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第1話 「人」と言う字は、大地を踏みしめる一人の人間の姿を表した象形文字である

 満ち足りない。何かが満ち足りないと、電車で揺られながら考えていた。

 それはここのところ、頻繁に頭に浮かぶ想念だった。何かが人生で不足しているような、ぽっかりと大穴が空いているような、変な気分だ。

 この心に巣食う漠然とした不満感の正体は、なんなのだろうか


 仕事はうまくいっている。順調に出世コースをたどている自覚がある。

 人間関係だってそうだ。学生時代に彼女と別れて以来、女性関係はそれきりだが、学生時代の友人や社内との知人との人間関係はすこぶる良好。

 肉体も極めて健康。ジムで絞った体は、いっさいの不調を覚えない快調なもの。


 仕事、人間関係、精神、肉体ともにきわめて完璧。だのに最近、こころに巣食うもやもやとした不満感が異常に増大していた。


 しかし、考えていても仕方ない。俺は電車から降りるとすぐに、そのもやもやを頭から追い払った。



 駅よりおよそ徒歩五分の道のりで会社には到着する。背広のポケットから財布を取り、中の社員証を抜いた。入口のオフィスで出勤の打刻をすると、エレベータで三階にのぼり、自身の配属されている部署まで速やかに移動した。


 まだ部署のメンバーはだれも来ていないようである。腕時計をちらりと見ると、二つの針は八時六分を指していた。十分もたてば、人も来るだろう。


 俺は自身のデスクへすみやかに移動し、ノートパソコンを起動した。メールを確認する。そして返信が必要なものへの対応をまずはじめにおこなった。次いで本日のスケジュールを改めて確認する。


 十時より会議。十四時よりプロジェクトについて関係者との打ち合わせ。十六時半より医薬品事業部の担当者と面会。あがってくる情報の精査。次回会議資料の作成……。


  予定の確認を終えると会議用の資料を取り出す。会議に備えて資料を再び見直す必要があった。

ぱらり、ぱらり。自身のページをめくる音だけが室内に響く。この朝の静けさを、俺は堪らなく愛していた。


だが、やがて入社してくる人の足音を、耳がとらえはじめる。それを気にかける事なく、俺はついで閉じたノートパソコンを再び開く。そして作業に取り掛かろうと思った。



「工藤先輩、おはようございます」


 そんな時、ふと頭の後ろで声がした。俺は椅子をまわし振り返った。俺に声をかけた人物の正体が目に入る。


「ああ山田か。おはよう」


 山田は俺の直属の部下であった。よく言えば真面目、悪く言えば愚直な性格をしており、少々融通がきかないところが難点であるが、その欠点を除けば非常に有能で使い勝手のいい部下である。


 現在進行中のプロジェクトは彼女を中心に進めておるが、それもつつがなく進行しており、部署内の新しいエースとしての活躍も期待できる、素直にそう賞賛できる後輩であると感じていた。


