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苦手な方はご注意ください。

昭和の舟島

作者: 勝華麗


 午後十一時。

 昭和時代における赤坂では、日が落ちた代わりにネオンが光源となり、街を照らしていた。飲み終えたサラリーマンたちが、帰路についたりなどして道に蔓延っている。


 ある酔っ払いふたりは、並んでいる飲み屋を比べ見ながら新たに呑める場所を探している。


「あの金髪の姉ちゃんがいるところはどうだ?」

「だめ。あそこはぼったくり」

「あっちはどうだ?」

「餃子が上手いけど、酒が不味い」


 傍から見ていると危ないくらいフラフラしながら会話する。そこらにある電柱にぶつかってしまいそうにもなるが、避けずに進むほどどちらも泥酔していた。

 

 結果的には何にもぶつからず、残り数歩で街を出てしまうところまで来てしまった。


 そのまま出ていってしまうのかと思えたが、彼らは出口の手前で足を止めた。


「……」


 酔っ払いたちは、目の前にいる男を見上げていた。


 わざわざ知り合いでもない男へ注目したのは、その男がとても大きかったからだ。縦にも、横にも、それぞれの肉体の部位も、身に纏っているコートも、取り巻く雰囲気も、その男が持つものは全て大きかった。


 酔っ払いたちは影の大きさのあまり、自分たちの周囲の人口の光が消えてしまったことで、男が前に立っていたことに気づいたのだ。


 大きな男は、分厚い唇を開いた。


「すまなかった」


 男は酔っ払いの横へ歩を進めて、そのまま通り過ぎていった。


「あ、ああ」


 男は自分が酔っ払いたちの邪魔になってしまっていたことを詫びたのだ。


 唖然としていた酔っ払いたちは、大きな男が去ってから、数秒して、驚いたように顔を見合わせた。


「なんだあいつ。ヤクザ?」

「わかんね」

「おれ、酔いが醒めちまったよ」

「おれもだ」


 仕方なく、酔っ払いたちはどこにも寄らず家に帰ることにした。




 大きな男――三浦猛(みうら たける)は、ハンチング帽を目深に被りながら赤坂を進んでいく。


 何度か、さっきの酔っ払いふたりのように通行人にぶつかりそうになるが、今度は、彼は言葉も交わすことなく避けていく。大きな体が、重さを感じさせないくらい俊敏に移動する。まるで事前に相手が進んでくる方向を予知しているかのように安全な位置へ先回りしていた。

 速度自体は普通の歩行と同じなため、周囲の酔っ払いたちと同じ存在として周りからは見られていた。


 途中から、三浦は裏路地のほうへ回る。


 ときおり細くなる道を少し窮屈そうにしながら、奥のほうへ歩いていく。時々、不良や在日の半グレの傍を通るが、彼らは一瞬だけ睨んでから、三浦の図体を確認すると困ったように目を反らした。


 十五分ほど経ったところで、三浦は「プルコ」というスナックの前に立った。


 小さな店だ。出入り口の木のドアが、三浦が屈まないと通れなさそうだ。


「……」


 三浦はプルコに入らず、仁王立ちでドアを見つめる。

 

 そのまま三分ほどいたところで、


「はあ。眠い。このまま帰りたいな」

「先生が帰るまで、おれたちも帰れませんよ」

「愛人のところで飲み直しなんて、付き人のおれたちなんか置いて、ひとりでコソコソ行ってくれよ」


 ふたりの若い男たちが店から出てきた。

 片方は顎が長く、もう片方は三浦よりも身長が高い。


 どちらも体を鍛えているらしく、体つきが大きくて四肢も太かった。


 彼らは三浦を見ると、訝しむ。


「やい貴様、誰だ?」

「今、この店はうちの先生の貸切だぞ。入ったらぶっ殺されちまう」


 若い男たちは不機嫌なのか、元々、赤かった顔をさらに赤くして怒鳴ってきた。


 三浦はハンチング帽の影でほくそ笑んだ。


「知っている。一ヶ月前から尾けていたからな」

「なに!?」


 その言葉を聞いて、若い男たちは三浦へ警戒をし始めた。


 彼らはそれぞれ左右に分かれる。


「どういう了見があってのことだ?」

「あの男には借りがあってね。それを返しにきた」

「復讐か。おまえみたいな輩は、大勢いてな。来るたびに、おれたちが追い返している」


 若い男たちは身構えたまま、三浦の周囲を回るように移動する。

 プルコの前は空き地になっていて、四坪ほどの幅がある。奥行きはさらに深く、長方形の形になっていた。

 

 三浦より身長の高いほうが三浦の前に、顎の長いほうが逃げ道を阻むように後ろについた。


 若い男たちが動きを止めるまで、三浦は特に何もしなかった。


「思わぬおれたちの登場に、ビビっちまったか」

「そうじゃない。待っていた」

「なにを?」

「おまえたちがベストポジションに付くまで」


 それに、リングでは格上は回る格下を待つものだろう。


 三浦がニヤリという笑みと一緒にそう言うと、若い男たちは顔を蛸のように赤くして迫ってきた。


「ダァ!」「アポー!」


 前から前蹴りが、後ろから延髄切りが同時に放たれた。


 後頭部と腹部に、三浦は衝撃を受ける。


「……甘いな」

「なにぃっ!」


 若い男たちの蹴りは、並みの人間ならば一発で昏倒するものだった。

 

 しかし三浦は立ったまま、ニヤケを崩さずにいた。


 背後にいた若い男が空中から重力に引かれていくと、着地前にその顔面を三浦が抑えて、頭から叩きつけた。


 ガツン


 骨とアスファルト。

 硬い物質同士がぶつかる音が、路地裏に響いた。


 前へ振り返る三浦。

 顎の長い男は、地面に伏せったまま白目を剥いていた。


「うわぁああ!」


 三浦よりも背の高いほうが、声をあげてかかってきた。


 組みさえすれば、体格差で自分が勝てるという見込みだった。


 三浦の肩が掴まれる。

 

 直後、若い男は宙を舞った。


 背面が地面とぶつかり、息ができなくなる。そのまま苦しさでジタバタしている内に、三浦が己の足を踏み下ろすと、彼は気絶した。


「……」


 三浦は、意識を失ったふたりを店の壁にもたれるように移動させた。


 これから起こる出来事の邪魔になってはいけないと。


 ひとつも息を乱さないまま、三浦は空き地の中央での仁王立ちを再開する。

プルコの出入り口を、質量が発生していると錯覚してしまうほどの強い眼光で睨みつける。


 ――殺す。


 銀輝山(ぎんきやま)


 次にこの店から出てくるはずの男に対しては、若い彼らのように手加減などしない。


 必ず殺す、己の技で。


 重い眼光の源は、強い憎しみからのものだった。


 三浦の胸の内に、復讐の原因となった記憶が湧き出てきた。


 


