1.「去年のことは奇跡です。どういうことかと言うと、偶然よりも確立が低い。ぼくがあなたと抱き合うことは二度とない」
名古屋から特急で北上すること三時間、山に囲まれた盆地の田舎町で、おれは生まれ育った。
町の人口は約五万人。とはいえ、面積が東京都とほぼ同じなので人口密度は低い。特急が停まる駅周辺の地域がもっとも栄えており、おれもそこに暮らしている。
駅前から北へ伸びるメインストリートの約二キロメートル先に、町で一番大きな神社がある。
大きな石の鳥居。参道は長く、その途中に東の山の小さな稲荷へ続く石段があった。そのまま進むと、立派な社殿が現れ、境内はテニスコート八面分もありかなり広い。裏からも入れるようになっている。
町の唯一のイベントが、この大きな神社で催される夏まつりだった。
目玉は江戸時代から続く人形の浄瑠璃。上演後の盆踊り大会も人々の楽しみであり、その日は町に大勢の観光客が詰めかけた。
あの八月の日のことを、おれはよく覚えている。
夕方、いつものように職場からスポーツタイプの自転車で二十分走り、ひとりで暮らすアパートの部屋へ戻った。
午後休が取れなかったため、汗にぬれた服を脱ぎすてると、大急ぎでシャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かす。窓辺のハンガーからデニムのパンツをとり、“No Life”と書かれた洗いたての白いTシャツを着る。鏡を覗いてツーブロックのヘアスタイルを適当に整え、再びスニーカーに足を突っ込んで紐を結ぶと、小さなリュックをつかんで部屋をあとにした。
表に出て、また自転車に乗ろうとしたところで初めて風が運んだお囃子に気づいた。
それでもペダルをこいで行ってみる。
あそこへ向かうための近道にしていたはずの大きな神社が、黄昏のなか赤々と薪に照らされているのを見て厄介に感じた。
今日がその日だということを忘れていた。少し迷ったものの自転車から降りてそれを押した。
裏門から境内に入ると、夏まつりの主役である人形浄瑠璃の上演はすでに終わっており、ぼんぼりが灯るなか、集まった大勢の人々が、浴衣の者も、そうでない者も、うちわで扇ぎながら盆踊りの始まりを楽しそうに待っていた。
それを避けると、参道につらなる屋台の呼び声から逃れ、にぎやかな長い道を人の流れに逆らって表へ向かった。
石畳に弾む下駄の音が、突然、耳に響いた。
顔を上げると、誰かと話しながら歩いてきた彼が目に入った。
屈託のない笑顔。
明るい色の柔らかそうなくせ毛は額で分けられて首の後ろで小さく結ばれている。少しだけ頬にかかったところがとても美しくかった。
藍染の浴衣もよく似合っており、見とれた。
彼がおれに気づいた。長く目があったが、そらされて、おれもよそを向いた。
通り過ぎてしばらくしてから足を止め、もう一度見ると彼も振り返っておれを見つめた。
サドルが固定されたように動かせなくなった。
視線をさまよわせたあと、自転車を持ち上げて行列からはずし屋台の裏手の林に押し込んだ。
その日のうちに、おれの部屋で体を重ねた。
二十歳だと聞かされた。
部屋の外の名札は裏返してあり、お互いに名乗らなかった。そのまま、別れた。
思いのほか、引きずった。
落ち葉が舞い、雪が積もっても、人気のない参道に立って彼を探した。桜が散り、青葉がきらめき、ひぐらしが鳴き出すと、望みを託した夏まつりが来た。
にぎわう参道で彼を見つけた。
彼が見つけやすいように、おれは去年と同じ格好でいた。
彼は、髪を結んでおらず、波がプリントされた水色のTシャツに、紺のハーフパンツ、カジュアルな黒い靴を履いて、ひとりで立っていた。
その手をつかんだ。
屋台が並ぶ参道から離れて脇道に入り、山腹にある小さな稲荷へ続く苔むした石段を上った。
もっともっと高いところへ行って、ふたりきりになりたかった。一刻も早くキスをしたかった。
だが、二十五段目で彼は足をとめる。
「去年のことは奇跡です。どういうことかと言うと……。偶然よりも確立が低い。ぼくがあなたと抱き合うことは二度とない。それを伝えに来ました」
