耐打者
療養を終えた夏休みの残りの日々はただ穏やかに過ぎていった。お姉さまのサポートのおかげで無理せず過ごせたのが良かったのか、僕の体も少しずつ回復していた。腫れや痛みもほとんど引いてすっかり良くなったように思えたが、心の片隅には微かな違和感が残っているのに気づいていた。あの「BALLS」による治療の影響なのか、胸の……ホント言えばもっと下の方の……奥で何かが目を覚ましつつあるような、そんな感覚だった。
──最近、ときどき聞こえるのだ。波のように押し寄せてくる言葉では表現できない振動のような何かが。耳ではなく、肌でもなく、ただ股間の奥で 「響いて」くる 。その瞬間、景色がふっと揺れるような違和感を伴って意識の芯が揺らぐ。まるで誰かが僕の中の深層に向かってささやきかけてくるかのような──そんな波。
新学期が始まる前、久々に稽古場に立ってみることにした。まだ完全に体力が戻ったわけではないけれど、少しでも体を動かして感覚を取り戻しておきたかった。お姉さまの動きに合わせて反応していくうち、ふと自分の動きが以前より少しだけど速く、彼女についていけているのに気が付いた。
(なんでだろう……?)
僕が少し戸惑いを覚えたその瞬間、向かいに立つお姉さまがわずかに目を細めた。いつもとは少し違う視線で僕をじっと見つめているような気がした。その眼差しは僕の変化にうっすら気づいているような、そんな気配があった。
「瑞祈、少し反応が速くなっているわね」
お姉さまが静かに言う。その言葉には何かを確かめるような響きがあった。
そのまま稽古を続けているとカップが熱を帯び始めた。お姉さまの動きに追従できた分だけ以前より無駄がないはずなのに訪れが早い。
(……!? もう?)
僕は戸惑いを隠せずに少し息を整えると、お姉さまの視線がまたこちらに向けられるのを感じた。
「不思議ね…まだ休養が必要なのかしら?」と優しい言葉をかけながらも、お姉さまはその視線を少しだけ鋭くしている。まるで僕の奥底にあるものを探ろうとするような……そんな眼差しだった。
けれど、それが何を意味しているのかは僕には分からなかった。ただ、心の奥で眠っていたものが、静かに目を覚まし始めているのを感じていた。窓からのぞいた青空は夏休みの終わりを告げるようにどこまでも澄んでいた……。
──
新学期が始まって初の稽古。僕はいつものように稽古場に立っていた。だけど今日はなんだかいつもと違う。そう、お姉さまだけでなくセレストさんまで一緒にいるからだ。
「瑞祈くん、今日はちゃんと二人で見ててあげるからね。全力でいっていいよ!」
にこやかに言うセレストさんの隣で、お姉さまも静かに微笑む。
「ええ。瑞祈、私たちが支えるから、安心して」
支えてくれるのはありがたいけど、なんだか二人とも気合いが入りすぎていて、少しだけ不安を感じる。なんていうかこの熱意はやや過剰だ。
「それじゃ始めましょ!」
二人の掛け声に合わせて、僕も気を引き締めた。
稽古が始まってしばらくして、体も十分に温まってきた。緊張感を持ちながらも動きが軽くなり始めたところだ。お姉さまとセレストと共に構えを整えつつ、僕も内心で稽古の流れに満足感を覚え始めていた。
(今日は調子がいいかもしれない…)
そう思った瞬間、じわりと股間に熱を感じた。
(え、もう…?)
ファールカップが早くも灼けつくような熱を帯びている。稽古そのものは順調なはずなのになぜか今日の「訪れ」は異様に早い。やっと温まってきたのに、なんでこんな時に限って……。
(まさか……また、「波」?)
