罹患赦
その日は朝から妙に身体が重い。
五月の終わり──湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。吹き抜けるはずの初夏の風さえも粘ついて感じられて、ただ息苦しいだけだった。
胸の内に押し寄せる不安が、一向に消えない。部屋の窓を開け放ち、少しでも気を紛らわせようとする。だけど……効果はなかった。
(どうして月に一度、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう)
ぼやきたくなる。けれど、その日が巡ってくるのは避けようのない現実。
お姉さまとの「テスト」──金的攻撃あり、ファールカップなし。あぁ、喉元がカラカラに乾く。
(勝てば……あの地獄が終わるんだ……勝てれば)
金的の解禁と同時に告げられた報酬。勝利すれば金的を封じるという約束。
胸に浮かんだわずかな希望は、同時に過去の記憶を呼び起こす。初日の衝撃、蹲り、呼吸すらできず悶絶したあの痛み。僕は震えそうになる自分の手を握りしめ、必死に気持ちを押さえ込んだ。
(いや……僕は勝たないといけない。彼女の妹として)
──静かな稽古場。畳の感触がひんやりと足の裏に伝わる。湿った空気の匂いと、遠くで鳴く鳥の声だけが、この場所に音をもたらしていた。
道着姿のお姉さまは、柔らかく微笑む。だけど、その笑顔の裏に潜む獰猛さを、僕は知っている。
「勝ってみせる」
自分に言い聞かせるように、低く呟いた。覚悟の言葉が恐怖をわずかに遠ざける気がした。
「ふふ……瑞祈、本当に勝てると思ってるの?」
その声音には楽しげな含みがあった。まるで試すような、あるいは奪うことを前提にした問いかけ。
「もちろん……勝ってみせます」
震えを悟らせまいと、できるだけ静かに言った。
その瞬間、彼女の目が一瞬だけ光った。獲物を見つけた猛獣のように。
──
「構えて」
お姉さまの号令に即座に体勢を取る。全神経を集中し、相手の動きに遅れまいとする。振り返れば、必死だった時点でもう負けていたのかもしれない。
序盤は互角。いや、それ以上に踏ん張った。何度も繰り出されるお姉さまの攻撃を、かろうじて受け流していく。
(いける……いや、勝てるかもしれない……! このまま──)
「そこッ!」
閃光のような踏み込み。僕の反応が、わずかに遅れた。
次の瞬間、彼女の膝が僕の股間へ突き刺さる。
ドンッ──重たい衝撃音が畳に響いた。
「ぐぁ……っ、あ……」
視界が一気に暗転する。呼吸ができない。膝が砕けるように崩れ落ち、喉の奥から漏れ出る呻き声は自分のものとは思えなかった。
「ふふ……やっぱりね」
お姉さまは微笑みながら、僕を見下ろしている。獲物を確保した者の顔だった。
倒れ込んだ僕はまだ意識を保っていた。だが、金的への一撃がもたらした痛みと虚脱感に、全身の力が抜け落ちていた。
「……もう、これで終わりよ」
お姉さまの声が、どこか熱を帯びていた。
彼女がしゃがみ込み、僕の両脚の間に膝をつく。そして──その指が、僕の金的をするりと掴んだ。
冷たく硬質な感触。握られたのは、僕の中で最も無防備で、最も敏感で、そして、最も抗えない場所だった。
「う……っ!」
蹴りとは違う。これは、じわじわと侵食してくる痛み。そして何より──それをもたらすのが彼女の手であるという事実が、僕の心を締め付ける。
「ずっと……我慢してたのよ」
その声は、かすかに震えていた。指に込められる力が少し強くなる。
「痛いのは、わかってる。でも、これが……どうしようもない衝動なの」
その言葉には、悲しささえ混じっていた。
彼女は、手を離さない。それどころか、ゆっくりと圧力を強めたり、緩めたり、まるで手の中の感触を確かめるかのように。
「瑞祈……ねえ、どうしてなの? 私、ずっとこんな風にしたかったの……」
声が沈み、手の動きがさらに繊細になる。金的を揉まれるたびに呼吸が浅くなる。
この学院では大袈裟に思われるかもしれないが、でも……本当に、死を覚悟するほどの痛みだった。
──ふいに、その執拗な動きが止まった。
お姉さまの手が、ゆっくりと離れていく。まるで何か大切なものを手放すように。
その顔には、儚げな悲しみが浮かんでいた。
「……ごめんなさい、瑞祈」
彼女の声には、心からの謝意が込められていた。
手を戻す。今度は、優しく撫でるように。先ほどとはまるで別人のような、柔らかい手つきだった。
「痛いでしょう……ごめんね、本当に……」
言い訳のようなその言葉とともに、タオルを取り出す。冷たい布が僕の股間に押し当てられた。まるで、痛みを吸い取ろうとするかのように。
「本当は、こんなこと……したくないの」
そう言いながらも、その声にはどこか自分に言い聞かせる響きがあった。
僕は何も言えなかった。ただ横たわり、冷たい布と優しい手つきに身を任せるしかなかった。
痛みと共に、彼女の矛盾するような優しさが、静かに胸の奥に染み込んでいく。
──
その夜、僕はベッドの上でじっと横たわっていた。
昼間の出来事が何度も頭をよぎる。お姉さまの手の感触。あの冷たさと、執拗な圧迫。そして……あの最後の表情。
(……なんで、あんなことを……)
彼女は僕を傷つけたいだけではなかった。
でも、それがわかったとしても、痛みが消えるわけではない。腫れ上がった金的は、今もじんじんと疼き続けている。
「……うぅぅ……」
思わず体を丸め、枕に顔を押し付けた。初日の蹴りを除けば、ここまで明確に「傷つけられた」のは初めてだった。
(お姉さま……)
問いかけても返事はない。けれど、あのときの悲しげな眼差しだけが、頭の中に焼きついて離れない。
(……僕に勝ちたかったんじゃない。ただ……)
考えがまとまらないまま、意識が遠のいていく。
でも最後に、ひとつだけ思った。
「あの優しさは、僕を守るためじゃなく、彼女自身を赦すためだったのかもしれない……」
深い痛みと混乱の中で、僕は静かに眠りに落ちていった。
まだ、心の中にあの手の感触を残したまま──。




