悪蝕者
「おはよう」
「お、おはようございます」
翌日、待ち合わせ場所にお姉さまの姿があった。普段の制服姿とは打って変わってシックな服装に身を包んでいる。白のブラウスに黒のスカート。それだけだとシンプルなのだが、その上にカーディガンを羽織っていることでカジュアルな印象を与えている。
大人びているお姉さまだがこういう格好もよく似合う。普段はあまり意識しないようしてるけど改めて見るとお姉さまはスタイルが良い。
出るところは出ているし、引っ込むべき所はしっかりと引き締まっている。芸術に触れた気がしたあの感覚はやっぱり間違ってない。
そして更にお姉さまの表情だ。もしもお姉さまそっくりのマネキンがあれば、それは既に芸術品だろう。けれど表情が追加されたことで閉じた美からグワッと全体、背景すらも、開いた印象を与える。きっとこれが本物の美人。
そんな人が今目の前にいることに感動を覚えつつ、お姉さまに見惚れてしまう。そんな僕を不思議そうな目で見つめてくるお姉さま。
っといけない。見つめてばかりじゃ失礼だ。何か言わないと……。……にしてもホント深い瞳だなぁ……。
とりあえず当たり障りのない会話からで。
「今日はどちらへ?」
「そうね、ちょっと付き合って欲しい場所があるの」
予想してなかった返答に思わずまばたきしてしまう。
「どこですか?」
「着いてのお楽しみ」
悪戯っぽく笑うお姉さま。この人は、本当に……。
「うぅ……分かりましたよ……」
「フフッ、可愛い……」
「っ! もうっ!早く行きましょう!」
思わず赤面してしまう。お姉さまと話すとどうにもペースが乱されてしまう。けれどそれが時折心地よいと思えるのは……あくまでたまにの話だからね? ……僕の気のせいだろう。多分、恐らく、きっと……。………………。
電車で二時間は移動して辿り着いた場所は海だった。しかし海水浴場ではなくて岩場だ。お姉さまが言うにはプライベートビーチみたいなもので、一般客がいないとのこと。まぁ、そんなことあるはずがない……とはいえないんだよなぁ、彼女のお金持ち具合からすると。それどころか島の一つや二つは所有してそうだし……おそらく別荘があるんだろうと思う。
「ほらこっち」
手招きするお姉さまに僕は付いていく。
「ここよ」
お姉さまが案内してくれたのは岩場の陰にある小さな入り江。ちょうど波打ち際が砂浜になっていて、そこまで綺麗な砂浜ではないものの、ちゃんとした海水浴場になっている。
「私、海ってあまり好きじゃないのよね。騒々しくて」
「あー、分かるかも……」
人が多いとどうしても雑音が多くなってしまう。人混みもあまり得意な方じゃない。挙句、女の子に間違われて監視員に上着るよう言われるし……。だから海水浴にはあまりいい印象はない。家族連れで行ったことはあるけど、人混みを掻き分けてまで入りたいとも思わなかった。
「それに……その……水着姿の男の人を見ると……意識してしまうのよね、金的を……」
「……はい?」
今何と?
「えっと、お姉さま、もう一度言ってもらっていいですか?」
「だから……競泳パンツとかトランクスの男性を見てると……金的を蹴りたくなるのよ」
「……」
oh……。そりゃ僕だって水着姿の女性がたくさんいたら目のやり場に困るというか、正直ちょっと気になったりもあるけども、この人のはなんというか……。
「勿論悪いとの自覚はあるし、我慢してるわよ? でもその……金的したいなとか、蹴り上げたらどんな苦しみ方するだろうとか考えて……しまうのよ……」
お姉さまは顔を赤く染めながら俯きがちに呟く。こんな恥ずかしそうなお姉さまを見るのは初めてかもしれない。いつも余裕があって僕をからかってくるイメージが強いから余計新鮮に思える。
……内容は実に残念なものだけど。この金的癖さえなければ完璧星人なんだろうに。つくづく残念な大天使である。けどだからこそお姉さまらしくて安心感を覚える自分がいる。うん、人間ひとつくらい欠点のあるほうが落ち着くというのはよくあることだ。決してマゾ的な意味では無くて。多分。きっとない。
そんな風に自分を納得させているとお姉さまが再び話しかけてきた。
「ねぇ……」
「はい?」
顔を上げるとすぐそこにお姉さまの顔があった。ドキリとして少し後ずさりする。そんな僕の肩を掴んで更に距離を詰めてくるお姉さま。お互いの距離はわずか10cmほど!?