長い一年がすぎて再会した彼が発した言葉に、おれはショックを受けた。
だが、ごまかしようのない愛しさが強くこみあげて掴んでいた手を離し、おれより細い体を抱きしめると耳元でささやいた。
「偶然よりも確立が低い奇跡を日常にはできないのか」
彼は目を閉じた。
二度とないはずの夜をふたりで越えた。言葉にならない声をあげて、それぞれの四季をさかのぼった。
二度目の朝を迎える。
知りたいことがたくさんある。
同じシーツで横になり背中から腕を回すと、彼は手を重ねてきた。
たぶん、彼は最初の夜が初めてだったと思う。
そして、二度目の夜が二回目だった気がする。
最初の夜から一年後の夏まつりに来るのは少し勇気が要ったのではないかと考えると、また愛しさがつのった。
二度目の夜からはずっとおれの部屋にいて、どこかへ帰る素振りを見せなかった。おれのシャンプーを使い、おれの服を着た。
おれは仕事帰りにスーパーへ寄ってふたり分の食材を買う。部屋に戻ると、簡単に料理したものをふたりで食べ、チューハイを開けてテレビを見た。
その後で狭いユニットバスにふたりで浸かり、電気をユニットバスから漏れるものだけにしてベッドで体をつなげ、終わるとシャワーをふたりで浴びた。
シーツにくるまり、おれに抱きついて眠る顔を見て考える。
六畳一間のワンルームにユニットバス、そして、シングルベッド。ふたりで暮らすには狭すぎる。
せめて、1DKの部屋を借りて、ベッドをセミダブルにして……。
寝息をたてる顔を見つめる。
いつまで一緒にいられるんだろう。
明日、仕事から帰ったら、いないかもしれない。いや、朝、目覚めたら姿を消しているかもしれない。
約束のない関係。
だから、そばにいるのかもしれない。
また別の夜には、ふたり分のグラブを持って外へ出た。
普段は静かなあの神社を通り抜けるとき、いつも社殿に向かってふたりで手を合わせた。
何を祈っているのか聞けずにいる。
おれはもちろん、ずっと一緒にいられることを願っている。
そのあと、高校のグランドに忍び込んで、街灯に照らされた中でキャッチボールをした。おれがボールを取りそこねると、彼は声をあげて笑った。
翌日、不動産屋に行った。
弟と一緒に住むのだと嘘をついたが、疑われず名前を聞かれることもなかった。
ふたりで暮らす生活を軌道に載せようというのに、相変わらず彼の名前すら聞けずにいた。
ここから引っ越して新しい生活を始めると話すことで彼を失くす恐れもあったが、おれは肌を合わせて眠る関係に賭けた。
彼は新しい部屋を気に入ったようだった。特に窓から見える雄大な衛門岳を喜んだ。
荷物のはいったダンボール箱も開けないまま新しいベッドでふざけてキスをして、はじめて明るい昼間に行為をおこなった。
おれがタチだったが彼が上になった。だいぶ上達したと思う。コンドームをつける手つきも慣れたものになった。
新しい生活になったこともあり、アルバイトをしたいと言い出した。ずっと部屋にいるのも窮屈だろう。
正直、ふたりで暮らすにはおれの給料は低すぎたし、引っ越したことで貯金もかなり減った。
この町で働きたいということは根を下ろしたいということだ。彼もおれとの暮らしを続けたいと思っている。
一方で、部屋から出したくない気持ちもある。男女ともに好かれるルックスをしていたし、他の者に取られるのではと不安にもなった。
履歴書に書いた名前が本名でないことはわかった。
「鈴木一朗」。
住所はおれと住む部屋。住民票もないのに。
おれが同居する“弟”の保証人になると、人手不足のコンビニは、すぐに彼を雇った。
シフトを組まれ、はじめて夜九時から朝六時まで店に入る日が来た。
おれは朝七時に自転車で家を出て職場へ行き、夕方スーパーに寄って夜六時に帰る。
汗臭いまま倒れ込むようにして彼を抱き、彼はカロリーメイトを口に押し込んでシャワーを浴びた。
別々に眠ることになると思うと、少し広くなったバスルームに押し入って、濡れた彼の肩を壁に押しつけて時間ギリギリまで粘った。わざとうなじを吸って跡をつけたが嫌がらなかった。
