第4話 日常の一幕
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赤子一人のための部屋としては少々広く感じる一室、そこにあるベビーベッドの中で私は一日を過ごしている。
意識を取り戻してよりおよそ60日が経過していた。赤子故の柔軟な脳みそと、大人としての思考能力が合わさったからなのか、言語はすぐに理解できるようになっていた。
無論、いまだ完全に理解できたというわけではないが、それでも話されている内容の要旨は把握できている。
私の今世での名前はスカーレットと言うらしい。母の名前はエレン。エレン・ヴァルムフォード。今世での父はルークス・ヴァルムフォード。
仕事が忙しいのか、この世界の慣習からか、父の姿はいまだ見てはいない。
母は授乳のために日に何度か顔を見せに来てくれるのだが、つきっきりというわけでもない。
私の基本的なお世話をしてくれるのは、メイド服を着用した使用人達であった。
使用人を多数擁しているという事は、この家はかなり裕福なのだろうか。ひょっとしたら貴族の家とか? 貴族制なのかは知らないけど。
まあいずれにせよ、多くの使用人によって私の世話はなされている。
そして、その中でも私を主に見ているのは三人のメイドである。三人ともが猫や兎のような獣の耳を持っていて、はじめは非常に驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。
基本的に、常に三人のうちの誰かが私の側にいてくれていた。
もちろん他にも色んなメイドさんや執事さんみたいな使用人達がたくさん来てくれている。ただ、その中でも三人の獣耳メイドさん達は頻度が多いのですっかり覚えてしまった。
で、その三人のメイドのうちの一人は、はじめて意識を取り戻したときに目の前にいた、件の猫耳の少女であった。
あの猫の耳のメイド、名はアリスというらしい。
そして彼女は現在、私の部屋の掃除をしている。
アリスはカーテンをひらき、窓を開けた。柔らかい風が部屋に入ってくる。
服の隙間から涼し気な風が入ってきて、気持ちがいい。「んむゃ」と小さく身をよじらせた。
アリスはホウキで床を掃いたり、布巾で窓を拭いたりと、せっせと働いていた。しかしそうしながらも、アリスは私の様子に常に目を配っていることを忘れない。
私は働いている少女を邪魔する気もなく、彼女の働く様子を黙って見守っていた。
静かな時間が進む。涼やかな空気の中、窓から入る風が時折肌を撫でていた。
この時間は、暇ではあったが退屈ではなかった。
アリスをはじめとしたメイド達は、見た目もよく、また仕事ぶり熱心なので、じっと見ているだけで時間がつぶせる。
それにこの時間は、身体的な発達の練習をするいい機会でもあった。
数十分ほどたって、アリスの仕事がひと段落したのか、彼女は清掃用具を片付けた。そして私の横たわるベビーベッドの方へ、とととっと近寄ってくる。
彼女がベッドに寝ている私の事を観察しようとしてかベッドに身を乗り出した。そうやって私を見下ろす姿勢をつくる。
彼女の大きな瞳の中に、私の姿が映るのが見えた。まだ赤子の内だが、美しく可憐に成長するである事が容易に予測される自分の姿。自分で言うのもあれだが、将来が楽しみである。
「華やかな社交界を私の美貌で席巻してやるんだから!」とか、そんな台詞を口の裏で呟いてみる。舌が未発達だから声に出せないけど。
私は彼女にむけて手を伸ばした。彼女の気をいっそう引こうと、甘えた声をだす。
「あぎゅぅ……あやぁ」
「スカーレット様、どうされたのですかー?」
アリスはあやすような調子で私にこたえた。指で優しく私の頬を撫でたり、髪を触ってみたりする。赤子と接することになんら苦を感じていないようであった。
もっとも、だからこそ私も精一杯アリスに甘えられるのだが。
私は顔いっぱいに笑顔を浮かべて、手をばたばたと動かしてみた。
「あぅ。うみゃあ。ばぶぅ」
「もう。スカーレット様は甘えん坊ですねえ」
アリスは苦笑して、しかし嬉しそうな声色を出す。猫耳も嬉しそうにピョコピョコと動いていた。わかりやすい。