お姉さまが潤んだ瞳でじっと見つめてくる。僕は視線を逸らすことができない。そして更に距離が縮まり―――
チュッ
お姉さまの唇が僕の頬に触れた。
「なっ!?」
驚いて固まっていると今度は僕の首筋にキスをする。そしてそのまま耳元へと近づいてくる。
そして囁くように一言。
「ごめんなさい、本当はずっとこうしたかったの」
そう言うとまた耳に軽く口づけをしてくる。
「ちょ、ちょっとお姉さま! 何をしてるんですか!」
慌てて離れようとするもお姉さまは僕を抱きしめて離さない。
「ごめんなさい。でも嫌わないで……お願い」
お姉さまは今にも泣き出しそうな声でそう言った。
「しばらくこのままでいさせて。……そうすれば明日からを乗り越えられる気がするから……」
その声が震えていて。強くて、美しくて、いつも僕を弄ぶように笑うお姉さまが、今はただの一人の女の子に見えた。僕はもう何も言えなくなって、そっと背中に手を回した。
「お姉さま、僕はお姉さまのこと嫌いになったりしませんよ」
「……ありがとう」
お姉さまが震えているのは泣いているのか、それとも別の理由なのかは分からない。けれど今はこうしてあげるべきなんだと思った。
――
「……ありがとう。もう大丈夫よ」
「……はい」
結局あの後もしばらく抱擁が続いたのだが、流石にそろそろ帰らないとまずい時間になってしまったため終了となった。
名残惜しげに体を放すとお姉さまは照れくさそうに笑った。
「ごめんなさいね。変なとこ見せちゃって」
「気にしないでください。姉を思いやるのは妹として当然です。ただ……」
「ただ?」
「理由を教えてください。お姉さまがそこまで……そこまで弱気になるなんてただ事じゃありませんから」
一体どんな辛いことがあったんだろう。想像もつかないし思い当たる節もない。
「……別に何でもないわ。ただの発作みたいなもの。ただ貴方と二人きりになりたかった。それだけ……」
はぐらかそうとするお姉さま。……いえばさっき「明日から」と言っていた。ひょっとして辛いのはこれから? ふと菖蒲さんに言われた不思議な言葉を思い出す。
「……ひの七日間……ですか?」
「!?」
驚いた表情を見せるお姉さま。
「どうしてそれを……」
やっぱり……当たっていたみたいだ。……しかしどうも巨人が世界を焼き滅ぼす映像がちらついてしまう単語だなぁ……。
「どうして……いえ、きっと菖蒲ね、そんなこと教えるのは」
「……教えてください。一体何があるんです? お姉さまを苦しめるものって」
「それは……」
言い淀むお姉さま。……言えないような事情があるのだろうか? だとしたらこれ以上聞くのはまずいかも……。
「明日になれば自然と判るわ……」
「え?」
「……今日は疲れたでしょう。帰りましょうか」
僕に背を向けるお姉さま。……今なら言える。聞かなければいけないことがあるはずだ。
「お姉さま!」
僕の声に立ち止まるお姉さま。振り返りはしなかったけど聞いてくれているようだ。
「僕がお姉さまの力になれますか? その……こういう時に頼りにならないのは自覚してるけど……」
「……」
沈黙が流れる。……駄目だったかな? と、おもむろにお姉さまはこちらを振り向いた。
「既になってるわ。ありがとう」
そう言って微笑みかけるお姉さま。その笑顔はとても綺麗なのにどこか寂しげに見えた。
「さ、帰りましょ」
再び歩き出すお姉さま。僕もその後に続く。
電車に乗り込むと僕はお姉さまに寄りかかるようにして眠ってしまった。昨日は緊張で遅くまで眠れなかったせいか、疲労が溜まっていたらしい。
「あらら、可愛い寝顔」
僕の頭を撫でながら優しく呟く。
「本当にありがとう。こんな私なんかのために……」
唇が頬に触れると、ふわりとお姉さまの香水の匂いが混じった息がかかった。