その夜は眠れず、衛門岳が見えるはずの窓辺に腰を下ろした。壁に背中をつき、片足を伸ばしてぼんやりと朝を迎えた。
彼が戻ってきた。
昨夜のままの服で顔を向けると、驚いた様子でおれが譲ったバッグを床に落とした。
駆けよって膝をつくと、キスをしてきた。
「好き」
と、はじめて言われた。
やがて、恐れていたことが起きた。
おれが仕事から帰ると、あかりが灯っているはずの部屋は暗いままだった。あわてて部屋へ入る。
彼はいなかった。
ーーー
あの人と暮らすのはひと月が限界だとぼくは初めから知っていた。
もっとずっとあの人と暮らしたい。そばにいたい。同じベッドで体を重ねたい。名前すら名乗っていないのに、誰より深く愛されていると信じられる。
一年前のあの夏まつりで、初めて目が合った時に奇跡を感じた。
だから、すぐに部屋へ行った。それをしたのは初めてだったが、抵抗はなかった。
彼女に別れを告げるため、家に戻った。
都会の高級住宅地にある豪邸。防犯カメラがぼくを確認すると、大きな門扉が自動で開いた。玄関まで百メートルある。たどり着くと、執事は大きな扉を開けて待っており、うやうやしくぼくを迎え入れた。
また、薄いカップを叩きつけて割る音がして、ぼくは身をすくめた。全然、変わっていない。
それでも、リビングの扉を開けると、
「どこへ行っていたの!」
と、ヒステリックな幼い声が投げつけられた。
もちろん、本当の事など言えない。
「日本中を旅してた」
ぼくはカップの破片を拾いながら答えた。指先が切れて血が流れた。
年下の彼女は、四十畳はあるリビングで、コの字型に置かれたスウェーデン製の大きなクリーム色のソファから降りて、ぼくに歩み寄る。
「どうして連絡してこなかったの!」
「その方がかえって心配させると思ったから」
彼女は怒りをこらえて大きく息を吐いた。
「もうどこにも行かないと約束して。そうしたら、今度のことは許してあげる」
イラン製の高級絨毯に爪先立って顔を寄せてきた。唇が動く。
「男の人といやらしい関係になっていることも許してあげる」
ぼくは息が浅くなり視線が落ち着かなくなった。
「嘘をついたことも許してあげる」
鎖でできた蜘蛛の巣を張られた気分になった。
「あなたは私から離れられない運命だから。わかっているでしょ」
それから逃れたかった。名前ごと。
「帰ってきたから、私も包丁を持つことにしたわ」
ソファに深く突き刺していた数本の中から一本を引き抜く。
「ねえ、今度あなたがいなくなったら、本当に手を切り落とすつもりでいるの」
脅しだとわかっていても動悸がした。
夜になり、久しぶりに“自分の部屋”で横になった。キングサイズの大きすぎるベッド。眠れずにいる。
夜中になると気配がして、彼女が来た。着ていたガウンを脱ぐと全裸になる。ぼくが背を向けると、ベッドに乗り、年齢の割には大きな乳房を押しつけてきた。
「私とセックスしよう」
手を股間にのばしてくる。思わずはねのけた。
「お前は、ぼくの妹なんだぞ!」
体を起こして声を荒げた。
「そんなこと、もう忘れた」
気が狂いそうになる。
妹は、身を引くと大笑いした。
この家で眠れたことはない。
父親は、もうずっと愛人とマンションに住んでおり、子供までいる。母親は、長くパリに滞在しているが、アルコール依存症の治療を受けている。
そんなくだらない情報だけが届けられて、何度生まれかわっても使い切れない資産に、ぼくと妹は縛りつけられた。
妹はだんだん病んでいき、ぼくひとりにその責任は押しつけられた。
あの人のところへ帰りたい。
普通に愛されて、人並みの生活を送りたい。
だからこそ、ぼくは決着、いや決別のために戻ったのだ。
一週間もすると妹は落ち着いたので、豪華な夕食の後で切り出した。
「ここを出て、ひとりで生きたい」
ナイフとフォークを持つ妹の手が止まる。
「あなたも私を捨てるってこと? まだ十四歳の妹を捨てて、自分だけ幸せに生きられるとでも?」
「十年以上、ひとりで面倒を見てきたんだ。月に一度はここへ来る」