例の「響き」が、内側から小さく共鳴していた。何かが脈を打つような気配とふわりと揺れる視界。鼓膜ではなく、もっと深く、股間の奥──あの治療を受けた場所から震えるような、微細なざわめき。
顔には出さないよう努めるけど、思わず小さく息を漏らしてしまった。
「瑞祈、どうしたの?」
お姉さまが鋭く気づき視線を向けてくる。僕は慌てて首を振る。
「えっ、いや、別に……」
ごまかすように答えるも、カップの熱がさらにじわじわと伝わってくるのを感じる。
「本当に大丈夫かい? なんだか汗が……」
セレストさんもじっとこちらを見つめてくる。
(くっ、これはさすがにバレるかも…)
やる気が高まってきたのにファールカップの熱のせいで気が散ってしまうのは正直悔しい。僕は内心でため息をつきながら、どうにか誤魔化しつつ稽古を続ける道を模索するのだった。
なんとか気づかれないようにと体の動きを小さくしていたけど、どうにも熱さが収まらない。じわじわとカップが灼けつくように温まってくる感覚が続き、もはや汗が背中を流れ始めていた。
「瑞祈、少し動きが変じゃない?」
お姉さまが静かに僕を見つめる。鋭い視線に思わず言葉を飲み込んだ。
「えっと……その、ちょっとだけ……」と曖昧に答えたつもりだったが、さすがというべきか一瞬で察してしまうお姉さま。
「やっぱり、ファールカップが熱くなってるんでしょう? 休憩を取りましょう」
「え、でも……まだ……」
「いいえ。無理しても仕方ないわ」
お姉さまの言葉に逆らえず、僕は渋々その場に座り込むことにした。せっかく調子が良かっただけに少し悔しかったけど、熱さを誤魔化し続けるのはもう限界だった。
「じゃあ瑞祈くん、ここはボクが冷やしてあげるよ!」
セレストさんが嬉しそうに近づいてきたが、その時、お姉さまがふっと笑みを浮かべて手を伸ばす。
「それは私がするわ。瑞祈は私に任せて」
「でも、瑞祈くんとは将来を誓い合った仲だし、ここはボクが!」
セレストさんも負けじと反論し、お互いの手がぴたりと僕の前でぶつかる。
(なんで冷やす役でこんなに真剣に……? ……ていうか誓い合っては……)
お姉さまとセレストさんが「冷やす役」を巡って睨み合いを続けているのを見て、僕はしびれを切らして意を決した。
「……えっと、二人とも……いいですよ、そんなに気を遣ってくれなくても。大丈夫ですから。自分でやりますよ」
その場を収めようと、僕がそっと立ち上がり、冷やしに行こうと一歩踏み出した瞬間──
「「それはダメ! 絶対!!」」
二人の声がピタリと重なって響き渡り、僕は思わず固まってしまった。
(なんでここは息ピッタリなのさぁ……)
お姉さまが厳しい表情で腕を組み、セレストも同じように視線を鋭くする。
「瑞祈、貴方はここで休んでいればいいの。私に任せて」
「そうそう、瑞祈くん。ボクがしてあげるからさ!」
まるで打ち合わせでもしていたかのような見事な連携に、僕は困惑しながらも彼女たちの真剣さに圧倒されていた。
(えっと…そこまで熱心にやってくれなくても…)
「じゃ……ジャンケンとか……」
一向に埒があかないので控えめに提案すると、両者ともに「絶対に負けない!」と気合十分になった。
「最初はグー! ジャンケン、ポン!」
お姉さまが勝利し、僕の前に誇らしげに立つと、冷やす役を勝ち取った喜びが顔に表れている。
「瑞祈、安心して。すぐに冷やしてあげるわ」
「……お願いします……」
再びため息をつきたくなりつつも、二人の熱意に押されて僕はそのまま彼女たちに任せることにした。
勝負に勝ったお姉さまは、セレストさんを横目にちらりと視線を送り、少し得意げに微笑む。そんな視線を受けながらも、セレストさんも悔しそうに唇を噛み締め、じっとこちらを見つめている。
「瑞祈、少し冷たいかもしれないけれど、我慢してね」
お姉さまがゆっくりと冷却シートを取り出し、指先でそっと触れるように慎重に当ててくる。冷やっとする感覚が下腹部に広がる。……と、同時にまた──
(……きた……波だ)
冷却と同時に奥からまた小さく「響き」がやってくる。まるでこのやり取りそのものが引き金になっているかのように、感情と振動が連動している。セレストさんが悔しそうに見ている視線、それを意識した瞬間、再び「波」が押し寄せる。
(なにこれ……僕の股間……感情に反応してる……?)