 それは、五年前のことだった。


 場所は国技館。

 裏から入った三浦は自分の名前が書かれた控室に着くと、ドカっと大きな体を椅子に預けた。


「おはよ~う。漆前(うるしまえ)く~ん」

「み、三浦さん。こんな時間まで、どこに行っていったんですか?」


 事前に部屋の中にいた三浦の付き人が、慌てるようにして尋ねてきた。


 彼とは正反対に、三浦は呑気な口調で答えた。


「寝坊。いや昨日は遅くまで、店にいてね。起きたと思ったら、もうこんな時間でやんのと家にも帰らず直接ここに来た」

「呑んでいたんですね……」


 あまりの酒臭さに、漆前は鼻を手で塞いだ。


 三浦もまた、この時は酔っぱらいだった。

 酒が体から抜けず、二日酔いの状態だ。


 いい加減な態度に、体のあちこちに纏わりついた贅肉、威圧感の無さ。


 現在の三浦とは、まるで別人の姿がそこにあった。


 三浦はもらった水を美味そうに一気飲みすると、プハーと深い呼吸をする。


「ありがとう」

「感謝はいいですから、早く相手のところに行きましょう」

「なんで?」

「挨拶も兼ねた試合前の打ち合わせです。本当はもっと早くにしたかったそうで、一度、相手のほうからここへ来てくれました」


 漆前は苛立っているのか、付き人のはずなのに語気が荒くなっていた。


「そっか。そういうことしなくちゃ駄目だったんだな」


 三浦は、まるで新入りのように慣れてない反応をした。


 漆前に連れられて、三浦は別の控室へ向かった。


「すみません。遅れまして」


 先に入った漆前が、中にいた人物へ頭を下げた。


 バシン、と引っぱたかれる。


「遅いぞ! 貴様!」

「こんな大事な日に、何をやっているんだ!」


 顎の長い男と背の高い男が、漆前を怒鳴りつけた。


 これは、三浦の顔を潰さないためのことだった。組織としては失敗に対して責めなければならないため、矛先を変えることで丸く収めようとしたのだ。


 漆前もそれが分かっているから、言い訳もせずに、静かにまた謝った。


「すみません」

「謝ったところで済む問題だと思っているのか! このスカポンタン!」

「まあまあ。そんなところでいいじゃないか」


 若い男たちの後方にいた人物が柔らかい声をかけた。


 すると、制裁はすぐに終わって、若い男たちは部屋の端へ自分の体をどかす。


 人物は、彼らが空けた道を真っ直ぐ歩いてきた。


「今日の試合を受けてくださり、ありがとうございました三浦さん」


 三浦より数センチほど背が低い。だが幅は三浦よりも広く、手に関しては指の一本一本がとても太かった。打撃の練習を幾度も繰り返したことで、破れた肉体の回復が行われた果てによるものだ。


 彼はその赤子と見紛いかねない手を差し出す。


 握手だ。


 三浦は応じる。柔らかさと同時に、ナイフ程度では突き破れない皮膚の厚みを感じた。


「こちらこそ声をかけてもらって感謝してます――(ぎん)さん」


 銀輝山は、ニコニコと人当たりの良い笑みを浮かべた。


 相撲出身のプロレスラーである彼は、団体の経営者でありつつ看板も担っている。

カリスマ溢れる人物だが、どうやら噂では、本当は日本人ではなく大陸の人物ではないかとも言われていた。


 今日、三浦はその銀輝山と対決する。


「顔、赤いですね。一杯やっていきたでしょう?」

「ああこれは」


 二日酔いを隠そうとする三浦へ、銀輝山はオブラートに包まれた飴を渡した。


「特製の塩飴です。よくうちの連中もやってきたりするので、持ってきてるんですよ。今、舐めとけば試合には間に合うと思いますよ。かくいうワシも何度かお世話になりましてね」

「あ、すみません」

「いやしかし、かつて柔道界で修羅の三浦と呼ばれたあなたと戦えるなんて光栄です」

「……プロレスですけどね」

「ええ。プロレスで」


 複雑な気持ちでいる三浦。


 それはプロレスという競技についての感情も多大に含まれているが、わずかに、この銀輝山についても想うところがあった。


(不気味だ)


 常に人が良さそうな表情をしているが、目に関してはどこかかけ離れたところがあった。


 糸のように細く、山なりになっている。

 柔和な印象を受けるそこのわずかに見える穴から、まるで獲物を狙う毒蛇のような眼が見え隠れしていた。


 警鐘が本能から鳴り、体が身構えようとする。


(いかんいかん)


 仕事だ。と頭を切り替える三浦。


 もう昔のように、試合に対して前のめりになる必要はない。


「それで試合についてなんですが」

「はい。いい試合にしましょう」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 台本(ブック)


 セメント(※真剣勝負)ではないかぎり、プロレスの試合では必要不可欠なものだった。


「はい。二本目は三浦さんの勝ちで、三本目はお互い場外による引き分けにしましょう」

「どちらの格も落ちない結果ですね」

「修羅の三浦さんに恥をかかせるわけはいかせないですからね」


 これまた柔らかい笑みを浮かべながらの、銀輝山の一言だった。


 試合の流れ、出す技、アクシデントの際にはどうしたらいいか。


 付き人含めた数人で台本について細かいところまで確認したところで、セミファイナルのゴングが鳴った。金属音が連鎖する。試合終了の合図だった。


「それじゃこれで」

「はい。ふたりで観客を絶頂の渦に巻き込みましょう」

「大袈裟だな」

「ワシらふたりなら出来ますとも」


 銀輝山の言葉は、聞く者にとってとても心地よいものばかりだった。

 温和な性格と口調なのもあるが、何よりも彼が纏うカリスマ性がそうさせているのだろう。

 彼に元から心酔している付き人ばかりか、三浦の下であるはずの漆前さえ許されるのならば銀輝山側にセコンドに付きそうなほど虜になっていた。


 しかし三浦は違った。

 銀輝山のあの朗らかな顔に似合わない怪しい光を持つ眼がちらついて、彼に気を許すことはなかった。


「準備できました」

「うん」


 自分の控室に戻ってきた三浦は、これまで着ていた服を脱いで、試合コスチュームを身につけた。

 柔道着。

 一年前に既製品を買ってから試合でしか使ってないため、まだ傷もなく白いままだ。広い肩幅のために大きめなものを選んだせいで、袖や裾がぶかぶかだった。


 帯で強引に締めるが、初見としてはだらしない印象を受けざるをおえなかった。


 三浦は特に気にしないまま会場の裏側を移動して、自分が出る側の出場口を目指す。


 休憩時間が十分なため、他に寄っている暇はないが、焦るほど時間がないわけではなかった。


 余裕をもって歩いていると、見知った人物を三浦は見かけた。


石鬼(いしおに)師匠。お久しぶりです」


 白髪の老人へ、三浦は足を止めて深々と頭を下げた。


 この老人は三浦の柔道の師匠であった。修羅の三浦、石鬼無くして生まれなかったと言われるほどで、実際、三浦からしてもそう思っていた。


「やあ。待っていたよ」

「すみません。しばらく声をかけられなくて」

「いやなに。きみもこうして忙しいんだからしょうがないさ……ところで、奥さんの状態はどうだい?」

「はい。もうすっかり元気になっちゃって。家ではわたしの世話を焼こうと、常に近くをうろついてますわ」

「ほー。ならばよかった。きみが柔道をやめて、プロレスを始まった甲斐もあったというものだよ」


 本当は、三浦は、あまりプロレスが好きでなかった。

 幼き頃から柔道一徹だった彼からすると、武道をショーにするという発想自体が理解できなかった。ましてや行われている試合も真剣勝負ではなく八百長で、それだけで反吐が出る。


 ではなぜそんな三浦がプロレスラーになったかというと、原因は妻の病気によるものだった。


 彼女が発症した病気に効く薬は、当時の日本ではまだ貴重なもので、とても柔道家という仕事では買える代物ではなかった。

 しかし不幸中の幸いか、外国では薬はある程度安く出回っていた。

三浦は妻と一緒に日本を出る決意をしたのだが、柔道しかしてこなかった彼にやれる仕事は限られていた。日払いの肉体労働では薬と妻が療養できる環境を整えることの両立ができなかった。

だから、当時、彼が住んだ国で流行っていた格闘技のプロレスをやる決意をしたのだ。


 まだこの時代の外国では柔道は珍しいため、三浦のスタイルは大いにウケた。


 三浦は柔道の技を見世物として使うことで、家族を養った。それでも最初は柔道家として異国の地で本物の柔道を伝えようとしたが、本気で技をかけると相手が怪我するため、試合では危険な柔道の技は禁止される形となった。


 外国で三浦がプロレスをし続けて十年が経った。

 ようやく、妻の病気は完治した。


 けれどその頃には三浦の柔道の技は錆びついて、鍛える必要のなかった肉体は衰えていた。


 日本に戻ってきてからも、三浦はプロレスを続けた。


 プロ柔道が廃止されたことで、柔道家としてはもうほとんど稼げない。生活のために、故郷でも三浦は畳ではなくリングに上がっていた。


「すみませんでした。本当は自分がプロ柔道を引っ張らなければいけなかったのに、途中で身勝手に抜け出してしまって」


 上げたはずの頭を、今度はもっと深く下げた。


 石鬼は静かに横へ首を振った。


「確かにきみが抜けたのは痛手だったが、本来は残っている者たちで続けばならなかった。いくら傑出した逸材が消えたとはいえ、ひとりやふたりがいなくなったところで結果を生み出せなければ、その商売はその優秀な人物と共に失われてしまうだろうから」


