表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
2/55

喘域

 人目を避けるために僕たちは茂みの奥へと移動していた。彼女の肩を借りてほんの数メートル歩いただけなのにHPの消耗は尋常ではない。僕はたまらずその場に蹲り、股間を押さえた。


「ここなら……」


 彼女がそう言い終える前に僕は膝から崩れ落ちていた。立っていられるはずがない。呼吸もままならない僕の腰にひんやりとした感触が触れる。服越しでも分かる。彼女の手だ。冷たくて、でもどこか温もりがあって、恐ろしいほど柔らかい。彼女は慈しむような手つきで、僕の腰をゆっくりと擦った。


 ――救われるような気がした。

 矛盾している。僕をこんな目に遭わせた張本人なのに、その掌に慰められて、少しだけ気が楽になっている自分がいる。


「大丈夫。落ち着くまでこうしていてあげるから……。それと……ごめんなさい……」


 柔らかな木漏れ日の中で、僕等はゆったりとした時間を共有していた。これが癒しの空間というものだろうか。……股間の激痛さえなければ断定できたのだが。


 ――やがて、どれほどの時間が経っただろう。波が引くように、痛みが少しだけ我慢できるレベルまで下がってきた。まだ直立歩行は困難だが、意識ははっきりしてきた。


「ありがとうございます。だいぶ、良くなりましたから……」


 息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。彼女はすっと立ち上がると、花が綻ぶように微笑んだ。


「ここで横になってて。すぐに水と薬を持ってくるわ」


 そう言い残し、彼女は身軽にその場を離れていった。


 木陰に横たわり空を仰ぐ。太陽は高く昇っている。初日から完全なる遅刻だ。でも、そんな社会的死がどうでもよくなるくらい頭の中は彼女のことで埋め尽くされていた。

 少し余裕ができた頭で反芻する。自分は女顔で、声も高く、体型も華奢だ。女装の完成度には自信があった。男としての尊厳はさておき、バレる要素はないはずだった。それなのに、彼女は一瞬で見抜いた。  あの美しい容姿。神秘的な雰囲気。……そして、容赦のない蹴り。


(どうしてあんなことをして、その後すぐに介抱なんて……?)


 普通、男子侵入者だと分かれば通報案件だ。あるいは排除される。それなのに彼女は謝罪し、優しく背中を擦ってくれた。


(……にしても、初手で金的は酷すぎるだろ……)


 けれど、あんな絶世の美女にシュンと謝られると、怒りの矛先を見失ってしまう。そんな混乱の最中、彼女が戻ってきた。


「水、飲める?」


 ペットボトルを差し出し、心配そうに僕の顔を覗き込む。


「吐きそうになったら遠慮しないでね」


「……はい、ありがとうございます」


「それと、これが薬」


 白い掌に乗せられたのは――毒々しいほど鮮やかな、赤いカプセルと青いカプセル。


「赤と青、好きな方を飲んでいいわ。どちらも貴方の痛みを消すのには役立つから」


(好きな方……?)


 不思議な言い回しだ。普通、投薬で患者に選択権はない。僕の困惑を察したのか、彼女はフフッと妖艶な笑みを浮かべた。


「それはね、赤いのは普通の鎮痛剤。気休め程度かもしれないけど、現実の痛みを和らげてくれるわ。そしてね……青いカプセルは『真実の世界』に目覚めるもの」


「は、はい……?」


「この世は実はコンピューターが作り出した夢の世界で、現実は別にあるの。そこはとても無残で凄惨な荒野……。でも、貴方が『股間を蹴られた』というこの悪夢からは解放される。つまりは痛みもなくなる。そういうわけ」


(……マト〇ックス??)


 黒衣の救世主がスローモーションで弾丸を避けるシーンが頭の中で流れる。


「この世界は誰かの作った箱庭かもしれない。超知的生命体のシミュレーション、そんな説もあるくらいだし。現実なんてもともと曖昧なものなのよ」


 ……なんだか急に話のスケールがでかい。


「……ま、そんな突飛なこと言われても困るわよね。だから――冷やしている間に考えてくれればいいわ」


 そう言うと、彼女はおもむろに僕のスカートを捲り上げた。


「ええっ!? ちょっと!!」


 まさか、と思った次の瞬間、彼女の手は僕の下着にまで伸びていた。


「ふ〜ん。スパッツと二枚履きか。下着はちゃんと女物……フフッ、可愛い。こういうの、好みなの?」


「ちょっ、やめてくれませんか……ッ!」


 抗議の言葉は、彼女の指の感触によって強制的に遮断された。彼女の細長い指が、スパッツの隙間から滑り込み――僕の、その……一番ダメージを受けている場所を、直に捉えたのだ。


「大丈夫、怖がらなくていいのよ。いい子だから……ね?」


 逃げようとする僕を制し、彼女の指先はベルベットのような優しさで患部を撫でる。


「ひゃんっ……」


 情けない声が漏れた。


「……クリファ(抜け殻)ね」


 聞き慣れない、どこか冒涜的な響きの単語。


「気にしないで。ちゃんと体内に入り込んでないし、潰れてもない。少し腫れるだろうけど、機能的には無事よ」


「あ、ありがとうございます……」


 無事なのはありがたいが、現状は社会的に無事じゃない。羞恥と混乱で脳が焼き切れそうだ。


「離してくれますか? 手……」


「……あら」


 彼女は名残惜しそうに僕を見下ろした。嗜虐的な光が瞳に宿る。


「少し楽しみたかっただけなのに。……ダメ?」


 言うが早いか、彼女は指先で胡桃くるみを転がすように軽く弄んだ。


「ふぁ……ッ」


 意識がはっきりしてきた分、恥ずかしさが津波のように押し寄せる。でも、力が入らず逃げられない。


「とてもいい反応ね……。もっと続けたいけど、そろそろ終わりにするわ」


 彼女は優しくそう宣言し――指先で、片方の胡桃をキュッと捻った。


「ッ!!!???」


 脳髄を直接抉られるような激痛。僕は声もなく再び地面に崩れ落ちた。

 だが、彼女はすぐに僕の身体を引き寄せ、優しく抱きしめた。


「……ごめんなさい。どうしても我慢できなくて……痛かったでしょ? 本当にごめんなさい。泣いてもいいから……」


 甘い声。柔らかな胸の感触。彼女は震える僕の頭を撫で、赤子をあやすように抱きしめ続けた。まるで、壊したおもちゃを愛でる子供のように――。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