 山田は俺にコーヒーの入ったマグカップを一つ差し出した。 俺は「ありがとう」とお礼を述べてそれを受け取るとパソコンに再び目を落とす。

山田が隣の座席に座るのを耳と視界の端でとらえた。彼女は椅子をまわし、身体を俺の方に向けていた。


「先輩、聞きましたよ。本部に異動ですって?」


 山田が声を弾ませて尋ねる。目は子供のように爛々としていた。まるで自分の事のように喜んでいる山田の様子が非常に可笑しく、つい苦笑が漏れる。


「ああ。どこで聞いたんだ?」

「そこらで噂になってますよ! 完全に出世コースですね! おめでとうございます!」

「そいつはどうも」


山田の言葉にぞんざいに返すと、彼女は首を傾げて再び尋ねてくる。


「あれ? あんまりうれしくないんですか?」

「そんなことはない。仕事が上から評価されてるってのはとても誇らしいさ。次への励みになる」

俺は自身の思ってることをそのまま、表情も動かさずに告げた。


「はぁ~。相変わらずですねえ」


 俺の言葉をうけ山田はどこかおかしそうに笑う。彼女は右手でコーヒーの入ったマグカップを弄んでいた。


「相変わらずって何だよ」

「工藤先輩って毎回そうじゃないですか。いいことがあっても全然うれしそうな顔しない。もっと喜べばいいのに」


 山田はやれやれと言わんばかりに首を振った。


「余計なお世話だ……それよりお前、雑談なんてしている余裕あるのか? 今日の会議のプレゼン、準備は万端なのか?」

「ああ! そうです。いまのうちに見直しとかないと!」


 そう指摘すると、彼女は慌てだした。急いでデスクに向き直り、ノートパソコンを開く。


 マグカップのコーヒーを、軽く飲んでから、俺はため息を吐いた。




 そして行われた会議。それは一切の問題なく、つつがなく進行した。

 メンバー内での情報共有を行い、本プロジェクトにおける進捗の確認。データを精査し、様々な議論を経て、あらためてプロジェクトの続行の決定と今後の指針の明確化を行う。

 議論の要旨、要点をまとめて俺は議事録をとっていた。

 一時間三十分を経て、会議は終了する。


「先輩! 今回の件、手伝ってもらってありがとうございました」

「なんだよ急に」


「今回の企画がここまで来られたのは、先輩や課長をはじめとした沢山の方々が手伝ってくださったからこそだと思うので、あらためてお礼したくて」


 山田は殊勝な声を出し、腰を直角に折って丁寧にお辞儀する。そして顔をあげると、その表情には、企画を通して得られた、仕事への確かな手ごたえと達成感という、強い充足にあふれていた。


 俺は、成長した後輩の様子にどこか気分が良くなり、思わずふっと笑みがこぼれる。しかし素直にお礼を受け取るのも気恥ずかしい気がして、茶化して答える。


「はあん。いい心がけだな。課長と俺は特にいろいろ見てやったしな」

「……それ、自分で言う事じゃないっすよ」


 山田は嘆息し、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。


「ま、今回はお前の頑張りだよ。俺が異動してもそのまま頑張れよ」

「あ」

「どうした?変な声出して」

「いや、先輩いなくなっちゃうんだなって思いまして」


 山田はどこか悲しそうな声をだす。俺が抜けた後の仕事についての不安であろうか。しかし俺は直属の先輩として、彼女はもはや一人前であると判断している。


 俺は叱咤と激励のための声をかけた。


「まあ引継ぎとかあるから本部へいくのはまだ数か月後とかだけど……俺が抜けた後の穴はお前が埋めろよ山田。期待してる」


 俺はそう言って山田ににやりと笑いかける。彼女の意欲を引き出せるように、挑戦的な声色で言う。


 しかし彼女は意に反して顔を赤くするとさっと俯いた。


「もう……ずるいっすよ先輩」


 山田はそうやって俯きがちに口元でごにょごにょとした声を出していたが、やがて勢いよく顔をあげて俺の方を見た。


「先輩」

「ん?」

「あらためて、色々お世話になりました」


 山田は真面目腐った顔でそう言った。なぜだか俺はそれを再び茶化そうとは思えず、彼女のまっすぐな視線を両の眼でしっかりと受けた。



「おお、工藤君」

「なんですか課長」


 自身のデスクで軽い昼食をとっていると課長から声がかけられた。いったん、食事を中断し、椅子から立ち上がる。


 課長は中年の男性であり、さえない見た目をしているが、非常に仕事に忠実で、部下に対しても厚く見守っており、非常に頼れる上司であった。今回の栄転に関しても課長から上役への口添えがあったと聞いている。二十代の異例の若さで出世できていることは、自身の能力と同時に、課長の尽力もあったように思う。


「いやね、きみの本部への異動が決まったと聞いてね。栄転じゃないか。おめでとう」

 

「いえ、これもひとえに課長のおかげです。お世話になりました」


 俺は頭を深く下げる。課長は「いいよいいよ」と手を振ってこたえた。


「お世話になったって、君は勝手に成長していっただけじゃないか」


 課長はそう言ってははと笑う。


「いえ、そのようなことは……」

「謙遜なんてしなくていいのいいの。……それとね。これは余計な老婆心かもしれないけど工藤君。やがて巣立つ君に、年長者として一つアドバイスがしたいんだ」

「……はい」


 課長の静かで穏やかであるが、しかし芯の遠った声に、俺は喉をごくりと鳴らして姿勢を正す。


「君は有能だ。一人でたいていのことができるし、多大な成果を残してきてる。けどね、そのせいかもしれない。君は誰にも頼らなさすぎるきらいがある。 今までの仕事でもそうだった。君は部下の仕事は手伝うが、自身の仕事は他者を頼ろうとしない」