「……。わかった」
妹が目を伏せたので、ぼくはホッとした。
その晩、ぼくは、ひとりで檻に閉じこめられる夢をみた。いくら泣き叫んでも誰にも気づかれず、やがて、泣くことすらあきらめた。
目が覚めた。
ーーー
彼がいなくなったのは九月の下旬だった。
それから、ふたつきが過ぎた。
おれは、ひとりであかりの灯らないあの部屋に戻るのに、まだ慣れなかった。
彼は気まぐれなのかもしれない。
でも、一年は待つつもりでいる。最低は。
「梶山さん、今日はブリが安いよ。脂も載っていて美味いよ」
商店街へ行くと、魚屋の獏は今日も威勢がよかった。
今年、高校を出て、本格的に家業を継いだ。どことなく彼に似ていて、つい足を運ぶことが多くなった。
ある日の夕方、職場から家に戻る途中で自転車がパンクした。おれは舌打ちをして、那美川の渓谷にかかる三百メートルはある赤い鉄橋を、強い風に吹かれながら押して歩いた。
「梶山さん」
聞き慣れた声に顔を向けると、魚屋の屋号のついた軽トラがいったん通り過ぎたところで止まり、獏が身を乗り出しておれを見た。
「パンクしたんですか」
「ああ」
「自転車、後ろに載っけてください。家まで送ります」
獏は車から降りると、自転車を載せるためにトラックの荷台を空けた。
おれはそれに甘えて、自転車を持ち上げて載せた。獏は落ちないように紐で縛りつける。そのまま、助手席に乗せてもらい、アパートまで送ってもらった。
獏は軽トラを停める。
「ありがとう」
降りようとしてドアノブに手をかけた。
獏はハンドルに手を乗せたまま正面を見ている。
「梶山さん、ゲイでしょ」
突然だったので否定できなかった。
「ぼくもです」
彼とは違うさらさらの茶髪が顔の輪郭をおおっている。
獏がこちらを見る。
「部屋に入ってもいいですか」
彼の顔が浮かんだ。
「いや……」
「冗談ですよ、冗談。これから忙しくなる時間帯だし」
獏はとりつくろった。
「でも、誰にも言いません。ゲイは口が堅い」
おれは軽トラから降りる。
「また、寄ってくださいね。ハマチの刺身も美味いですよ」
荷台から自転車を下ろすと、獏は軽トラのクラクションを短く鳴らして走り去った。
おれはひとりで部屋へ入ると、彼が最後に着ていた服に目を落とし、膝をついて抱きしめた。
「逢いたい」
二月は大阪でもかなり寒いのだと紅子さんは言う。
紅子さんは、おれより六歳年上だから、今年で三十歳になる。
大手IT企業で派遣社員としてフルタイムの勤務をしている。
都会的な雰囲気を持ったきれいな女性だと会うたびに思う。
顔の輪郭は丸く、鼻筋が通っており、口角の上がった唇は、それだけでも色っぽいのにリップで濡れている。
何より、意志の強そうな大きな二重の瞳が印象的だ。
“つけまつげはファデーションよりも大事”らしい。
カラーリングされたつややかな髪は肩から胸にかけてアイロンで丁寧に巻かれており、ネイルも見るたびに異なる色とデザインで輝いていた。
寒さが大の苦手だとぼやきつつも、“赤いピンヒールは自分自身”と語り、いつも素足にそれを履いていた。
とはいえ、手袋もマフラーもセーターもコートも、こちらへ来るときはすべてカシミア入りなのだと言う。
今年もLINEすると、
「そっちはすごく寒いし遠いし、かなり面倒」
と、素直な気持ちがかえってきた。
わかる気もする。おれが逆の立場でもそう思っただろう。
「どっちでもいいですよ。すませたら写真を送ります」
と、返事をすると、
「仕方がないから行く」
と、後ろ向きなスタンプが、答えとともにかえってきた。
紅子さんがこちらへ来るルートはこうだ。
まずは、環状線に二十分乗って“大阪”で乗り換え、“新大阪”へ行く。そこから、東へ向かう新幹線で一時間、“名古屋”に着く。“名古屋”から北へ向かう特急で三時間、ようやく、おれが住む山間の田舎町にたどり着く。
ここまで五時間ちかくかかることから、毎年、ホテルを予約して一泊している。
こちらの冬は雪におおわれており、一晩で一メートル積もることも珍しくない。
