第3話 「人」と言う字の、支えられる方になりたい人生。
そして同時にもう一つの事実に気づいた。俺は女性であった。女性に転生した。視界の端に映る自分の体を見て、そし自身の体をよじらせたとき、それに気づいた。
女の子か。…………女の子かぁ。
死の記憶は脳裏にこびりついている。前世に心残りは多分に残っているし、帰れるものならば帰りたい。引継ぎがほとんどなされていない仕事。息子に先立たれる父の思い。悔いはたくさんある。
しかし、帰ることはもはやかなわないだろう。死が一つの事実としてあり、そのうえでこうして生まれ変わったのだ。前世に思いをはせることは許されても、それ以上はない。
だから、死と言う事実。そして転生したという事実は受け入れる。受け入れよう。
だが、転生先が女性という事実。果たしてこれは受け入れていい事なのかどうなのか。
――いや、だか、悩んでも仕方ないか。
諦めて女性としての人生を謳歌するしかないのだろう。
いろいろと言いたいことはあるが、しかしそれを言ってもどうしようもない。なってしまったものに文句をつけたところで変わらないのだから。
女性。女の子。少女。
ふと、父の言葉を思い出した。
男は弱音をはかないものだとよく父は言っていた。男は誰にも甘えず強く生きるのだ、とも。
この約束は俺の前世における人生の支柱であった。父のそういう所を俺は尊敬していた。そんな父に報いるために精一杯生きていた。
だから、たとえ性別が変化したところで父の言葉は容易に取り払えるものではない。たとえ女性に生まれたとしても、俺の信念は変わらない。
俺は今世においても誰にも頼らず、甘えない。甘えて生きることなど決してしない。したくなどない。
俺は、強く気高い女性になろうと決意した。
転生の事実を受け入れたところで、そして性別の変化を受け入れたところで、思考は更に加速する。
視界がある程度はっきりとしていて、目が動かせるのだから生まれてからそれなりの期間は立っているのだろう。専門家ではないので生後何か月であるのかは分からないが、三か月ほどはたっているのではないだろうか。
おそらく人としての意識をもてるのがこの段階なのだろう。生後ゼロか月の段階では人は人としての知性を持っていない。だからこの年齢なのではなかろうか。
全部露出がなされたときに人となるというのは誤りで、脳科学的にはひとがはっきりと意識を芽生えるのがこの段階なのだろう。いずれにせよ、子宮内で意識が芽生えるよりはましなはずだ。
それでも赤子と言うのはなぁ。
赤ちゃんに産まれてしまった以上、問題は沢山ある。排泄だって、食事だって、着替えだって、様々な事が一人ではできない。
結局、しばらくの間は誰かの手を借りなければ生きてはいけない。
まあ、そこは割り切るしかないのだろうけど。
けれど赤子としてお世話をされるのは、やはり恥ずかしい。羞恥プレイにも程があるだろう。精神が持たない気がする。
耐えるしかないのだろうけど、数年は悶々として生きることになるだろうなぁ。
色々と考えている裏で、目の前の二人の女性が声を上げ始めた。
「gdysfaigdoshhsogwoh!」
「fuaigfuiafgewuigaf」
若い女性が、少女に向かって何かを主張する。少女は首を振り何かを諦めたような素振りを見せる。
そして女性に一言二言注意するような声色で何かを告げ、俺の体を女性に慎重に手渡した。
若い金髪の女性。この女性に触れた瞬間、身体がびくんと跳ねあがったように感じる。不自然な程心臓がドキドキする。
それは、いままで味わったことのないような感覚。決して不快なものでは無い。ただただ未知で奇妙な感情が心を満たしていく。
これは、なんだろうか。俺は、こんな気持ちになったこと今までない。
この感情の名前は、一体なんなのだ。
「aah」