 悟ったように言う石鬼。


 これ以上は、所詮、最後まで彼の隣で興行を支えられなかった自分が口を挟めるもではないと三浦は黙った。


「ところで、そろそろなぜきみに会いに来たのかを説明しよう。試合開始も近いようだしね」

「そういえば、どうして師匠がプロレスなんてものを観に?」

「プロレス()()()……か」


 三浦の言葉を繰り返す石鬼。


 三浦には、その意図はよく分からなかった。石鬼は特にそのことに触れることなく、要件について話す。


「先日、きみの相手である銀輝山と会ってな」

「師匠がですか?」

「ああ。雑誌の取材で対談することになってね。その時、あの男の練習風景についても見学させてもらった。やつについての情報を、きみに授けたくてね」


 石鬼の表情は真剣だった。

 かつて天皇陛下が観戦する天覧試合において、三浦と当たる相手を一緒に研究した時とそれは同じ顔だ。

 本気で、弟子を勝たせようとしている。


 三浦はそんな師匠を前にして、苦笑いをした。

 気恥ずかしそうな声で返事をする。


「銀輝山のことですか。別にいらないですよ、そんなの」

「そうなのか?」

「ええ。だって師匠も知ってる通り、これからすることはプロレスですよプロレス。そんなマジでやるものじゃないです」

「そうか……だが、これについては」


 石鬼の話の続きが伝えられる前に、三浦は師へ背を向けた。


「……」

「別に大丈夫ですって。師匠もわざわざ観戦するくらいなら、早く家に帰って、奥さんや娘さんと一緒にいたほうがいいですよ」


 去っていく弟子に対して、石鬼はもう何も言わなかった。


 久々の師との邂逅で少し長話になってしまったため、三浦は急いで出場口に着いた。

 

 時間ギリギリだったため、落ち着く間も取らず、慌ててリングに上がった。


「青コーナー! 修羅の三浦こと三浦猛! 大木を折ったと言われる得意の大外刈りと必殺のサブミッションであるミウラロックは、あの銀輝山にも通用するのか!」


 さすがに木を投げたことはねえよ。


 実況の大袈裟な選手紹介を心の内で冷やかす三浦。


 コーナーポストに体を預けたまま、対面に来る対戦相手を彼は待つ。


「ん?」


 ざわざわ、と観客席で騒ぎが潜めきだす。


 銀輝山が、来ないのだ。


 本来ならば、対戦相手が来た直後に、すぐ来るはずだ。


 だが、まだその影の一端すら会場に出さずに数分いた。


 実況解説や三浦も困惑し始めたところで、


「来ました! 銀輝山が遅れて、リングに現れました!」


 出場口から一気に駆け出してくる銀輝山。


 その勢いを保ったまま、ロープを飛び越えて、白いキャンパスに着地した。

 錦鯉が描かれたガウンが、宙を舞う。


 うおおおおお!


 登場だけで、会場のボルテージが最高潮に達した。ただ登場するだけはなく、遅れて少し待たせたのが最大の要因のだが、恐ろしきはこれが台本ではなく、銀輝山のアドリブによるものであることだ。

 会場の空気を直前に察して、わざと客を待たせたのだ。

銀輝山はやはり人の心を掴む天性の勘を持っていた。


 集まった注目に、銀輝山は拳を掲げることで応えた。するとさらに観客たちは興奮した。


「上手いな」


 別に歓声などは求めていなかったが、その卓越とした手腕には、さすがの三浦も舌を巻かざるをおえなかった。


 持ち込み物の確認を終えたら、試合が始まる。


 お互いに裸一貫。

コスチューム以外は何もなかったふたりは、それぞれのセコンドの前に来て、ゴングを待った。


「三浦さん。あんまり熱くならないでくださいよ」

「分かってるって」


 たとえ本気になりたくとも、こんな児戯相手に自分が本気になるなんてことはない。

 今日ももらったお金の分を働いて、呑みにいくだけさ。


 仕事終わりの一杯は美味い。


 カン!


 空想のビールの泡の音に混じって、ゴングが叩かれる音が耳に入ってきた。


「さあ! 昭和(しょうわ)舟島(ふなしま)の開始です! 果たして、どちらがこの決闘で生き残るのか!?」


 三浦と銀輝山。

 ふたりとも、わずかに腰を落として、胸の高さにおいた肘から腕を前へ伸ばしている。

似た構えをそれぞれ取ったまま、相手へにじり寄っていく。


 中央に寄ったところで、どちらからともなく組んだ。


 ロックアップ。


 お互いに相手の頭を引き寄せようとする。膨張する筋肉。腕力のせめぎ合いに、客は興奮する。


 銀輝山が後退しはじめる。追って、技に引き込もうとする三浦。

 三浦優勢かと思われたところで、銀輝山の背中がロープに当たってロープブレイクとなった。

 

 一旦、引き離されるふたり。


「ファイッ」


 再び、審判の号令によって試合が再開する。


 単純な力比べでは三浦が上なため、銀輝山が組み合いを避けてどう仕掛けにいくのかと観客は考える。


 当の銀輝山は、なんと正面から三浦へ組みにいった。


 さっきと同じロックアップ。

 力勝負で押される銀輝山だが、三浦の首に回していた左手を三浦の右腕に持ち替えて、引っ張った。

 三浦は変化する重心に逆らうことなく、自ら地面に倒れ込んだ。


 上から被さろうとする銀輝山。三浦はキャンパスを回って、逃げていく。


 途中までは最初と同じはずだったのに、結果では立場を入れ替わった攻防になっていることにビックリする客たち。彼らは時間が経過するごとに、試合へ引きまれていく。


「……」


 台本通りに動く三浦。


 さっきの銀輝山のパフォーマンスによって、会場内の応援の声は銀輝山一色に染まっている。いや現地だけじゃなく、試合をテレビで見ている視聴者までもがそうだ。


 それでも三浦は平常心を保ったまま、試合を崩さずにいた。


 普段より動きが鈍い気がしたが、台本通りに動くプロレスならば問題はない。

 

 このまま事前に決められた展開と結果になると思われたが、開始から十五分後に、リング内で異変が起こった。

 

「くっ」


 痛みのあまり、思わず声を出してしまう三浦。


 水平チョップにより、銀輝山の指先が目に当たってしまったのだ。目潰しは反則。プロレスでは反則行為が五秒以内は許されているため問題はなかったが、


(こいつ、わざとやりやがった)


 こちらを叩く前に、銀輝山がほくそ笑んだのを三浦は見逃さなかった。


 打ち合わせでは、ここは避けるはずだった。だから三浦はある程度の余裕を持って下がったのだが、それでも手刀は伸びるように目の前で薙がれた。


 明確な悪意がなければ、できることではない。


「ふざけるな」


 予想外の苦痛にカっとなった三浦は、銀輝山の金的を蹴った。


 モロに当たる。

 手加減していたとはいえ、かなり痛かったはずだ。


「あっ、すま――」


 これはやりすぎた、と謝るため近づく三浦。


 わずかに俯いた銀輝山の顔を覗いたところで、言葉が中断された。


 瞼が上下に開かれ、毒蛇の眼が飛び出していた。


「うおりゃ!」

「なにっ」


 一瞬、蛇に睨まれた蛙の如く静止した三浦。


 彼の目前に、銀輝山の攻撃が迫っていた。


 ――空手チョップ。


 上空から手刀を振り下ろす危険な打撃、と思わせる魅せ技。

実際は、当たる直前で手首を返して、手刀から平手に代わる危険どころか安全な技だった。


 平手が、三浦の顔面に直撃する。


 (いかづち)が落ちた。


「――」


 三浦の視界が、真っ白になった。


 顔面が炙られたように熱くなる。


 眺める景色が正常に戻ると、血が熱さの原因だと分かった。理解と同時に鼻と顎に激痛が発生する。


 鼻の軟骨は潰れ、下顎は外れていた。


「あんは、なんへこんなことを(あんた、なんでこんなことを)」


 顎が動かないため、まともに話せない。鼻腔に血が溜まって、息もできない。


 反則に反則で返す。これはプロレスでは、よくあることだった。

 一回やられた分を、こちらの一回でチャラにして終わり。そうなるはずだった。


 なのになぜ、ここで打ち合わせにない技を。


 ――いやそもそも、プロレスラーごときになぜこんな空手家顔負けの打撃が放てる。


 空手家とも親交がある三浦。その経験から、先程の銀輝山の平手打ちは彼らの正拳突き並みの威力、いや下手したらそれ以上の威力だった。

 少なくとも、これまで味わったことがない種類の強烈な代物ではあった。


 三浦へ何も答えることなく、銀輝山は三浦の足を蹴った。


 今度は自分からではなく、衝撃によって尻もちをつく三浦。


(立ち上がれ! 動け!)