紅子さんは面倒くさいというネガティブな気持ちと、寒さから少しでも逃れたいという思いから、名古屋から先は缶ビールを供にしているらしい。
いつも350mlを二本空けるが、酒に強い体質で、この程度で酔うことはないと言う。
毎年、同じ日の午後二時に到着するので、今年も駅へ迎えに行った。
「梶山くん」
改札を出る前に、大きく手を振られた。
「紅子さん」
改札を出たところで駆けよって荷物を持つ。
「悪いね」
「紅子さんこそ。こちらは寒いでしょ。昨日、また一日、雪が降って、たいぶ積もった。でも、今日は晴れてよかったです。晴れたら晴れたで、放射冷却で寒いんですが」
「慣れたよ。寒いところに来る格好に。あはは」
背中をどつかれた。
おれは駅前のロータリーに停めたプリウスのトランクを開け、紅子さんの小さなスーツケースを横にして入れるとまた閉めた。
助手席に回ってドアを開けると紅子さんが乗り込む。自分は運転席についた。
「今日は車なんだね」
「知り合いに借りました。一時間に一本しかない町のバスで、あそこへ行って帰るのは大変ですよね」
「今頃、気づいたんだ。あははは。私も今年で三十だから、若くはないし」
「なに言ってんですか」
エンジンをかけた。
スタッドレスタイヤが凍った道を走り出した。
「どう? 元気?」
「変わりないですよ。紅子さんは?」
「元気、元気。相変らず彼氏もいないし」
おれは反応して、一瞬、悲しくなった。運転に集中する。
田舎なので、駅から商店街を通る片側一車線の道でも車通りは少ない。
花屋の前で車を停めた。ファザードをつける。
「頼んでおいた花束を取ってきます。あと、隣の酒屋でカップの日本酒と。紅子さんは待っていてください」
車を降りた。
その後、雪が寄せられた国道を山へ向かって二十分走り、現場に到着して近くへ車を停めると、紅子さんはドアを開けてハイヒールで雪を踏もうとする。
「待った。待ってください」
おれはあわてて外に出て、紅子さんの後ろの座席下から灰色の長靴を取りだして並べた。
「これに履き替えてください」
「ダッサい」
「でも紅子さん、去年もピンヒールで来て、雪で滑って転んで足首を捻挫したじゃないですか」
「はぁ。仕方がないな」
紅子さんはピンヒールを投げるように脱いでビニール製の重い長靴に履き替えた。
「寒っ!」
あらためて、零下十度の山間の町のさらに山に入ったカーブを吹き抜ける風に身をすくめた。
おれは車から花束をふたつ取り出し、ひとつを紅子さんに渡すと、そこの前に立った。
夏まつりの日と重なっても、欠かさず月命日は慰霊にきている。
あの日も本当はここに来るつもりでいた。だが、奇跡がそれを邪魔した。浮かんだ彼の面影を今は振り払う。
「紅子さん」
呼んでふたりで現場にしゃがんだ。おれは今朝、雪を取り除くなどして、あらかじめきれいに現場を整えておいた。
花をささげ、カップ酒も置いた。
紅子さんは手袋をとり、かじかむ手でサマンサタバサのバッグから線香の束を取り出す。おれがマッチを渡すと火をつけ、手であおいで線香受けにいれた。
ふたりで長く手をあわせた。
三年前の今日、紅子さんの両親が乗った車とおれの姉夫婦が乗ったものとが正面衝突して、四人とも死んだ。当時は、猛吹雪だったため視界が悪く、お互いに道を見失っており、双方に過失はないとされた。
冥福を祈ったあとで、ふたりとも立ち上がる。
「寒っ! もっと季節のいいときに死んでくれたらよかったのに」
ぼやく紅子さんに、不謹慎と思いつつおれも笑った。
冬の空はもう闇が忍んでいる。
「紅子さん、夕食にはちょっと早いんですけど、行きませんか? 何が食べたいですか?」
「肉!」
夕食を終えると、紅子さんはおれをバーに誘った。
おれも飲めないほうではない。
地元のビールにワイン、日本酒とすすんでいった。
「梶山くんさぁ。なんで、こんな田舎にいるの。いや、田舎って言っちゃ悪いんだけど」
「いいですよ。実際、田舎だし。夏まつり以外はこれといったイベントもないし」
夏まつりと口に出すだけで胸が苦しくなる。おれは日本酒をグラスであおいだ。
