摩恤肢
「……はそうと、今度から菖蒲とはなるべく話さないで。あと、何かあってもすぐに私を呼ぶこと」
「な、なんでですか?」
「なんでもよ。……とにかく、約束して」
「は、はい。わかりました」
「よし、いい子。……さ、帰りましょう」
いつもの調子に戻ってお姉さまは僕を連れて歩き出す。でも、なんとなしに思う。お姉さまと菖蒲さんの関係。そして菖蒲さんがお姉さまのことをどう思ってるのか。
「お姉さま」
「なぁに、瑞祈」
「ひょっとしてですけど……菖蒲さんのこと、嫌いなんですか?」
「あれが好きな態度に見えて?」
お姉さまは僕の方を向いてくれたけれど、その顔はどこか冷たい。
「いえ、そうじゃなくて……なんかこう……苦手な人とか、嫌いな人への対応というか……」
「……そうね。少なくとも好きではないわね。大嫌いかといえば……ごめんなさい、自分でも表しづらい感覚なの。……仮にも親戚だし」
お姉さまは少し悩んでいるようだった。僕はそんなお姉さまの横顔をじっと見つめる。
「……ひょっとしたら貴方には言っておいた方がいいかもしれないわね。……あまり楽しい話題ではないのだけれど……」
そう前置きしてからお姉さまは語りはじめた。
「前に話したでしょ、武道を学んでいたって。それなんだけど、マンガにありそうな『一族に代々伝わる古武道』的なので、元々は菖蒲家が本家なの。ただ、菖蒲家と分家の杜若家の力関係はちょっと面倒で……いえ、これはいいわ。……そうね、以前に学んでいたのは武術でなく武道だったと言ったけれど、道となる前……『術』だった時代があるの。完全な殺人術。一族の始まりは殺しを生業とする集団からだった……」
「……じゃあ、菖蒲さんはその……」
「『菖蒲』は後に付けたもので元は殺しと書いての『殺め』。時代が下り比較的平和になって需要が減ったからでしょうね、分家達は殺人拳だったものを活人拳に代えて武道とした……」
なにげなく訊いたことをちょっと後悔した。お姉さまは淡々と、無感情というわけでもないけどあくまで事実を述べるかのように語る。
「だから……まあ、あの子のことを私が一方的に毛嫌いするのは違うのよね。私のやってることも所詮、血塗れの手の延長線上でしかないし……。でもね、それとこれとは別の問題なの。あの子がどういう人間かは知ってるつもりだし。それでも……私はどうしてもあの子を受け入れられないし……あの子はきっとそれを知ってる」
僕は言葉を失ってしまった。
「別に同情とか慰めの言葉が欲しいわけじゃない。……ただ、これだけは覚えておいて。私にとって菖蒲は敵。たとえ、あの子に殺意がなくても、悪意がなくとも……――」
「はい……」
お姉さまは言葉を続けることなく歩き出した。もう話は終わりだと言われた気がして僕は俯きながらついていくしかなかった。ただ一つだけ確かなことがある。お姉さまにとって僕は大切な家族で守るべき対象なんだということだけは。
(でも……いや、だからこそ金的好きなのはやめてもらえないだろうか……)
なんだか雰囲気を台無しにしてしまいそうだが、男としては切実な思いを抱くのだった……。
――
自室でベッドに寝転がりぼんやりとしていた僕にスマホが鳴った。画面に映るのは、お姉さまからのメッセージ。
【泊まっていい?】
早速僕は。
【もちろんです! ぜひ】
……なんて書けるわけないじゃないか。いくら僕がお姉さまの「妹」だとしても、僕は男なわけで。お姉さまは僕を妹としか見てないのかもしれないけど……にしては金的に固執するなぁ……。最悪なところだけ男を意識してるようで……はぁ……。
とりあえず、返事を保留することに。その間にもやって来る催促の連絡。はてさてどうしたものか……。
(やっぱり断ろう。部屋に来るだけならともかく、泊まるはさすがにね)
【ダメに決まってるじゃないですか。何かあったらどうするんです】
「……と。仮にも男と女なわけだしね」
「ひょっとして貴方、私を押し倒せるとでも思ってるの?」
「どひッ!? どうして居るんですか!」
てかどうやって入ったの? やっぱりニンジャだ、違いない。
「愛の力?」
「はいはい。それはそうと、今日はちゃんと戸締まりしておいたはずなんですが」
「愛の力にて悪しき空間を断ったからというか……」
けむに巻こうとしてるんだろうけど、この人の場合本当に超常的な力がありそうなのがなんとも。
「名付けて、断空――」
「ワー! ワー! ワー!」
(まったく……やぁーってくれる……)
冗談っぽく言ってるけど、可能性がゼロでないよう思ってしまうのが恐ろしい。いつの間にか背後にいるなんて日常茶飯事だし。