 三浦は立って仕切り直そうとするが、身体がついてこなかった。


 次の瞬間、すこーんとロープ外へ三浦の頭部が吹っ飛んだ。

 反動によって跳ね返ってくる三浦の頭へ、銀輝山はもう一度サッカーボールキックを浴びせた。


 歯が砕けた。


 五発ほど蹴りが当たったところで、試合終了のゴングが鳴る。


 審判に止められた銀輝山は、すぐさま攻撃をしなくなった。最後に三浦を一瞥すると、自分のコーナーへ戻っていく。


(なんだ……その目は)


 今の三浦の目で見える景色は全て霞んでいる。

そんな状態でも、唯一、最後の銀輝山の目ははっきりと捉えられた。


 それは途中までの牙を剥く毒蛇のものではなく、まるで期待外れの玩具を見つめる子供のようなものだった。


(ふざけるなよ――ふざけるなよ!)


 心の内で慟哭する三浦。しかし今の彼には、叫ぶ力ももうなかった。


 リングサイドに控えていたドクターが、すぐに三浦へ寄ってきて、診察する。負傷がひどすぎたため続行は不可能、残り二本は中止となった。


 試合の勝敗自体は、銀輝山の勝ちで決着がついた。そのため、勝者の銀輝山へ声援が浴びせられる。


「よくやった。銀輝山」

「反則されたのに、正々堂々と最後まで対決したあんたは漢だ」

「柔道なんて敵じゃねえ」

「プロレス最強! 銀輝山最強!」


 三浦の耳元では、医者や関係者たちの声が響くだけだった。


 結局、三浦は病院に送られることとなった。

 緊急隊員でもあまりに重い三浦を運べなかったが、客席にいた石鬼が手伝ってくれて、なんとか救急車に乗せられたそうだ。


 緊急入院となった銀輝山。しばらく面会謝絶となった。


 手術から三日ほどで状態が回復し、ようやく意思疎通が可能になると面会が許可されるが、ベッドで伏せっている彼の前に最初に現れたのは、家族でも師匠でも友人でもなく、()()()()()()()だった。


 マスコミが言うには、反則をしたのは三浦だけで銀輝山はクリーンファイトに専念したそうだ。


 銀輝山が先に反則を仕掛けてきたと訴え、三浦はビデオを確認してくれと懇願する。

 けれどなんと現在テレビで流されている映像では、銀輝山の反則シーンがカットされていた。


 当時、一般家庭にはビデオレコーダーはまだなかった。

 そのため確認することはテレビの再放送しかなく、一般人の認識は編集された映像によるものがほとんどだ。当日に生放送で見た視聴者も数多くいたが、金的に比べると銀輝山の反則はかなり分かりづらいため、編集映像を度重ねて見させられた世間では三浦が一方的に反則していたこととなった。


 銀輝山はヤクザや政治家など各方面に太いパイプを持っている。もちろん、その中にはマスコミも入っていた。

 対する三浦には、柔道関係以外でのツテはなかった。


 テレビだけではなく、新聞もラジオも三浦を卑怯な敗者と吹聴していた。


 新規新鋭の格闘技プロレスに恐れをなした柔道が、自らの立場を確固としたものにするため仕掛けたが、結果は正義のプロレスが悪の柔道界を打倒したという筋書きだ。


 尋ねられる質問も、負けたことへの気持ちやなぜ反則をしたかなどばかりだった。

そして挙句の果てには、勝者である銀輝山を称える声を求められた。


 記者は三浦だけじゃなく家族や石鬼まで取材をし、大量のフラッシュを浴びせ、敗北へのコメントを尋ねた。


 三浦がマスコミから解放されたのは、別の大きな事件が起こった二か月後だった。


 静かになった入院室で独りになった三浦の心の中に残ったのは、屈辱だった。




 現在でも古傷のように痛む胸を、三浦は抑えた。


 治療を終えた三浦がまずしたことは、山籠もりだった。

 朝から晩まで稽古を行い、素手で獣を狩る。時おり降りかかる自然の脅威を、己の身ひとつで乗り越える。

 弛んだ肉体と錆びた技術を再生するだけじゃなく、四六時中、闘いの日々に身を置くことで全盛期の自分さえも越えようとしたのだ、


 修行について、妻には言ってあった。


 入院中、子供のように悲痛に顔を歪ませて尋ねる三浦へ、「結婚してからずっと、あなたは己を殺して、私に身を捧げてくれました。もう私は大丈夫です。これからは、あなたの好きに生きてください」と妻は言った。


 妻の許しを得た三浦は、四年半もの間を山で過ごした。

 

 山で生きることで肉体を鍛え、ときおり来る石鬼の指導によって技を磨き、自然から我が身を守り続けることで心から油断を取り去った。


 三浦猛。

 四二歳の今この時こそが、彼のピークだ。


 チャリンチャリン


 鐘が鳴ると、プルコの出入り口が開いた。


「……」


 プルコ。異国の言語で、花火を意味していた。


 プルコの中から、ふたり出てきた。

 男女の連れで、隣に連れ添っていることから仲の良さが伺える。

 

 女はアジア系の外国人。

 崩れた肉体だが、それがとことなく色気を醸している気がする。

 男は――銀輝山だった。


 恰好は違うが、変わらない毒蛇の眼。


 三浦の脳内には、その目が子供のものに変貌した最期の瞬間がフラッシュバックした。


 帽子の影から、三浦はふたりを睨みつける。


「きゃぁあああ」

「うおっ」


 店の前で倒れている若い男たちを見て、悲鳴が上がる。


 銀輝山は女を庇うように立って、周囲を探る。すぐに三浦と目が合う形となった。


「……あぁ」


 少しの逡巡の後に、銀輝山は歯を見せるくらいの笑顔になった。


「ど、どうしたの」

「店に戻って、裏口から帰りなさい。ワシの知り合いだ」


 戸惑う女だが、銀輝山に言われると、すぐにその通りプルコへ戻った。


 銀輝山は女が完全に扉を閉めきる前に、懐から財布ごと金を渡す。女は驚くものの、すぐに喜び、いなくなる前に銀輝山の頬へ接吻していった。


 赤坂の路地裏で、ふたりになる三浦と銀輝山。


「なんだ?」

「さっきのはワシの今の愛人だよ。本当はもっと分けて渡したかったのだが、アンタが直々に会いにきたからには、急がないとと思ってね」

「わたしを覚えていたのか?」


 ハンチング帽を外して、三浦は顔を晒した。


「ああ――修羅がいる――と思ったよ」


 銀輝山は喜ぶように話す。


「アンタは、たぶん、そこのワシのカバン持ちふたり(付き人)が覚えていなかったのを気にしたんだろうな。そりゃこのふたりは、柔道家である昔のアンタを見たことなかったんだから気付けなかったのもしょうがないよ」