「いえ、そのようなことは」

「人に頼ることは、苦手かい?」


 課長は穏やかに微笑んだ。恰幅のいい頬がさがる。今の課長には有無を言わさぬ迫力があった。


「そう、かもしれません」

「君ならば一人でも切り抜けられるんだろうさ。でもね、それは成果に限っての話だ。頼ることを覚えていない君の精神は、非常に疲弊しているし、これからもどんどん疲れていくはずさ」

「肝に、銘じておきます」


 俺はそう言って改めて腰を曲げてお礼の言葉を述べた。


「あ、そういえばこの後の打ち合わせの資料……」

「既に課長のデスクに置いておきましたよ。念のため再チェックしましたが、内容は問題ございません」


 俺がそうはきはきと答えると、課長はくくと笑って「相変わらず、仕事が速いね」と口の中で呟いた。



 その日の仕事は、順調に終わった。引継ぎ書類や企画書の作成、そのたさまざまな業務を終えたときは既に時刻八時。電車に二十分ほどゆられてから降車する。


 自宅までの徒歩十分の道のりを、仕事の疲れから少し重くなった足取りで歩んだ。


「頼ることを覚えろ、か」

 課長の言葉を繰り返し言ってみる。


 確かに思えば、俺は誰かに甘えたことなど一度もない。

 幼少時に母を亡くし、愛情表現がひどく不器用な父の手一つで育てられた。父は仕事で忙しくほとんど俺に構う事をしなかったが、俺は仕事をこなす父の背中に、深い感銘を覚えたものだ。


 男は誰にも甘えず黙って背中で語るものだと、父が良く言っていた。男なら弱音を吐くなとも。


 俺は父の逞しく強い姿をあこがれとして、忙しい父に甘えたりすることなく勉学やスポーツに打ち込んだ。不断の努力をもって父に近づけるように奮起していた。


 かけっこで一番になった。テストで百点をとった。そんなことはいちいち父には言わなかった。男は背中で語るものだと信じていたからだ。また、あそれを知っても父はえて俺を褒めようとはしなかった。

 俺は父への深い尊敬を動力にして必死に励み続けた。

 やがて俺は超難関大学に進学し、有名企業に入社した。


 総てが順風満帆の人生。


 確かに、そこに誰かに頼った記憶などなかった。俺は誰かに助けを求めたことなんてないし、弱音をあげずだまって成果を上げるのが男の流儀であると思っていた。

 課長の言葉は的を射たものである、そう感じた。俺よりも人生経験の豊富な課長の忠告には素直に従うべきなのだろう、とも。


 しかし、誰かに甘えるような生きる事は今さらできない。長年の生き方が、助けを求めるという行動を拒絶していた。そもそも、そんな生き方性にあわない。


「この若さで本部に異動できるのは幸先がいい。このまま進み続けてやる」


 俺は、自身の顔に獰猛な笑みが自然と浮かべられたのを自覚する。

 戦って、勝利する。そして成果を積み重ね続ける。それは、とても心地よかった。



 思考しながら歩みを進める。そこで、横断歩道に行き当たった。黙って待っていると、自動車信号が赤に変わった。数秒して歩行者信号も青に切り替わる。等間隔の白線が刻まれる横断歩道に一歩足を踏み出した。そしてそのまま緩やかな足取りで歩みを進める。


 その時、身体の真横で、眩い光が輝いた。その正体を確認する前に全身に衝撃が襲った。

 次の瞬間、視界がぐるぐると回転する。そしてゴンッという鈍い音が周囲に響く。同時に黒っぽい赤色が視界を染め上げた。何が何だか分からないままでいると、突然体中からふっと力が抜けた。瞼が自然と閉じられる。そして、意識が断然した。


光の正体がトラックで、俺を跳ね飛ばしたのだと認識できた頃には、既に俺は息絶えていた。





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