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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
28/55

安定野良

 教室の椅子に座るたび、下腹に鈍い痛みがにじむ。


 あの日の「テスト」──あれからしばらく経ったけれど、腫れも痛みも完全には引いていない。病院に行くほどじゃない……と思う。いや、思いたい。

 もしこれが「生理」だったら、女の子たちは毎月こんな痛みに耐えているんだろうか──そんな想像すら浮かんできて、苦笑がこぼれそうになる。


(……心配しすぎ、かな。でも、やっぱり……重い)


 足を開いて楽になりたい。でもここは女子だけの学園だ。「女の子」として見られなければならない。


「だめですよ? 露草さん。ちゃんと脚閉じないと」


 隣の笛木さんが小声で優しく注意してくる。ありがたい言葉のはずなのになぜか少しだけ苛立ちを覚えてしまう。


「……うん……」


 小さな声で返し、言われた通りに脚を閉じる。すると腫れた急所にじわりと圧迫感が広がり、鈍い痛みが内側から押し上げてきた。


(脚を閉じるだけなのに……どうしてこんなに、きついんだろう)


 授業中も違和感はつきまとう。足を組み替えるたびに痛みがぶり返し、「女の子」としての所作のひとつひとつに神経をすり減らす。


(……これも「慣れ」なんだろうか)


 ──

 夜の武道場には静けさが満ちていた。


 照明は落とされ暗がりの中で僕とお姉さまの呼吸音だけが空間に漂っている。昼間の喧騒が嘘のようだ。まるでこの世界に僕たちだけが存在しているみたい。


「姿勢が崩れているわよ」


 お姉さまの冷ややかな声が静かに響く。その一言で甘えや緩みがすべて見透かされたような気がして、僕は背筋を正そうとする。けれど、腫れた金的がじんわりと抵抗を示し、思わず足を緩めかけた。


 すると──


「膝を閉じて」


 その声には優しさと試すような意地悪さが同居していた。


 お姉さまは僕がこの痛みに耐えられないことを知っている。でも、あえてそれを要求してくる。まるでその痛みごと自分を差し出せとでも言うように。


 身体の芯を突き刺すような痛み。息を呑み、額から汗がつたう。けれど──僕はゆっくりと膝を閉じた。


(……この痛みも、僕の一部)


「そう。そのまま」


 お姉さまの声が静かに包み込むように落ちてくる。優しさと厳しさ、その両方が込められていた。まるでこの痛みごと僕を「肯定」してくれているようだった。


 少しだけ変化があった。


 確かに痛い。けれど、それ以上に心が軽くなっていく。まるで痛みに抗わず受け入れたことで、何かがほどけたような気がした。


「今のあなたに必要なのは、痛みを恐れずに進むことよ」


 お姉さまの言葉が、胸の奥に静かに染みこんでいく。

 この痛みと共に歩むこと。それが、僕に課された道なのかもしれない。


 お姉さまが去った後、僕はひとり武道場に残った。


 金的の腫れはまだ残っている。けれど、さっきまでの苦しさはどこか和らいでいた。


 これは……不思議な感覚だった。

 痛みはあるのに、それが重荷ではなくなっていた。


 静かに立ち上がる。膝を一度、軽く叩いた。


(……大丈夫。少しずつ良くなってる)


 この道場での稽古が、確実に僕を前へと進ませている。そう信じられた。


 外に出ると夜のひんやりした空気が肌をなでた。


 寮に帰る小道。今夜もひとりの時間が待っている……はずだった。


「お疲れさま」


 その声に振り向くと笛木さんが笑顔で手を振っていた。


「あれ……どうしてここに?」


「こんな遅くまで、何してたの?」


「……いや、ちょっと勉強してただけ。笛木さんこそ?」


「私も、まあ……そんな感じ?」


 武道場での稽古はなんとなく秘密にしておきたかった。とっさに誤魔化したけど、笛木さんは特に疑う様子もなく、ただ静かに微笑んだ。


「ふぅん……でも、無理しないでね?」


 その言葉にはどこか含みがあった。まるで、何かを察しているかのような──。


 だけど、彼女はそれ以上は何も言わず、軽やかな足取りで通り過ぎていった。


「……」


 僕はその背中を、しばらく見送っていた。


 夜の闇に溶けていく彼女の影。胸の奥に小さな違和感が残る。


(……もしかして、何か知ってる……?)


 でもその疑問は、風にさらわれていくようにふわりと消えていった。


 僕は再び歩き出す。静かな夜の道を、ひとり。


 股間に残るわずかな痛みも──今はもう、怖くなかった。

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