「貴様は、見たことがあるのか?」

「あるよ。天覧試合の一度っきりだけどね。あの時のアンタは凄かったな……」


 感慨深く呟く銀輝山。


 一度外した目を戻し、三浦に焦点を合わせる。


「今のアンタもあの時並み――いや、それ以上かな」

「昔のわたしは、どういう印象だった?」


 思い出すように、銀輝山は答えた。


「豚。かな。美味しい美味しい丸々と太った白豚だったよ」


 以前も見た獲物を前にした毒蛇の瞳が、そこにあった。


 銀輝山のその一言で、三浦は五年間思いつめたある疑念の答えに至る。


 三浦は確信した推理を、突きつけるように言葉にした。


「銀輝山、貴様が先に反則をしたのはワザとだった」

「――」

「わたしが負けたあの試合からプロレス界はさらに盛り上がった。異種格闘技戦を組み込み、他の部門の武道家たちを倒し、最強の格闘技として名を馳せてな」

「――」

「貴様はプロレス界を盛り上げるために、柔道でかつて最強と云われていたわたしを利用したのだ」


 途中まで台本通りに演じ、油断させてからの不意打ち。

 反則を返させたのは、三浦を悪党にするためだった。対等な立場ならば世間の目も厳しくなるが、善と悪という自分側に有利な対立構造を作ることによって、欺きやすくしたのだ。


 すべては、自分が仕切っているプロレスという格闘技を人気にするため。


 銀輝山の思惑を、三浦は見破った。


「そうだ」


 不敵な笑みで、銀輝山は三浦の言葉を認めた。


「だけど、その推理が当たっていたとしてどうするんだい? テレビや新聞に持ち込んでも握りつぶせるぜ。柔道家として名のあった時の三浦猛ならともかく、ワシに負けたプロレスラーの三浦猛の言葉なんて誰も聞きやしない」

「だがダメージがないわけではない。貴様には黒い噂が絶えないし、成功を妬んでいる者も大勢いる。少なくとも、貴様がプロレスをこれ以上の立場にすることはしばらくできなくなりそうだ」

「……」


 ここまで笑みを絶やさなかったのに、三浦の話を聞いて押し黙る銀輝山。


 三浦が考えた通り、銀輝山はまだプロレスという興行を大きくしていくつもりだった。ならばたかが火消しのために各方面に手を回す時間も金も惜しいはずだった。


 国民的人気スポーツとまでプロレスを押し上げても、未だ尽きぬ野望を胸に秘めているのだ。


 それが分かった三浦は、少しだけ、銀輝山が眩しく見えた。


 プルコの看板の怪しい光を打ち消すくらい大きな後光を感じた。


(……違う。この男は、ただの詐欺師だ。金と権力に溺れ、精神は欲望で満ちている。自らのためなら他人などどうでもよいと考える邪悪だ)


 考える内に、光が消えていく。


 三浦は、ロングコートを脱いだ。


「相変わらず、似合ってるよ」


 三浦は柔道着を纏っていた。

 柔道家時代のもので、稽古であらゆる箇所が擦り切れていた。


「金輪際、貴様への悪評を口にしない条件で、この場での再戦を願う」


 恰好を褒めた銀輝山へ、三浦は構えた。


 悪評など、どうでもいい。

 強請りで小銭を儲けもしない。

 

 ただ、五年前の借りを返したい。


 そのために、三浦は今日まで頑張ってきた。


 プロレスでは駄目だ。

 台本がある。台本破りでの不意打ちなんてことをしたら、この邪悪と同じ存在に成り下がってしまう。


 だからこそ山を下りてからもすぐには奇襲などせず、絶好の機会を調べ、最低限の付き人といるこの時を待っていた。


「かっはっはっはっ!」


 銀輝山は大いに笑った。


 元々、酒で赤くなっていた顔がさらに染まった。


「ワシが一番困ることを分かっていて、その方法を選ぶか三浦さんは。面白い」

「感想はどうでもいい。やるのか? やらないのか?」

「やるよ」


 銀輝山は、再戦を受けると答えた。


「……」


 三浦は少しだけ困惑した。

 彼からするとここまで早く応じてくれるのは意外だった。もっと揉めて、そのうえで闇討ちする気さえもあった。


 しかし願ってもいない状況になったのは変わりない。


 三浦は、闘志を体に漲らせていく。


 銀輝山は、スーツの裏から封筒を取り出した。


「でもその前に、これにサインをしてくれないか? あと黙ってくれるって条件も付け足して」


 投げつけられた封筒をキャッチする三浦。


 中には誓約書があった。

 端的に言うと、「これからする練習試合で怪我をしても、自分は訴えません」という内容だ。


 道場破りの際に書かされるものだ。


「持ち歩いているのか?」

「ああ。有名だと、そういう要件で絡まれるのも少ないからね。だからこの服も、特注さ」


 銀輝山が自分の服を引っ張ると、見た目のわりに伸縮性が高い。確かにあれならば動きやすい。


 ついでに渡されたペンで三浦は律儀にサインすると、銀輝山に返した。


 銀輝山は確認しながら、喋り出す。


「でも、いいのかい? 今のワシは酔ってしまっているけど」

「片方は素面で片方は酔っぱらい。前回と条件は同じだ」

「だからあの時は、酔いを醒ますための飴をあげたじゃないか」

「あの飴。本当にただの塩飴だったか?」

「あら。そっちもバレてたか」


 銀輝山はベロンと舌を出して、イタズラがばれた時の子供のような表情をした。


 そのまま彼は懐から、試合前に三浦にあげた飴と同じものをポッケから取り出した。


「本当のこいつの効果は、酔いを促進させる」

「やはりか。だからあの時、体が妙に重かったのだな……なにっ!?」


 納得してから、三浦は驚く。


 これから勝負という前に、銀輝山があの塩飴を舐め始めたのだ。

 バキバキと何度か噛む音がすると、飲み込む。


 すると次第に、銀輝山の紅潮が引いていった。


 酔いが醒めたのが分かった三浦は、狼狽する。


「そ、そうか。それはわたしに渡したものと違って、本当に酔いを抑えてくれるのだな」

「いや違う。全く同じものさ」


 銀輝山は、純粋な内臓の処理能力で、アルコールを瞬時に分解したのだ。


 やはりただのショーマンではなかった。

 この男には底知れないものがあると、三浦は戦慄する。


 その前で、確認を終えた銀輝山は戦闘態勢に入る。


「さて、言葉による対話は終わりだ。ここからは格闘家らしく、ボディランゲージというこじゃないか」


 その言葉が響いた後、わずかに空間に沈黙が訪れた。


 静かだった。


 プルコの前は、わずかに街の喧騒が聞こえるだけで、他は無機物から発される音しかしない。


 それも瞬間ごとに少なり、やがて消滅した。


 漂ってくる酒やつまみのキムチの匂いも、同様になくなった。


 ふたりの呼吸音だけが空間に存在し、三浦は柔道着からする染み込んだ己の汗の匂いだけを嗅いだ。


 男ふたりは、それぞれ構えたまま見合っている。

 三浦はベーシックな柔道の構えで、銀輝山は両膝を曲げて前かがみに腰を落としていた。


「……」


 相撲か。 

 三浦は、銀輝山の構えを見て思った。


 五年前、自分に尻もちをつかせた技も、相撲のけたぐりだった。


 プロレスラーを名乗っているのが、銀輝山の本性はむしろ元々やっていた相撲にあるのではないかと三浦は考えている。


 その通りならば、今は三歩ほど離れた距離にいるあの男の態勢からくる技は、ぶちかまし一択だった。


(わたしは、待つ)


 柔よく剛を制す。

 柔道界の基本思想通りのことを、三浦はしようとする。


 体当たりの力を利用して投げる。


 単純にして、最も効果的な戦法だ。


 だから三浦は、自分から動かずに銀輝山の始動を待った。


 待ったのだが。


「?」


 来ない。


 さっきから銀輝山はピクリともせずに静止していた。


 考えが読まれたことを三浦は理解するが、それでも彼は止まったままだ。


(わたしが来たところで不用意になっているのを狙うつもりなのだろう。甘いな)