「せっかく名古屋の理系の四大を出てレントゲン技師の資格も持っているのに。家業でもない工場で木材を切っているなんて」
「そういう産業の土地なので」
紅子さんは飲み干したグラスを強く置く。
「梶山くん、大阪に来なよ。資格を活かせる仕事があるから。私がツテをあたるよ。割と顔は効くつもり。どう?」
「いきなり言われても」
おれは弱った。
それに、今はここを離れられない事情がある。
「うん。そうだね。こんな席で急に言って悪かった」
紅子さんは、またおれの背中をポンポンとたたいた。
おれはグラスにつがれた日本酒の透明な世界を見つめた。
昨夜は遅くまで飲んで、紅子さんとは今年もそこで分かれた。
車はバーの駐車場に置かせてもらい、歩いて部屋に帰った。朝取りに行って、そのまま出勤し、帰宅して夕飯を食べたあと、獏のところへ返しに行った。
獏の家はただの魚屋ではなく、町内で旅館やレストランを経営している。
魚屋の息子とはいえ、都会に住む紅子が恥ずかしがらない程度の車を持っており、時間の融通も効いた。
「これから三ッ滝の凍ったのを見に行きませんか? 今、ライトアップされてる時期ですよ」
車を借りたこともあり、なんとなく断れなかった。
獏が運転して滝の入口まで行き、そこの駐車場に停める。他にも二台停まっている。
考えないようにしているが、地元のデートスポットだ。
「今日、またいちだんと寒いっすね」
車から出ると、獏はフェイクファーが内側をおおった短いダウンコートの襟を立てて、マフラーで鼻から下を覆う。被ったニットのキャップには耳あてがついている。運転時にはしていなかった分厚い手袋をはめた。
「梶山さん、急に誘ったんで、その格好、寒かったですよね。ダウン、もう一着ありますよ」
「大丈夫。いつもこの格好で自転車に乗って職場へ行ってるから」
自転車をこぐと体が熱くなるから薄めの格好をしているのだが、黙っていた。
滝は、山に入る歩道を二十分ほど歩いた先にある。
足元を照らす、か弱いライトはあったが、土の道や木の階段はカチンコチンに凍っており、そういう道で遊んで育ったからこそ慎重に歩いた。途中で戻ってきたカップルとすれ違った。
滝に着いた。
見やすいように、十二畳ほどの広さが丸太で整えられており、滝に向かって転落防止の木の手すりがついている。
その十メートルほど先で、三ッ滝の名の通り、川から三段階に水が落ちたものが凍ってつららを幾重にも固まらせつつ、なお流れを保ち、ライトに照らされて幻想的な光景を見せていた。
先にいた親子連れは、写真を撮り終えると去っていった。おれと獏だけになる。
おれは何度も見たことあるはずの滝の白い輝きに見とれて、薄い手袋で手すりをつかんだ。
彼が見たらなんと言うだろう。
何度見ても、きっと初めて見た時のように感動するはずだ。
逢いたい思いがつのった。
「梶山さん」
獏が背後から声をかけてきた。
「ぼく、本当に遊び相手でいいんです」
おれは聞こえないふりをする。
車に戻った。
寄ろうと思えばそういうホテルもあるが、獏は通り過ぎた。
家まで送られた。
獏は降りない。
「今夜はつきあわせて悪かったです。また、魚、買いに来てください」
そのまま、走り去った。
おれは目を閉じる。
彼は今年も夏まつりに来るはずだ。それを信じるしかない。
あと、七ヶ月、待つしかない。
四月の半ば、紅子さんはもっといい季節に来たいと言っていたとおり、おれの休日に合わせて女友達とふたりで、この田舎へ遊びに来た。マイナーな温泉宿に泊まり、遅い桜を見るらしい。
女友達は歴女と言うのか、山に登って地元にいるおれさえ知らなかった古い城址に興奮して写真を撮りまくっていた。
「梶山くん、付き合ってる人いるの?」
都会の女はあけすけだ。
おれはまた悲しくなったが、軽く答えた。
「いないですよ」
「紅子、付き合っちゃいなよ」
「ごめん、私、年下はターゲットじゃないから」
「もったいないな」
「あはははは」
紅子さんが笑ったので、おれも笑っておいた。
時間がたつほど想いがつのる。自分の性質が負担に思えた。
紅子さんたちは、山に雑草のごとくはえる山菜に驚き、