上半身をベッドにずいっと近づけて私の背中と首元に腕を回す。そして私の体をそっと抱き上げた。
彼女はベッドの横にある椅子に静かに腰を下ろすと、私の頭を優しくなではじめる。
「きゃう!」
「よしよし。もうすぐお母さまが来ますからね」
「だあ!」
そこに羞恥はもはや有り得いだろう。だって私は赤子なのだから。
赤子の仕事は甘える事だしね。
メイドさんからの愛もふわふわとした暖かなもので、心に染みわたるのだ。
ああ。いいなあ。幸せだ。無限に構ってほしいなあ。
人に甘えるってこんなにも幸福な気分になるんだと、改めてかみしめる。やさしさで包まれた美しい世界。
闘争と勝利、成果を積みかさねていただけの前世とは真逆の方向の今世。
でも、私が魂の根底に求めていたものはこれなのだ。
「あぶぎゃあ!」
私は喜びの声をあげて、アリスの体を、自身の小さな手でぎゅうっと抱きしめた。
春のような穏やかな気温。陽の光でつつまれた私の部屋。平和そのもの、優しい時間が過ぎていく。
私はアリスの腕の中で、慈愛と言う名のぬくもりを味わう。
彼女も赤子に懐かれてうれしいのか、私を腕の中で抱きながら、かすかな微笑みをつねにたたえて、私の背中をあやすようにぽんぽんと叩いたり、そっと頭をなでたりしている。
童謡のような歌も歌ってくれたり、民間伝承のような昔話も話してくれた。
そうやって、二人ののどかな時間が、こくこくと過ぎていく。
やがてギギギと扉が開く音がする。顔をそちらにむけると、母の姿があった。アリスはすぐに立ち上がって、母に頭を下げる。
「エレン様」
「あら、いいわよ。楽にして」
母はアリスに頭をあげるように言ってから、少し上半身をかがめて、アリスの手の中にいる私と目を合わせた。
「きゃう!」
「よしよし」
彼女は私の頭を一度撫でると、上半身を起き上がらせて再び視線をアリスの方に向ける。
「スカーのお世話は大変かしら?」
「いえ。スカーレット様はとっても良い子なので、全然手がかかりません」
「でもこの子、すごく甘えん坊さんでしょう」
「ふふ。そうですね。でも、懐いてくださるのはうれしいですし、甘えてくるスカーレット様はとても愛らしいです」
母はアリスと軽く談笑していたが、やがてアリスの手から私をそっと受け取る。
「スカー。いい子にしてたかな?」
母は私ににっこりと笑いかける。母の端正の顔だちが、笑顔によっていっそう際立った。
「あゃあ! やう!」
「ふふ。かわいいわ。とってもね」
彼女のうれしそうな声色は、心の底から出されている本心の声であることがすぐ分かった。母の心に当てられて、何だか私の方までいっそう嬉しくなって、心がふわふわした。
母は私の体を、ぎゅっと軽い力をいれて抱いた。私は母というぬくもりを感じていっそう多幸感をおぼえる。
全身が火照ったように熱くなり、のぼせたような気分になる。
アリスは私と母の様子を、ほほえましく眺めていた。
「スカー。ママですよ」
母はおどけたような声を出した。
私はふと考えた。
そろそろ生後にして既に半年ほどがたっていたはずだ。赤子の正確な発達速度など知らないが、おそらくそろそろいい頃合いに思われる。
母を驚かせようという悪戯心めいたものが浮かんだ。
「わぁーぁ! わぁわぁ! まーま!」
「「!!」」
アリスと母はびっくりしたように目を見開くと即座に互いの顔をみた。そして一瞬の沈黙の後、はじけたように話し出す。
「ねえ、アリス!聞いたかしら。今ママって言ったわよね⁉」
「はい! 私の耳にもしかと聞きました!」
「スカー、もう一度。もう一度聞きたいわ。ママって」
彼女達はたった二文字の音声に、まるで史上の喜びを見出しているような、そんな様子だった。
私は母とアリスのどぎまぎした顔を見て、もう一度繰り返す。
「まぁま。まぁま。まぁま!」
「きゃーなんてかわいいのかしら! それに凄く賢いわ! うちの子はきっと天才ね!」
「さすがスカーレット様です!」
ちょっろ。ちょろいなあ。
ま、私も幸せだし別にいっか。
こうやって、穏やかな日々は過ぎていく。いっさいの波もなく、せせらぎのような日常。
とても心地よく、幸せで満たされていた。




