代中頃には戦前経済並みに復活し、「もはや『戦後』ではない」と言われた。工場は常に労働力を求めており、地方では余剰労働力があった事から、地方から都市部への人口流入が続いた。
一方で、都市部における宅地不足が深刻化した。その為、大都市郊外の宅地開発がこの頃から進められ、1960年代になってからは爆発的に増加した。日本住宅公団(現・都市再生機構)や地方住宅供給公社(※1)によって多くの団地が開発されたが、それに伴い郊外の人口が爆発した。
その結果、郊外から都市部への路線の混雑が酷い事になった。1960年当時の東京における国鉄の主要路線の内、総武本線と東北本線の混雑率(※2)が300%を超えており、それ以外の路線も200%越えは当たり前という異常事態になっていた。私鉄でも、1969年に東武伊勢崎線で248%(恐らく私鉄におけるワースト1位)を記録するなど、大都市を走る路線は軒並み酷い混雑だった。
これらに対処する為、長大編成化や複々線化などが行われた。国鉄では「通勤五方面作戦」と呼ばれる東海道、中央、東北、常磐、総武の5路線の複々線化が行われ、五方面作戦とは別にこれらの幹線を通る貨物線を都心部に通さない事を目的で建設されたのが武蔵野線であり、同じ時期に京葉線も計画された。私鉄でも、東武や小田急、東急、京王が複々線化を行った。
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混雑は大東京鉄道にも押し寄せた。直接都市部に繋がる路線は無かったが、多くの放射状路線との乗換駅がある事から沿線の開発が進み、今後も残る農村地帯や荒れ地の開発が進むと見られた。この時、自前による開発による新たな収益源の確保と他の私鉄による乱開発の阻止を目的に、1958年に不動産事業に進出した。
事業進出後、沿線の農地や荒れ地、利用方法が決まっておらず放置されていた工場跡地の開発が進められた。資金力の小ささから公団や東急の様な大規模な開発は行えなかったが、自前で土地造成を行った場所では平屋を中心に宅地の建設が進められた。
これにより、沿線の宅地化が進んだ。特に、元大東急との連絡が多い鶴見~荻窪と沿線に比較的余裕がある川口~金町の開発が進んだ。
また、大東京鉄道が通っている事から、川口市南部にある鋳物工場の多くが北部や周辺都市の工業団地に移転した(※3)。跡地の再開発に大東京鉄道が東武と共同して取り掛かる事となり、その為にJV(共同事業体)を組織して開発が行われた。初めての他社との共同開発であり大規模開発でもあったが、それだけに本体の労力も大きかった。また、開発失敗による余波が本体にまで及ばないようにする為、開発完了後の1968年に不動産部門を「大東開発興業」として独立する事となった。
大東開発興業は宅地開発と保有するビルなどの不動産の管理だけでなく、後にビルやマンションの開発、リゾート地の開発などを行う事となるが、この時はまだ宅地の開発と土地の造成が中心だった。
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宅地以外では、主要駅にデパートが造られた。1958年に「大東デパート」を設立し、1960年から営業を開始した。
しかし、大東京鉄道には小売店のノウハウが無かった。ノウハウが無い状態で営業を行っても失敗すると見られた為、当初は他の小売店との提携を考えていたが変更し、地域の商店をビル内に移転させるテナント方式に変更となった。これは、百貨店形式で建設しても先発の三越やそごう、大丸などの他の百貨店との競争には勝てないと見られた為、それらとは異なる路線を取る事となった。また、地域の商店との関係の維持という理由もあった。
これによって、1960年に鶴見と金町がオープンした。鶴見店は地上8階地下2階、金町店は地上7階地下1階のビルとなっている。概ね、地下は飲食店、1階と2階は食品、3階は衣類、4階は日用品、5階以上は玩具やその他というフロア構成になっている。
尚、鶴見店建設の際に鶴見線と分断される事となった。戦前に浅野財閥が支援した関係から、鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道から鶴見~矢向の免許を受け取っており、その為に鶴見で線路が繋がっていた。鶴見臨港鉄道が国有化された事で繋がりが無くなったが、線路は依然繋がっており改札も共用だった。
しかし、大東京鉄道と国鉄では運賃体系が異なっており誤乗も多発した事から、ホームの扇町側と荻窪側で分けたり大東京鉄道の塗装を変えるなどしたが(1955年に茶色一色から緑と白に変更)、大きな効果は上がらなかった。その為、デパート建設と並行して鶴見駅の分断も行われる事となった。
この工事によって、大東京鉄道の鶴見駅が50m程荻窪寄りになった。また、鶴見駅が2面3線の頭端式ホームとなり、ホームも18m級電車10両が止まれる190mになった。これ以前は120mしか無く、輸送力の増強が限界だった事と将来的な更なる輸送力強化を目的とした。
デパートがオープンすると、駅と直結している事、価格の安さで高評価を得た。また、地元の商店をテナントにしている事、雇用には地域の人を採用している事から駅周辺の商店街との関係も悪くなかった。
その後、1962年に主要駅の荻窪と川口に、1965年には経堂と練馬に、1967年に武蔵中原と保木間に建設された。この時建設されたデパートは、立地の関係から概ね地上6階地下1階であり、荻窪だけは地上8階地下2階となった。
沿線の開発が進むとスーパーの需要が高まる一方、スーパーとの競合に敗れる個人商店などが出る様になった。それらの受け皿や自社沿線の商圏を他のスーパーに取られる事に対する予防を目的に、1965年に「大東ストア」を設立した。
大東デパートとの違いは、駅に直結していない事、地上2階建てなどでビルでは無い事、食品に特化している事である。そして何より、テナント方式では無く自社運営の形を取っている事である。これは、大東デパートでノウハウを身に着けた人材がいる事、大東デパートとの差別化からこうなった。
1967年に元住吉店が開業し、順調なスタートを切った。その後も、桜新町や練馬徳丸、川口元郷などに展開する事となった。
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宅地や小売業の拡大には積極的だったが、それ以外の事業については消極的だった。
鉄道以外の輸送部門については、1949年に社内にバス部門を設立し、1954年に複数の複数のタクシー事業者を買収して統合、タクシー・ハイヤー部門の「大東自動車交通」を設立している。バス部門設立に際して、東急、小田急、京王、西武、東武、京成の各社から一部路線を譲り受けた。
しかし、タクシーは他社との競合が激しく、利用者は増加しているものの、収益は微々たるもので新たな収益の柱には程遠かった。だが、収益が出ているのは事実で、タクシー事業は成長産業でもあった為、力は入れ続ける事となった。
バスの方は酷く、譲り受けた路線の多くは赤字路線で、他社との競合路線ばかりだった。新規参入しようにも、既存他社の妨害で難しく、駅と宅地とのフィーダー路線すら満足に設定出来なかった。
その為、バス部門は競合他社の下請けや不採算路線の押し付け先に甘んじる事となった。路線バス以外の部門に方向を見出す事となるが、まだ先の事となる。
※1:地方公共団体が設立した特殊団体。「労働者に良好な集合住宅又は住宅を供給する事」を目的に、住宅の建設、住宅地の造成、賃貸などを業務とする。戦後から財団法人という形で設立されたが、1965年に施行された地方住宅供給公社法によって特殊法人化した。
※2:定員/乗車人員数=混雑率
※3:史実でも1960年代中頃から鋳物工場の移転は発生しているが、この世界では5~10年早く発生している。東西の交通である大東京鉄道の存在が、沿線開発が進む要因となる。