番外編:東埼モノレール+α
1981年、遂に田端~越谷の免許が動き出した。この年、大東京鉄道が中心となり、東武、営団、東京都、埼玉県、川口市、越谷市などが出資する第三セクター「東埼新交通」が設立された。免許も東埼新交通に譲渡され、この区間の建設が決定した。
一方で、元の免許のままだと都市開発や道路整備の兼ね合い、ターミナルの位置などから都合が悪く、一度破棄して新たに日暮里~西日暮里~江北~舎人~新越谷の特許を申請し(日暮里~舎人は日暮里・舎人ライナーと同じルート)、翌年に許可を得た(※1)。起点を日暮里に変更した理由は、国鉄や京成、地下鉄が通っている事、終点を新越谷に変更したのも東武と国鉄が交差している為である。
ただ、問題になったのが、どの様なタイプで敷設するかだった。検討されたのが、普通鉄道、軽快電車、モノレール、案内軌条式鉄道の4種類だった。
普通鉄道の場合、東武や大東京と同じ全線複線・1067㎜・直流1500Vで建設する事となる。技術的な問題は無い事、東武との直通が可能という利点はあるが、高架にしろ地下鉄にしろ建設費が高くなる事、車輛のコストも高くなる事が欠点となる。
軽快電車は、路面電車の改良型であり、都電荒川線と同じ全線複線・1372㎜・直流600Vで建設する事となる。路面電車の延長であり導入実績もある事から技術的な問題は無い事が利点であるが、軌道を何処に敷設するかが問題となった。荒川線との直通を狙って併用軌道で建設した場合、多くの路面電車の廃止の原因となった軌道内への自動車乗り入れによる定時性の低下が懸念された。それを避ける為に高架又は地下にした場合、建設費の高騰や乗り入れの為の改良工事などの問題がある。
モノレールの場合、東京モノレールと同じ跨座式で建設する事となる。こちらも技術的な問題が小さい事、道路整備に合わせて建設し易い事が利点だが、車輛のコストが普通鉄道並みの割には輸送量が小さい事、輸送量の小ささから詰込みがしにくい事が欠点だった。
案内軌条式鉄道は、所謂「新交通システム」の内、ゴムタイヤで走るタイプが想定された。普通の鉄道と比較して勾配に強い、導入コストが安い利点があるが、鉄道以上にエネルギーロスが大きい事、ゴムタイヤの為輸送量が小さいなどの欠点もある。
どの方式も利点と欠点がある為、簡単に決まらなかったが、早い段階で普通鉄道案と案内軌条式鉄道案は削除された。前者は輸送力過剰と建設費の面で、後者は輸送力過少や導入業者の少なさによる信頼性が原因だった。
最終的に、モノレール案が採用された。当初は、導入コストや整備コストを抑えられる事、荒川線の浅草延伸が実現に向けてスタートした事(※2)から軽快電車案が最有力だったが、この案だと熊野前の前後を地上線にしなければならない事、騒音問題、野田市延伸の際に新越谷付近で急勾配が必要になる事などがマイナス要因となり、モノレール案が逆転採用された。
モノレールの方式は、東京モノレールと同じ跨座式が採用された。これは、懸垂式(※3)だと建設費が高くなる事、跨座式の車輛の標準化が進んでいる事、輸送力強化が行い易い事が要因となった。
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全ての計画が1983年に完成した。翌年、日暮里で起工式が行われ、建設が始まった。同時に、ルート上の道路整備と荒川線の浅草延伸と三ノ輪橋付近の改良工事も始まり、社名も「東埼モノレール」に変更された。
幸いだったのは、工事開始がバブル景気直前であり、地価が暴投するまでに8割方の土地の収容が完了した事である。残った2割も郊外地域で比較的収容し易く、建設費の高騰は避けられた。
それでも、残る土地の収容の遅れから建設開始が1987年からとなり、資材費や人件費の高騰は避けられなかった。実際、建設費用の高騰によって工事の遅れが見られる様になり、当初予定では1992年に開業予定だったが、1994年にずれ込んだ。
車輛については、北九州高速鉄道(北九州モノレール。この世界では存在しない)の1000形が採用された。導入当初はオリジナルと同じく4両編成だが、将来的な輸送量増加に対応出来る様に6両編成まで対応可能な設計となっている。カラーリングは、実在する緑帯塗装と同じものとなった。
これが18編成導入された。見沼代親水公園の北にある見沼車庫で全編成の管理・補修を行う事となるが、ノウハウについては製造元の日立製作所や運転士・整備士の教育を行わせてもらっている東京モノレールから導入する事となった。