 相撲のあの小ぢんまりとした体勢は突進において最大限の瞬発力を発揮するものだが、待つという点に関しては全格闘技の中でも最も向いてないといえた。


 一分か二分ならともかく、五分や十分もすれば膝に負担がかかって肉体全部が固くなっていく。


 そうなったらもう全力のぶちかましなどできるはずもなかった。


 ぶちかましのない相撲など、取るにも足らない。


 長期戦になればなるほど有利になるのは三浦だった。


 膠着状態のまま、二十分が経った。


「……」


 それでも銀輝山は不動だった。

 動かざるごと山の如しとでも言いたげなのかと思うくらい、彼は一切の動きを見せなかった。


(今なら、こちらから攻めてもイケる)


 先に痺れを切らしたのは、三浦だった。

 けれど彼とて、あれだけ固まったままでは銀輝山の初動が鈍くなっているという打算があった。


 すり足で、一歩を踏む――それと同時に、銀輝山が全速力で立ち上がった。


 山が突っ込んできた。


 銀輝山の肉体はまったく固まってなかった。ひたすら集中し、この瞬間を待っていたのだ。


 三浦は自ら考えていた不利な状況に陥った。


 すかさず防御態勢を取る三浦。銀輝山は体ごとぶち当たる。電車道で、壁まで突き進んでいく。


「かはっ」


 背中が硬いコンクリートにぶつかった三浦。

 肺から息が押し出された。


 相撲ならこの時点でもう負けだ。


 無論、今日の勝負はそうじゃないと分かっているため、まだ余力がある三浦へ銀輝山は追い打ちする。


 空手チョップ。


 前回の試合で、決定打となったあの打撃が三浦へ襲い掛かる。


「――」


 通常ならば、この空手チョップはただの平手打ちでしかない。

 威力も、恐れるに足らぬものだ。


 しかし、元力士の銀輝山なら話は別だった。


 相撲では、この手のひらからの打撃も突っ張りになる。

 柔らかいはずの手のひらが鉄砲によって鍛えられ、巨体の相撲取りたちを引かせる強力な一撃と貸す。


 魅せ技のはずの空手チョップが、力士(銀輝山)が使えば、振り降ろしという軌道と寸前の捻りが加えられた新たな突っ張りになるのだ。


 その殺傷力は、以前、三浦が自分自身で浴びたことにより誰よりも分かっていた。


 かつての惨劇の始まりが強引に記憶の底から呼び出され、三浦の顔面が疼く。


 揺れそうになる歯をガチっと強く噛み上げた。


 バシン


 手のひらが、人間の皮膚を捉える音が聞こえた。


「くっ」

「はあ……はあ……」


 半歩後退して、鼻を抑える銀輝山。彼が先程までいた場所には、三浦の手のひらがあった。指を曲げて、猫の手のような形になっていた。


 腕を伸ばしたまま、三浦は疲労の色を見せる。

 けれど彼の口元は、どこか小さな笑みを作っていた。


 体勢を整えた銀輝山はその場でもう一度、空手チョップを行う。


 夜の街に浮かび上がった半月を、直線の流星が貫く。


 三浦の手のひらが、先に銀輝山の顔面にぶつかった。空手チョップが中断される。


「掌底打ちか」

「貴様と対峙するには、打撃も必要だと考えてな」


 山籠もりの最中、石鬼が定期的に知り合いの空手家を連れてきてくれた。その人物から教授してもらったことで、三浦は打撃の対処とこの掌底を覚えたのだ。


 すかさず三浦は掌底打ちを連射する。

 

 純粋な速さや重さでいえば空手チョップには及ばないが、最短距離で相手を打つことによって結果的に一足早く当たる。


 自らの攻撃が中断されるたびに、銀輝山は後退していく。

 中央まで戻されると、両腕でブロックする。

 厚い壁にぶつかると、三浦の手のひらが弾かれた。さすがに防御を抜くほどの練度までには達していなかった。

 

 それでも三浦は逆の手で掌底打ちを行う。


 銀輝山の腕に衝突する左手。また弾き返されるかと思いきや、三浦の手は鉤爪のように変化する。指先が銀輝山の服の右袖に巻き付いた。

 三浦は引っ張って防御を崩すと、後方から戻ってきた右手で銀輝山の襟を掴んだ。


 銀輝山のふくらはぎを、三浦が踵で思いっきり蹴りつける。


 直後、銀輝山の百キロを超える巨体が浮き、猛烈な加速状態で落下した。


「――」


 三浦の得意技のひとつである大外刈りが決まった。


 地面に伏せる銀輝山の後頭部から、血がダラダラと流れる。泥水のように、水たまりを形成していく。


 付き人たちと同じく、そのまま意識を失っているのかと思いきや、


「今のアンタなら、本当に大木を折れるかもな」

「ちっ」


 柔道着の帯に、銀輝山の小指が引っかかっていた。


 力士は小指一本で己の体重を支えられると三浦は聞いたことがある。銀輝山はその強力な指の力でブレーキをかけたのだ。


 三浦は踏みつけてやろうとしたが、まだ両足で立っているにも関わらず、地面へ引きずり込まれた。

 恐るべし力士の小指。

 銀輝山は落ちてきた三浦の首を捉えて、グランドチョークの体勢に入った。


 ギュゥウウウ


 頸動脈を力いっぱい締める。脳への血液の輸送が停止し、長時間続いてしまえば脳梗塞に陥ることもある。


 銀輝山は、毒蛇の瞳で三浦の様子を観察する。

 じわりじわりと毒が効いているのを楽しんでいるようだった。


 三浦の口から、ギブアップという言葉が出るのを、心底から愉快そうに待つ。


「甘いな」


 締められているはずの、三浦がまるで熟練者が初心者をからかうように言った。


 三浦の首が体ごと回転する。完全に極まっていなかったのだ。広がった穴から三浦は脱出すると、今度は銀輝山の足関節を取ろうとした。


「レスラーに寝技で競い合うつもりか」

「レスラーはレスラーでも、貴様らプロレスラーだろうが。こちらは高専柔道だ!」


 互いに地面で寝っ転がりながらの技の極め合い。


 固い地面が、服越しに皮膚を削り、内出血を起こさせる。


 両者ともに汗まみれになった末に、三浦が銀輝山の腕を捻ろうとする。

 三浦のもうひとつの武器――ミウラロックこと腕緘だ。


 自らの両腕で四の字を作り、相手の手を相手の背後に回すように捻り上げる。

 絡めた自分の腕が支点となり、テコの原理で肩関節にダメージを与える。


 三浦を山でこれを熊にも行い、骨を砕いた。


 さっきの極めっこで分かったが、寝技の技量は三浦のほうが銀輝山より一枚上だった。散々、振り回したうえでこのタイミングなら極められると確信し、三浦は仕掛けた。


 そしてミウラロックが完成寸前まで至ったところで、銀輝山はするりと三浦の手の内から逃げる。


 これまでの銀輝山から考えられなかった完璧な抜け方に、思わず三浦は声をあげた。


「なぜそんなのを!?」

「前日に来たアンタの師匠に習ったのさ」


 石鬼師匠が!?