「どうかしら? 瑞祈」
耳元で優しく囁くお姉さまの声に、冷却の効果と相まって妙にドキリとさせられる。セレストさんも、なぜか我慢強くその様子を見つめていて、ほんの少しムスッとした表情が浮かんでいる。
「…お姉さま、もう少し優しくしてあげてもいいんじゃないですか? なんだか、瑞祈くんが少し緊張してるように見えるし……」
セレストさんが控えめに言葉を挟むが、お姉さまはそのまま気に留めることなく、ゆっくりとシートを動かし、冷却効果が全体に行き渡るようにしている。
「瑞祈のためには、このくらいがちょうどいいのよ」
お姉さまがセレストに微笑みながら言うその表情は、どこか得意げだ。そして、シートをしっかりと押さえながら、再度僕に視線を向ける。
「大丈夫? きちんと冷えているわよね?」
無言で頷くしかない。冷たい感覚に痛みが和らいできた一方で、妙にその場の空気がこそばゆく、内心複雑な気持ちだった。
(お姉さま…どうしてこんなにゆっくりなんだろう…)
「ねえ、そろそろ交代してもいい頃じゃない?ボクも瑞祈くんをちゃんとケアしてあげたいんだけど」
セレストさんがじれったそうに手を差し出すが、お姉さまはしっかりとその場に留まり続ける。
「そうね…でももう少し。瑞祈が楽になったら交代するわね」
その言葉を投げかけながら、さらに冷却シートを押さえる指が優しくなり、少しずつ熱を取ってくれる。
二人の間で行われる妙な張り合いに、僕はため息をつきたくなったが、冷やされる感覚と二人の間に漂う緊張感に、今はただじっと耐えるしかなかった。
──
お姉さまの手当てが終わり、ようやく解放された僕は内心でほっとしていた。「もう十分…十分だから…」と、心の中でささやかな願いを呟きながら。
けれど、目の前でスタンバイするセレストさんの鋭い眼差しと勢いある声に、一瞬たじろいでしまった。
「瑞祈くん、次はボクの番だね! しっかりと手当てさせて!」
彼女の目は真剣そのもので、その迫力に圧倒されて、思わず言葉を失う。十分に手当ては終わったのだから遠慮したい気持ちが正直ようにあったけど、セレストさんの熱意にどうしても「いや」と言い出せない。
「え……ええっと……もうだいぶ楽になったし……」
やんわりと断ろうとした矢先、セレストさんが前のめりに身を寄せた。
「そうなの?でも、完璧に楽にしてあげたいから、ボクにもやらせて。瑞祈くん、我慢なんてしなくていいんだよ?」
反論する余裕もなく、ただ頷くしかなかった。セレストさんの気迫と真剣な瞳に、「もういいから」と言える勇気は、僕の中には微塵も残っていなかった。
セレストさんが正面にしゃがみ込み、真剣な表情でじっと見つめてきた。彼女のその瞳に捉えられると、なんだか妙に落ち着かなくなってしまう。普段は周りから「王子様」と呼ばれ、涼しげで堂々とした雰囲気を纏う彼女が、今はまっすぐな眼差しで自分を見つめているのだ。
「瑞祈くん、大丈夫? 少し冷やすから」
セレストさんはやや緊張した様子でそう言うと、慎重に冷たいタオルを当て始めた。瑞祈はふと身を引きたくなる衝動を必死で抑えつつ、じっとその冷たさに耐える。
「これくらいで効いてる?」
まるで壊れやすいものを扱うように優しく声をかけられ、僕は一瞬、心が和らぐのを感じた。が、その直後、彼女の手が思ったよりしっかりと押し当てられ、思わず息を詰める。
「だ、大丈夫……」
そう何とか答えると、セレストさんは安心したように一度頷き、さらに少し強めに冷やし始める。真面目で一生懸命な彼女はきっと、力加減も男の急所の痛みの加減もわからないのだろう。それがむしろ僕にとっては痛みを助長する原因になってしまっていることに彼女は気づいていない。
「もっと押さえたほうが良いのかな?」
セレストさんがさらに力を入れかけるその瞬間、思わず叫びそうになった。
「いやッ、それ以上は……!」
けれどそんな僕にセレストさんが真剣な表情で瑞祈に向かって話し始める。
「瑞祈くん、男としてもっと強くには、痛みだって克服しないと。少しでも鍛えておけば急所でもそんなに痛まないかもしれないよ」
彼女の顔はまるで応援するような笑顔で、それが逆に僕の心を焦らせた。
(いやいや……! 金的の痛みは克服できないよ!)
心の中でそう叫びそうになりながらも、僕はなんとか耐えて微笑んでみせる。でも、心の動揺は収まらない。まるで「もっと鍛えろ」と背中を押される度に、僕はその想像だけで内心ひやりとした。
そのとき、お姉さまがセレストさんに向かって真剣な表情で話し始めた。
「セレスト、瑞祈にとって金的の痛みは、私たちの生理痛に似たものかもしれないわ。特に私の場合は『悲の七日間』……」
僕はふと息を呑んだ。お姉さまの「悲の七日間」の辛さは実際目にしているので言いたいことは分かる気がする。とはいえ少し誇張しすぎな気がして、若干居心地が悪い。
「悲の七日間……」
セレストさんは一瞬考え込むように腕を組んでいたが、ふと顔を上げてこっちに視線を向けた。その目には、ほんの少し理解が宿っているようにも見える。彼女の視線が自分に向けられるたびに、僕は何とも言えない気まずさを感じつつも、少しだけほっとしている自分に気がついた。
「そっか、それなら……。生理のあまり重くないボクには全部は理解しきれないけど、瑞祈くんの痛みもそれくらい大変なんだね」
セレストさんは少し真剣な顔でそう言うと、やがてふっと表情を緩め、いつもの優しい微笑みを浮かべてみせた。それはまるで、王子様が民衆に笑いかけるような……いや、彼女が王子様と呼ばれる所以だろうか。しかし、やっぱりどこか「女の子らしい」と感じさせる柔らかさがある。
そんな彼女に、また少し心がざわつくのを感じながら、心の中でそっと思わずにはいられなかった。
「わからなくてもいいんだけど……どうか、そっとしておいてほしい……!」