女性が感嘆の声を出すと、顔を下げて、俺の姿をまじまじと見つめた。
そしてその顔に、ゆっくりと柔らかい微笑みを浮かべはじめる。
幸せをかみしめるような、赤子を慈しむような。無償の愛を感じた。この世界で最も美しい精神の尊さを、その瞳のなかにみたような錯覚を覚える。
俺は、彼女の瞳をじっと見た。
――すると一瞬で、魂が、悟性を超えた直感が、それに悟った。
この人が、俺の母親なんだ、と。
母に抱きかかえられてから、胸の鼓動が著しく激しさをましていた。体中がかーっと熱くなっている。
前世では母は物心がついたときよりいなかった。はじめて実感する「母」という存在にあてられ、頭がなんだかおかしくなっていた。
母が胸元をはだけさせる。そうやって片方の胸を露にすると、そっと腕を傾け、乳房を俺の方へ差し出した。
母のこの行動が授乳であるとすぐにわかった。胸元をはだけさせた彼女に、しかし男性としての性的観念は一切芽生えなかった。
女性に転生したためか。無論それもあるだろう。
だが、違う。
母。母と言う存在を、俺は知らない。知らなかった。だが、今知った。
母親と言うぬくもりを。あたたくて、穏やかな、そして包まれるような深い深い愛情を。
それは、かつて父から受けたような武骨なものとは真逆のベクトルの愛だった。
俺は、母の乳房に吸い付いた。肌と肌が直接密着して、母の体温がいっそう伝わってくる。それは愛という名の温度だった。
優しかった。とにかくすべてが優しかった。ぐるぐるとまわっていた思考が、一つの指向性をもって収斂し始める。
誰にも、甘えることのなかった俺が
誰にも、頼ることもなかった俺が
はじめて全身にうけた、溢れんばかりの慈愛。
俺の心に満たされている感情、ようやくわかった。これは喜びだ。こんな単純な喜びを、俺は今までの人生で味わった事がなかったのか――。
もっと、もっと甘えたい。お母さんに、皆に、たくさん構って貰いたい。そんな衝動が駆け巡る。
最早抗う気すら起きなかった。
俺は母の衣服を小さな手で掴んだ。そしてぎゅうっと握りこむ。
ぷつんと、頭の中で何かがはじけた。
「あぎゃあうううううう!」
恥ずかしさなんてあるわけない。だってこんなに甘えさせてくれるのだから。
どうして満ち足りた前世の人生の中で、それでも満ち足りないように感じていたか、死んでようやく理解できた。
課長の言葉が思い出される。
そうだ、そうだ。本当は。
俺も、誰かを頼りたかったんだ。甘えて、生きたかったんだ。
脳がとろけるような快感。体中を貫くような恍惚。誰かに甘えるのって、こんなにしあわせなきぶんになるんだと思った。
「afdisog」
俺の声に反応したのかお母さんも嬉しそうに笑う。
お母さん。それはなんてやさしくてあたたかな存在だろう。
ああ。これが、これが愛。
うわあ、やっばい。心臓がすごくバクバクしてる。
純粋な庇護の愛に多幸感を覚えていると、脳内で父が首をもたげてきた。彼は咎めるような顔をしている。
「お前、人に甘えるような生き方しないんじゃなかったのか」
父がそういって馬鹿にするように笑った。
グウの音も出ない正論だった。
先程あんな決意をしたため、少々気まずい気分になる。
………………………知るか! 知ったことか!俺は、いや、“私“は、女の子だ!
決めた。捨てるぞ、今までの観念を。
だって私は私だ。私の中の記憶の彼は死んだんだ! だから、あいあむ別人。
これからの人生で、精一杯甘えつくしてやる。せっかく女性として生まれたんだ。前世みたいに肩ひじ張って生きるのはやめだ。
こんな快感をしって、今更前みたいに生きれるか!
「だあ!」
決意を新たにすると、前世の父が肩をすくめて笑った。「まあ、がんばれよ」と呟いてから、そして脳内で霧散する。
私は、さようならと、心の中で呟いた。