 予想だにしていなかった答えに、三浦は動揺する。


 こちらを翻弄するための嘘かと考えたが、確かに石鬼はあの試合前に銀輝山に会ったと言っていた。その時に接点を持ったならば、ありえない話ではなかった。


 ではなぜ、自分の師匠の石鬼が、敵である銀輝山に塩を送るような真似をしたのか。


 その答えを三浦が導き出す前に、


 ガンッ


 立ち上がった銀輝山は、寝たままの三浦をトーキックで蹴った。防御は間に合ったが、痺れる三浦の右腕。


(考えている暇はない。今のわたしはこの男を倒さねばならない。そのために年月を捧げたのだ)


 追い詰められる前に、三浦も立った。


 向かってくる銀輝山に、掌底打ちで反撃する。


 隙ができたところで、さらに投げた。


「がはっ」


 帯を掴まれないよう、投げる最中に腰を強く捻った。結果として、今度は威力を軽減されずに技が成功した。


 すぐに立ってくる銀輝山を、三浦はまた手のひらで叩く。


 三浦は勝利を確信した。


 打撃も投げも寝技も、今や自分のほうがこの男より実力が上だ。フィジカルにおいても、パワーやスピードも上回っている。

 全てにおいて勝っている以上、勝てない道理などなかった。


 三浦の考えた通り、この後の戦いは、一方的な展開を見せた。


 掌底を打って機を見計らったところで三浦が投げる。銀輝山の打撃はことごとく途中停止させられ、組んでも逆に三浦の技をかけられた。銀輝山が休む間もなく立ち上がるため寝技への移行はなかったが、いつそうなってもいける準備を三浦はしていた。


 体落とし。

 肩車。

 釣込腰。

 出足払い。

 内股。


 その他も含めたありとあらゆる技で、銀輝山は投げられた。


「……」

「ふーふー」


 深く息をする三浦。体力が底に近づいているのだ。


 落ちそうになる構えを保ちながら、前に立っている銀輝山を見る。


 なんなのだこいつは?


 着ている服装が汚れに塗れ、ところどころ破けている。ポマードで固めていた髪はほつれ、鼻も唇もペチャンコだ。晒された肌は出血で青や黒に染まって、本当に蛇の鱗みたいになっていた。


 もはや半死人とも思えるその状態で、銀輝山はまだ戦闘への意欲を保っていた。


 ぶちかましにきた銀輝山。


 三浦は瞬時に最適な動きをして、背負い投げで投げた。


 頭からアスファルトの地面へぶつけた。


 肉体を通して、頭蓋骨が割れる音が聞こえた。

 下手をすれば、いや常人ならば確実に死を迎えていた。


 スクッ


 それでも銀輝山は即座に立ち上がった。しかもその動作は最初の頃より早くなっていた。


 異様としか表現できない光景を前に、三浦は混乱で停止してしまう。


 すると銀輝山は、欠けた白い歯を見せつけるように笑った。

 脳天から垂れてくる血を舐める。


「それじゃあここから逆転勝利を始めようか」

「なんだと」


 三浦の疑問に答えることなく、銀輝山は接近してきた。


 ぶちかましでも体ごとぶつかろうとするわけでもなく、すり足で忍ぶように距離を縮めるわけでもなく、堂々と胸を張って悠然と歩いてくる。

 まるでこれからスピーチでも始める司会のような歩み方だった。


 銀輝山は一歩前まで来ると、挙手をした。

 空手チョップの体勢だ。


 それまでは呑まれていた三浦も、さすがに気を起こして連続の掌底打ちで反撃する。


 一発目で、鼻を打つ。

 二発目で、目を潰す。

 三発目で、顎をかち上げる。

 四発目で、頬を抉る。

 

 五発目は、なかった。銀輝山の空手チョップが放たれた。


「――」


 あの時と同じ衝撃を、三浦は味わう。

 倒れかかるも、こらえてみせる。


 戻ってきた三浦の視界内で、銀輝山は次の空手チョップの準備をしていた。


「うおおおお!」


 雷が、山びこによって呼び込まれる。


 三浦がいくら掌底で打とうが、銀輝山は止まらない。四発打たれようが、全力で一発ぶつ。そしてその一発は、四発の連打よりも遥かに強かった。


 空手チョップの乱打だ。左右から変形の突っ張りが繰り出される。


 後退を余儀なくされ、壁際に追い詰められた三浦。


「いまっ」


 軌道を見切って左の空手チョップを肩で受けると、一本背負いで銀輝山を壁へ投げつけた。


 肉が潰れる音が鳴った。


 今度こそ仕留めたと思案する三浦の下で、伏せた状態から銀輝山はぶちかましてきた。


「あぁあああ!」

 

 三浦は恐怖で、銀輝山は己の力の開放で、どちらも叫び声をあげる。


 反対の壁まで進むと、再度、銀輝山は空手チョップを繰り返してきた。


 逃げ場がなくなったところで、三浦は猛威に晒され続ける。

 

(わたしは、この男を見誤っていた)


 三浦は銀輝山が力士崩れのパフォーマーだと思っていた。だから多少は強かろうが、力を取り戻した自分ならば易々とねじ伏せられる相手だと考えていた。あの不意打ちのような一撃さえもらわなければ平気だと余裕を持っていた。


 違った。


 銀輝山を、三浦は侮っていた。

 銀輝山の根底にあるのは相撲ではなく、プロレスだ。プロレスによって得た耐久力こそが銀輝山の源流だった。

 演技とはいえ、年間のほとんどが試合で埋まっていて、ずっと技をかけられ続けてきたことで身に付いたもの。いくら怪我をしようが病気になろうが、彼らは用意された試合に出なければなかった。


 銀輝山にとって、この戦いもまたプロレスだった。

 だからあえて途中からは今のように強引にせずに、投げられ続けたのだ。逆転劇の前フリのために、ひたすら耐えるのに専念したのだ。

 骨の髄まで、銀輝山という男はプロレスラーなのだ。


(認める――銀輝山は、強い)


 肉体も、精神も、強靭そのものだ


 三浦がそう思うと、銀輝山の背からまた後光が発された。


 その光を受けると、暴力を浴びさせられているのに、なぜか、この男になら負けてもいいやという気がしてきてしまう。


 空手チョップを前にして、三浦は防御を解いた。


 両腕を下げると、視線の先には、銀輝山の両目があった。


 毒蛇でも、玩具に興味を失った子供のものでもなく、ただ必死に目の前の敵を倒そうとする男の瞳がそこにあった。


(だが、わたしが勝つ。この強敵に、わたしは勝ちたい)


 三浦の脳天に、空手チョップが入った。

 噴水のように一気に血が飛び出る。


「うっ」


 呻く銀輝山。空手チョップと同時に、三浦の掌底打ちをカウンターでもらったのだ。


 されど銀輝山にとって、それは大した一撃ではなかった。彼には、まだまだ余力が残されている。

 逆の手を上げて、次弾を装填しようとした。


 メリッ


 銀輝山のふくらはぎに激痛が走る。

 その次の瞬間、いつのまにか握られていた引き手から銀輝山は後ろに倒された。さらに地面に近づく銀輝山になだれ込むように、三浦も前に崩れる。

 着地と同時に、絡ませた三浦の両腕が銀輝山の右腕を引っ張り上げて、ミウラロックが極まった。


 ――三天一流。


 打、投、関。

 三浦がこれまでの人生で鍛え上げた別々の要素を含む三つの技を複合させた技だった。

 

 銀輝山は逃げようとするが、完全に極まったミウラロックは外せない。関節技は、極まる直前までが勝負だった。

 それを分かっていたから、銀輝山は寝技だけはさせないように立ち続けたのだ。


 グギギギギギ


 人間の関節が本来は曲がらない方向に曲がっている。目に見えない小さなビビから大きな亀裂が作られていき、張った骨が脆くなっていく。


「ギブアップしろ」


 三浦の声だった。


 復讐にきたはずなのに、気付けば、降伏を勧めていた。


 戦い合う前までは、あんなにも殺したい地獄の底で引きずられるような痛みを与えてやりたいとまで思っていたはずだったのにだ。


 三浦はそれを不思議と考えずに、ただひたすら自分の下にいる男の骨を折ることに集中していた。


「……」


 銀輝山から声があがった。


 最初はか細い声だったが、繰り返し口に出し、徐々に大きくなっていってやがて三浦の耳に聞こえてきた。


「プロレス最強」


 三浦はギブアップと聞こえるまで、力を加え続けるつもりだ。


 それでも銀輝山は、同じ言葉に何度も吐いた。


 そしてとうとう、


 バキンッ


 銀輝山の肩の骨が折れた。


 残酷な感触に、三浦の背筋がツーと冷たくなる。自分の抱きしめているものが、大きな虫の死骸のように感じた。


 悲鳴を、三浦は待った。


「プロレス最高!」


 しかしなんと銀輝山は、痛みに悶えることなく立ち向かってきた。


 半狂乱のその姿に、三浦は打ちひしがれかける。けれど練習を積み重ねた体は、意識がおぼろげのままでも動いてくれた。


 三浦は、銀輝山のまだ損傷していないもう一本の腕も極めた。


 またギブアップを勧めるも、銀輝山は言わない。三浦は、結果として銀輝山の右肩も折った。


 両肩を折られた銀輝山は、その場で意識を失った。


 息は引き取っていない。

 それどころか、すやすやと安らかに眠る銀輝山を見下ろして、三浦は本当に自分が勝ったのか疑わしくなった。


「……いいや。わたしは、勝った」


 片方が地面に寝そべって、片方がその横で立っている。誰から見ても勝者と敗者は明暗だった。


 未だ整理できてない気持ちを言葉で断ち切った三浦は、その場を立ち去った。


 


