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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
24/55

呼吸とす

「もう一度。構えなさい」


 お姉さまの声が静かに稽古場に響く。その音は冷たく鋭く、それでいて奇妙な温かさも含んでいた。僕は浅く息を吐き額に浮かんだ汗を指先で払う。トレーニングウェアが肌に張り付いていて少し動きにくいが、それ以上に恥ずかしさがこみ上げてくる。ぴっちりと体に密着するこの服を着てお姉さまと向かい合うのはどうにも気まずい。


 そして何より──股間には例の「防具」がしっかりと装着されている。


(……なんていうかその……)


 例のファールカップは頼りになる、間違いなく。これがなければ今ここで立っていられる自信なんてない。けれど同時に「それに守ってもらわなければならない弱い存在」だと突きつけられているようで情けない気持ちになるのだ。

 それともしもこの恰好をサキにでも見られたら……。


(絶対ネタにされる……)


 その光景が簡単に想像できてしまう。


「瑞祈」


 お姉さまが静かに名を呼ぶ。


「集中しなさい。常に本番と思うこと」


 言葉はきついが、声には優しい余韻がある。お姉さまは単に僕を打ち負かしたいわけじゃない。それがわかるからこそ、僕は彼女に全幅の信頼を置いているのだ。


「行くわよ──」


 彼女が構えるのに合わせ、僕も自然に身体を落とし攻防の体勢に入る。鋭い眼差しを投げかける彼女は、美しいだけでなく、動きに迷いがない。まるで完璧に鍛え上げられた弦のような緊張感があり、その全身が一瞬たりとも無駄に動いていないことが伝わってくる。


 次の瞬間──蹴りが来る。


 バシッ!


「くっ……!」


 蹴りが来た。反応がわずかに遅れる。

 カップが鋭い衝撃に襲われる──が、痛みは……ない。


(た、助かった……)


 安堵の息が漏れる。これがカップ無しだったら……想像しただけで冷や汗が出る。 それでも。


(……悔しいな)  


 ファールカップに救われてばかりの自分に、ほんの少し情けなさがこみ上げる。

 だけど、初めてこれを装着したときの羞恥に比べたら──。それだけこの防具が与えてくれる「安心」が大きいということでもある。 まるで目に見えない盾が僕を守ってくれているみたいだ。


「また気を抜いてるわよ、瑞祈」


 お姉さまの声が冷静に僕を指摘する。僕は謝るともう一度構え直した。けれど集中が続かなくなってきてる。どうにも股間が──


「……休憩しましょう」


 お姉さまが手を止めると、僕は自分の異変に気づいた。


(……マズイ、熱くなってきた)


 カップがまるでフライパンみたいに熱を帯びている。僕は思わず手で押さえようとするが──


「ダメよ」


 お姉さまの静かな声が僕を制する。その声音は優しさに満ちているが、断固とした力も感じさせた。


「前にも言ったでしょ。それは私の役目だって」


 彼女は冷えたタオルを手に取り、当たり前のように僕に近づいてくる。


「いや、でも……自分でできますから……」


「じっとしてなさい」


 お姉さまは微笑を浮かべ、僕のウェアのウエスト部分に手をかけた。その笑顔には、どこか悪戯っぽい色気が含まれているように見える。


「ほら、脱がせるわよ」


 拒否する間もなく、熱を持ったファールカップが外され──すぐさま、冷たいタオルが押し当てられる。


「っ……!」


 全身が跳ね上がるような冷たさが走る。だけど、お姉さまの手は僕が逃げ出さないようにしっかりと押さえ込んでいた。


「敏感なのね。フフッ、素敵……」


 彼女の囁きが耳元に響き、背筋にぞくりとした感覚が駆け抜ける。僕はどうしても顔を背けたくなり、視線を逸らした。


「大丈夫。慣れれば平気になるわ」


 お姉さまの指が、タオル越しに優しく撫でるように動くたび、僕は息を詰める。冷やされているはずの股間がなぜか妙に熱を帯びていく気がするのは気のせいだろうか。


「ほら、じっとしてなさい。男の子でしょう?」


(いや……男だからこそキツいんですけど……)


 


 ──冷却が終わり、僕はようやく気を取り直してお姉さまに尋ねた。


「お姉さまの流派って奥義とかあるんですか?」


「ええ、あるわよ。その名も『玉覚(たまざめ)』」


「……たまざめ?」


 僕はその奇妙な響きに眉をひそめた。


「『玉のような目覚め』。玉とは宝玉、とても価値あるもの。つまり最高の目覚め。これを会得した者は、相手の動きを瞬時に先読みできるようになるとされているわ」


「それって……まるでエスパーじゃないですか」


 お姉さまは小さく頷いた。


「もっとも、それを会得したとされる者はほとんどいない。記録も曖昧だし、ただのオカルトだと笑う人もいるわね」


「オカルト……たしかに」


 僕は苦笑したが、お姉さまの目は真剣だった。


「でも、瑞祈ならもしかして……」


「僕が?」


「そう。あなたの『玉』の鋭い感覚なら、『玉覚』に近づけるかもしれない」


「……でも、その場合の『玉』って……」


 お姉さまは微笑みながら、少し悪戯っぽく言った。


「貴方にはあるでしょ? とっても素敵な宝玉が。恐怖や痛みを超えた先にこそ、真の覚醒があるんじゃないかしら──金的の痛みのその先に、ね」


「……無茶ですよぉ……」


 僕が弱々しくそう返すと、お姉さまは満足げに微笑んだ。 その笑みには、優しさと狂気、そして一縷の信頼が──確かに宿っていた。

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