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日暮里~新越谷の約17.6㎞が1994年8月13日に開業した。これにより、今まで公共交通機関がバスしか無かった地域に大量輸送手段が整備された。
しかし、開業がバブル景気終息後という事がマイナスとなった。当初、1日の平均乗車人員を7.5万人と予測していたが、これは沿線の開発が進む事が前提だった。それが、バブル終息によって土地価格が落ち込み、多くの開発計画が白紙となる事態となった。その為、開業初年度の平均乗車人員が4.5万人と3分の2未満であり、その後も多少人口増加となったが5万人程度の状態が続いた。
また、建設費が高くついた事による負債も合わさり、1999年には100億近い超過債務となった。しかし、この時期は極東危機による混乱や金融再編などが合わさり、日本全体が大混乱状態だった。その為、東埼モノレールの再建は後回しにされ、2002年に漸く産業活力再生特別措置法(※4)を適用して再建が行われた。
その後、なりふり構わない再建と沿線人口の増加、大型商業施設の開業などによって収益が改善した。2008年には当初の平均乗車人員を記録し、以降増加している。将来的な増便や増結の計画も存在するが、これについてはもう少し様子を見てからとなっている。
一方、野田市延伸計画は再建中にほぼ凍結となった。野田市側も盛り上がりに欠けていた為、今後も復活する可能性はかなり低いと見られている。
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モノレールが開業した翌年の3月4日には荒川線の浅草延伸が実現した。途中の停留所は浅草、言問橋、浅草七丁目、清川、日本堤、泪橋、南千住駅前、三ノ輪橋となる。約3㎞の路線だが、路面電車であり地下鉄でもある変わった路線となった。
浅草延伸だが、実質1971年に廃止となった都電千住線(※5)であるが、全線地下で建設された事、南千住~三ノ輪橋が追加された事が異なる。当初予定されていた東埼新交通との直通は流れたものの、浅草延伸による新規需要の獲得、渋滞が酷い都道446号の混雑緩和、軽快電車型の地下鉄線の導入実験などもあり、建設が決定した。
浅草延伸に合わせて、荒川線の荒川区役所前~三ノ輪橋の地下化と三ノ輪橋~南千住の道路整備が進められた。前者については、一時的に路線を休止して、現在の路盤の下に地下線を建設する事で対応出来た。こちらについては1988年に工事が完了した。尚、車輛新造を抑える為、トンネルはやや大きい設計となっている(※6)。
しかし、延伸区間の用地買収に手間取り、当初予定の1990年までに全ての用地の収容が完了しなかった。その為、工事も1年延期となった。収容完了後の工事は早く、予定の4年で工事は完了した。
バブル終息後とあって、当初の1日平均乗車人員の6万人に達するか不安だったが、都北部や東埼モノレール沿線から浅草へ直接行ける事、浅草と南千住を抜ける新ルートである事から、利用者は当初予定より10%多いと記録された。建設費高騰による赤字は痛いが、開業区間の利用者が順調な事、それに伴う既存区間の利用者が増加に転じた事などもあり、概ね好調と見られる。
※1:免許だと地方鉄道法(1987年に廃止、新たに「鉄道事業法」制定)、特許だと軌道法にそれそれ基づく。違いとして、監督官庁(地方鉄道法は運輸省、軌道法は建設省)、敷設の申請(地方鉄道法は認可制、軌道法は許可制)、敷設する場所(地方鉄道法だと原則道路に敷設出来ない、軌道法だと原則専用軌道不可)が挙げられる。
※2:史実では、銀座線の三ノ輪延伸は都市交通審議会の頃から存在するが、1985年の運輸政策審議会答申第7号で削除された。この世界では、建設費の圧縮や新しい路面電車のテストケースとして、荒川線の浅草延伸という形で実現。
※3:車体の上にレールが敷かれ、レールから吊られている方式。雪に強い事、分岐点の建設が安価な事が利点だが、線路を地上から高く作る必要があるという欠点がある。日本では湘南モノレールや千葉都市モノレールに採用されている。
※4:1999年に制定された。経営不振に陥った中小企業の事業再構築、選択と集中の実施、有用な経営資源の活用などによって中小企業の活力の再生し、以て日本産業の活力の再生を目指した。適用した主な企業にダイエーや日産自動車、フジテレビなどがある。
※5:駒形二丁目を起点に、浅草、隅田公園、泪橋を経由して南千住に至る路線。
※6:地下を走る鉄道は非常扉の設置が義務付けられている。地下鉄の車輛の前面に貫通扉があるのはこれに起因する。しかし、横のドアから避難出来る程広い場合、貫通扉が無い車輛も走行出来る。京葉線の東京付近が良い例である。