 三浦がプルコの近くからいなくなって、三分が経過した。


「う~ん」


 すくっ、と何事もなかったかのように銀輝山が上半身を地面から起こした。


 ボロボロになった自分の体と周囲から三浦が消えたのを確認すると、小さく呟く。


「そうか。ワシは負けたのか」


 まるで朝にホテルのベッドから起床したら、夜を供にした女が言葉ひとつもなく隣から去っていたような表情だった。


 結果とは反対に、悔いの全く感じられない爽やかな声で銀輝山は言う。


「いい闘いだった」


 かっはっはっはっ


 銀輝山は大いに笑った。深夜の赤坂に、豪快な声が響く。


 三浦との決闘は時間にして約一時間程度だろう。

 ちょうどプロレスの試合一本分。前回の一本が銀輝山の勝利なら、五年越しの二本目は三浦の勝利だった。


 それらは奇しくも、五年前の台本で用意されていた展開と同じだった。


 ならば三本目は――


「和解で、ドロー(引き分け)しかなかろう」


 試合の前日に、石鬼から頼みごとをされたのを思い出す。



「柔道の修羅を復活させてくれ」

「三浦猛を再起させてくれ」



 だらけてあぶく銭を稼ぐだけの人生を送っている三浦にセメントを挑んでくれと言われた。勝つにしろ負けるにしろ、そうなれば消えてしまったはずの柔道への情熱の炎もまた点くだろうという話だった。


 銀輝山からしても、老人の話した通りになってくれればメリットのある話なので、言うことに従った。


 実際、石鬼の思惑通りとなった。


 銀輝山に負けた三浦は五年の期間を経て、以前の強さを取り戻した。


「だけど、ここからはアンタの思い通りにいかねえよ。コウモリジジイ」


 三浦猛は、プロレス界がもらう。


 最初からそのつもりだった。柔道に返すつもりなど毛頭なかった。

 自分に匹敵するスター、タッグで自分と肩を並べても遜色ない相手が欲しかったのだ。


 銀輝山の頭には、最初から今日まで日本でプロレスを大きくすることしかなかった。


「……とはいっても、どうするかね? もはや金で転ぶような男ではなくなってしまったし」


 銀輝山は三浦の勧誘の方法を考えながら、立ち上がる。


 ふらふらと歩きながら、まだ意識を失っている付き人たちの元へ近づいた。


「おっと。こりゃ大変だ」


 靴を脱ごうとするが、腕が動かせいなため普段通りじゃ駄目だった。

 苦労して脱ぐと、内側から紙幣を取り出して体が大きいほうの付き人へ渡した。


「ふたり分のタクシー代だ。これで帰れ……ワシはどうするかって? 今日はこのまま家に戻るさ」


 瞼を閉じたままの付き人へ別れの挨拶を告げる。


「……」 


 銀輝山は裸足で路地裏を歩く。


 夜風が、怪我をした部分に沁みる。肉体が痛みを訴えるたびに、今日の闘いを思い出す。


 過去に憧れた男が、昔のまま自分に立ち向かってきた。

 己を倒すために年月を費やし、血の滲む苦労をした。

 

 それに対抗するため、ワシも己の持てる全ての力を発揮した。いや、限界以上の実力まで出した。


 おそらく自分の生涯のベストバウトは、先程の闘いだろう。


 結果に悔いはない。


 だれど惜しむらくは、誰も観客がいないことだった。


「みんなに、見せてやりたかったな」


 心の底から残念そうに呟いた。


 その銀輝山の独り言に、途中から異物が混じっていた。


「裏切者がぁ」


 後方へ振り返る銀輝山。


 壁の影に隠れていた外国人の男が視界に入ったと同時に、自らの腹に深々と刃が刺さった。


 刃渡りが長い。切っ先が背中まで貫通していた。


 その外国人は、三浦がプルコに来るまでに見た人物のひとりだった。


「嘘吐きのくせに、ずるいんだよ。ひとりだけ、成り上がってんじゃねえよ。オマエと同じオレたちが、こんなにも苦しんでいるっていうのに」

「キエエエエ」


 化鳥の声を張り上げ、銀輝山は外国人の金的を蹴り上げた。


 泡を吹いて倒れる外国人。


 刃が刺さったまま、銀輝山は見下ろす。


「金玉潰してやったぜ。オカマにでもなるしかないなテメエ……悔しかったら、それを勲章にして這い上がってみろ」


 ワシの尊敬する漢(三浦猛)のようにな。


 銀輝山はその場から離れて、表通りへ向かう。

 まだ空いている店を探して、そこから病院に連絡してもらう。

 

 携帯電話はまだなく、屋内に置かれた黒電話しかこの時代にはなかった。


 暗闇でも鈍く光る刃から、血が滴り落ちる。抜いたら出血多量によって死を早めてしまうのは経験で分かっているため、刺さったまま歩く。


「痛くねえ。こんな痛み、さっきのに比べれば虫に刺された程度よ」


 そうは言っても、銀輝山の足は次第に鈍くなっていた。


 やがて力も入らなくなる。


 膝から崩れ落ちる銀輝山。まだ人だかりには遠かった。


 腕の力で這いずろうとするが、指一本すら動かなくなった。


「こんなところで、ワシは死ぬのか」


 嫌だ。

 この世を去るのならば、リングで息絶えたかった。家族が、仲間が、自分のファンが見守ってくれるところがよかった。

 

 銀輝山の想いに反して、その身体は冷たくなっていく。


 こうなるのならば、せめて、さっきの闘いでワシは――


「――銀さん」


 銀輝山の体が浮いた。


 足先だけを地面に残して、表のほうへ移動していく。


 驚き困惑する銀輝山の隣には、三浦がいた。


 三浦が銀輝山を持ち上げて進んでいるのだ。


「ミウラさん。なんでアンタがここに」

「銀さんもあの子たちもあのままだと負傷がひどくなっているかもしれないからと、様子を見に来たら、貴方だけいなくて」

 

 かつての呼び名で、銀輝山を呼ぶ三浦。


 彼は涙を流していた。


「ごめんよ。こんなことになってしまって」

「気にしないでくれ。ワシの油断が悪い」

「かつてのわたしのようにか」

「そ、それは……」

「いいんだよ。実際あの時のわたしが悪かったのだから」


 言い淀む銀輝山。

 その横で、三浦は過去の自分を罰した。


 意識を保たせるために、三浦は積極的に銀輝山と話す。


 不器用な話し方でも、少しでも長く話せるようにした。


「銀さん。銀さん」

「……」


 やがて喋りかけても、銀輝山は反応しなくなった。


 三浦の涙の量が滝のように増えた。

 くしゃくしゃになる顔。

 嗚咽混じりに、三浦は言う。


「なあ銀さん。本当は、わたしは復讐で銀さんと戦いたかったわけじゃないんだ。あなたを憎んじゃないなかった。ただ銀さんに認めてほしくて、あれから修行し直して、今日ここに来たんだ」

「……」

「強い男に、実力を認めてもらいたかった。銀さんに、失望されたままじゃ嫌だった。少しでも見てほしかった」

「……」

「また戦おうよ銀さん。今度はリングで、三本目をやろうよ」

「……ああ……やろう……」


 狭い路地を抜けた先に、提灯の明かりが見えた。


 三浦は銀輝山を引きずって、経営中のその店へ向かった。


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