「お金を踏んでいる」
と、騒いだ。
そのうち、ちぎって集めだしたので、おれは知り合いのそば屋へ連れていって、それを天ぷらや和え物、山菜そばにしてもらった。
紅子さんの連れてきた女は過剰に喜んだ。
「私、梶山さんと付き合っちゃおうかな」
聞き流してよそを見た。紅子さんに見られていたことは気がつかなかった。
そうやって一泊二日、運転手と観光案内役を黙々とこなした。
借りた車は、あとで獏に返しに行く。
駅のロータリーで車を停めると、紅子さんの女友達は、紅子さんをおいて後部座席のドアを開け、
「トイレ」
と、言って走っていった。
おれは車から降りてトランクを開けると、紅子さんとその友達の分まで小さなスーツケースを出して下ろした。
「梶山くん」
紅子さんが出てきておれを見た。
「息がつまっているんでしょ」
「なに言ってるんですか。一泊二日ぐらい、いつでも付き合います」
「そうじゃなくて」
紅子さんは深いため息をつく。
「今度、大阪に来なよ。変な言い方だけど、都会へ息抜きに来てごらん」
「転職する気はないです」
「そういうんじゃなくて。一度、なにも考えずに頭を空っぽにした方がいいってこと。なんか、心配なんだよね。あんたのお姉さんも、生きてたら気づいたと思う。あんたがなにかに苦しんでいること」
向けられた瞳が少しうるんでいた。
おれは目をそらした。
「気のせいですよ」
トランクを勢いよく閉めた。
午後、車を返しに獏のところへ行った。
獏はまたおれをドライブに誘った。
山の向こうに、町からはのぞめない大きな桜の古木がある。
山道の端に車を停めて、山を三十分登った。
「食べますか? コンビニのおにぎりだけど」
獏と並んで、散り始めた桜の花びらを浴びながら木の下でそれを食べた。
なにも話さなかった。
帰り道、あの三ッ滝へ続く小道を通過した。
昼間なのに、ピンクのネオンがついて、入り口に黄色の回転ランプが光っている建物が見えた。
「あそこに入ろう」
獏の車が走り去り、おれは部屋へ戻った。
扉がバタンと閉まると、膝をついて手をついた。
去年は、一年待てたのに。今年は、一年待てない。
夏まつりまで、あと四ヶ月。
それが四年に思えた。
ゴールデンウィークはずっと仕事だったため、明けてから大阪へ行った。
紅子さんは仕事が忙しくて会えないという。その方が気が楽だった。
学生だった四、五年前に一度来たことがあるが、“大阪”に着くと、どこが何になったのか分からないほど様変わりしていた。
以前、食べて美味かった茶屋町のラーメン屋はあったので、そこで塩ラーメンを食べた。
そのあとは、することが特にない。
水上バスに乗ることも考えたが、結局、大きな本屋にカフェが併設されているのが珍しくて、そこで好みの本を探して読みふけっていた。
夜はミナミの安いホテルに泊まる。地下鉄ではなく、環状線に乗った。
電車が“森ノ宮”に停まった。
隣の線路に、逆周りの電車が入った。
すれ違うようにして、こちらが動き出す。何となく向こうの窓を見た。
おれは手にしたものも膝においていたもの構わずに、立ち上がった。
電車が加速する。
逆に向かって、おれは走る。
両手で窓を叩いた。何度も叩きながら、車両の後部へ走った。
向こうの窓の彼が、こちらを向いた。
あっ、という顔をした。
彼は立ち上がり窓に手をついたが、スピードをあげた電車が、みるみる彼を遠ざけた。
おれは落としたものをかき集め、次の駅で降りると、向かいのホームへ駆けていき、逆向きに走る電車を待った。
やってきた電車に乗った。
もし彼が気づいて降りているのなら、“大阪城公園”だろう。
戻ってみたが、見当たらない。おれを追ったのかもしれない。
もう一度、“森ノ宮”に戻る。“玉造”へ行く。“京橋”に戻る。“大阪”まで戻る。
おれは終電がなくなるまで、環状線の駅という駅をさまよい続けた。
<続く>
※※※※※
「続き」も是非、ご覧下さい!
(段落やアングルや描写など、全般的に勉強中です。読みづらいとは思いますがストーリーを楽しんでいただければ幸いです)。