(時空の覇者かこの人は……)
お姉さまはそんな僕の心の声など知らず、平然としている。さて、どう言いくるめて帰ってもらおうか。と考えているとお姉さまの方から口を開いた。
「貴方、菖蒲のことどう思ってる?」
「えっ、菖蒲さんですか?」
「……そうですね、不思議な人……ただ、お姉さまは不満に思うかもですが、そう悪い人だとは感じなかったですね」
おそらくお姉さまにとってあまり良い感想ではないだろうけど僕は正直に答えた。お姉さまはちょっと考えるような素振りを見せた後で、静かに告げた。
「そう……。けど菖蒲には注意して頂戴」
「気をつけるようにします。ところで、お姉さまは……いえ、なんでもありません……」
……本当は訊きたい。でも、訊いてしまったら何か大事なものが壊れてしまう気がして。口にしかけた言葉を呑み込んだ。お姉さまの表情からは何も読み取れず、ただどこか遠くを見つめているようだった。
「そう……」
「…………」
沈黙。その静寂を破ったのはお姉さまだった。
「そういえば……明日、休みよね。暇?」
「はい、特に予定は入ってませんけど」
「ふぅん……。それじゃあ一緒に出かけましょう」
「はい! 行きます!」
お姉さまと一緒にお出掛け。願ってもないお誘いだ。僕は思わずベッドの上で正座してしまう。
「それじゃあ決まりね。……それともう一つ」
「な、なんです……?」
お姉さまはそっと近付いてきて耳元で囁く。
「私にエッチなことしたいなら我慢しなくていいのよ」
「な、なな、何を……」
「……フフッ、なんてね。でも、貴方が望むなら構わないのよ? だって……――」
悪戯っぽい笑みを浮かべて離れるお姉さま。最中、僕の脚の間にある脆弱な卵をポンと叩き上げる。
「私は貴方に金的を求めているのだもの」
「ふぇっ……うぅ……」
本当に軽いタッチでしかない筈なのに、妙に急所に響いて股間を押さえてしまう。まったく、どうしてここはこんなに弱いの?
「あぁ、その反応。思わず金的を押さえて腰を引いて……。それに苦痛と羞恥が混じった表情……素敵……」
ダメだ、頭がすっかり金的モードになってる。こうなったらこの人は本当に……。
「やっぱり金的からしか摂取できない栄養があるわ……」
恍惚とした表情からいかに金的が好きなのかが窺える。女の人……少なくとも彼女に関しては本当にそんな栄養があるんじゃないかと思わせるくらいに。
(お姉さまが楽しめればそれで……てはならないよ、金的だけは……)
諦めの域に達することができればいいのかもしれない。けど僕には……男にはできない境地というものだ。僕は男なんだ。だから金的だけは……。
「ごめんなさい。……大丈夫、大丈夫だから……」
きっと僕の弱音を悟ったのだろう。僕をそっと抱きしめる。まるで子供をあやすかのように。優しく背中を撫でる手つきに少しずつ落ち着いてきた。
お姉さまは、同時にアンビバレントな欲求を持ちつつも、いつも優しい。それはよく知っているつもりだけど、今は特に優しかった。それは僕を安心させるためでもあるのと同時に、彼女自身も落ち着くためのように感じられた。
しばらくそうしていただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した僕は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
「落ち着いた?」
「……はい」
少しだけ顔を上げてお姉さまを見る。相変わらず慈愛に満ちた微笑み。改めて思う。この人はやはり大天使なんだと。
「あの……ありがとうございます」
「別にいいのよ。それにこれは私のためでもあったから」
「……はい」
やっぱり抑えていたんだ、金的への衝動を。
「……」
無言でお姉さまは立ち上がりドアの方へと向かう。
「明日に備えて今日はもう寝ることにするわ。また明日ね」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ」
そうしてお姉さまは出て行った。
「はぁ……疲れた……けど――」
なんだかドキドキしている。振り返ると例によって例のごとくセクハラされたわけなんだけど、なんというか……。
「やっぱりズルいな……お姉さまは」
あんなことをされて、それでも嫌いになれない。むしろ好意を抱いてしまう自分がいる。
「だから決してマゾじゃないんだからね!」
誰にか分からないけど必死な打消し。……でもなんだかツンデレくさい言い方になってしまった。
これじゃフラグじゃないか……泣ける。