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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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悪癒

「……ちょっと、青が濃くなった気がする」


 ふと、そんな印象を抱いた。空の青に、何かが一段階はっきりと乗った気がした。春の柔らかさが失せ、より鮮やかに――そう、少しだけ遠ざかったような気さえして。


(……そろそろ初夏、か)


 女装して女学院に通うという無茶。始まった時点から心が重くなるのは当然だった。生活のすべてが緊張で満たされて、お腹だって痛くなる。……でも、それ以上に――。


 ――股間の急所が、怖い。


 思わず手が、スカートの上から体の中心へと向かう。もちろん行儀がいいとは言えない。でも、あの痛みを思い出した瞬間に身体のどこかが凍るような、苦みと寒気がせり上がってきて。


「……庇ってしまうんです」


 誰に言うでもない、でも僕にではなく「彼女たち」に弁明した。決して理解や共感を得られないだろうけども。

 男は他人の痛みに鈍感だと言われるけれど、この痛みに関してだけは逆だ。理由もなく、相手が誰でも、本当に自分のことのように想像してしまう。だからこそ――。

 僕がここでどんなに可愛く女の子の恰好をしていても、この学院において僕は本質的に「一人」なのだ。

 しゃがみ込むと、視界の中に自分のスカートが落ちてきた。

 

 ――このスカートの中に、あってはならないものがある。


 本来の持ち主たちには無縁の急所を抱えた紛い物。もし蹴られたなら、間違いなく僕は「女を装う」ことなどできない。この敷地に、僕のような不幸な存在はひとりきり。


 ……空はきれいな青だった。青さを増していた。でも、僕の中にある「ブルー」とは、まるで違うものだった。重く、苦く、冷たい。まるで、蹴られた後に腹の奥から湧き上がってくるあの重苦しさのような……。


(……ダメだ……気分が……)


 自分でもわかる。落ち込みすぎている。そもそも、金的を思い出しただけでここまで劣等感をこじらせるなんて。


(SSじゃないんだから……。ネットに転がってる、そういう男向けの――)


 そう思いたいのに、笑い飛ばすことができない。毎日の緊張が変な形で緩んだだけかもしれない。五月病って、こういう仕組みでかかるのかもしれない。


(怖い……)


 股間に急所があることが怖い。他の誰にも、それがないという事実が怖い。


(逃げたい。どこかへ……)


 ――だって僕は、「妹」だから。


 お姉さまは本当に姉だけど、僕は「妹」という関係でしかない。つまり、それは――。


「……女の子には、急所がないんだから……」


「――なるほどねぇ」


(えっ!?)


 反射的に顔を上げた。そこには、白かった。信じられないほど白い女性が立っていた。日傘を差しているはずなのに、なぜか「影」を感じない。周囲の景色から浮いて見えた。

 ゾッとした。さっきまでの自己嫌悪とは別の、冷たい震えが身体を貫いた。彼女の姿形がどうというより――その存在が、空気を変えてしまうような感覚。


(……お姉さま……に近い……? でも違う)


 お姉さまは黒や紫のイメージで、それでいて不思議と神聖で――だがこの人は、白。圧倒的に白。


「でもまあ、それはそれで、可愛らしい悩みなんでしょうけどね」


 彼女は取り出したハンカチで、そっと僕の目元を拭った。……涙が出ていたのか、僕は。


「露草さん……だったかしら? 男の子なんでしょ、貴方」


 え? あっさり? 会ったこともないのに? この展開、どこかで……。


「……やっぱりそういう関係なのね。安心して。私に、男性の股間を蹴って悦ぶ性癖はないから」


「あぅ……」


 反射的に股間を庇ってしまっていた。……もう、隠す意味はなさそうだ。小さく頷いた。


「あの大天使様が誰かに執心になるなんて、ちょっと不自然だったのよ。……あ、ごめんなさい。名乗ってなかったわね。菖蒲。以後よろしくね」


「ど、どうも……」


 自然と固まってしまった。僕から聞きたいことは山ほどあるのに、この人の存在感に思考がまとまらない。お姉さまとはまったく違うのに……なぜか、絶対値は近いのかもしれない。


(美しさも……別ベクトルで同じくらいなんだよなぁ……)


「横、いいかしら? 貴方の股間には興味ないけど、貴方自身には興味があるし。――それに、きっと貴方の方も、私に聞きたいことがあるんじゃない?」


 そう言って、腰を下ろした彼女の動作は驚くほど静かだった。


(……ほそいなぁ……腰も、手首も……)


 その線の細さと白さに、最初に感じた「ゾッとする」感覚の正体が少しわかった気がした。健康的とは言い難い、けれどどこか現実離れした白さ。


「……何から話せばいいかしらね。ああ、ちなみに日傘は、生まれつき肌が弱いの。学院の許可も取ってるわ」


「……あ、すみません……」


「気にしないで。日傘さしてる生徒がいれば、気になるのが“普通”よ。『なんだあの恰好はぁ?』ってね」


 その言い方――。妙なイントネーションに、思わず顔をしかめる。……そういうネタはわかってる口ぶりだった。なるほどクリムゾンの眼を持っているけど……。

 ちなみに後で検索したらアルビノの確率は100万人に1人ではありませんでした。惜しいね。


「クソゲー知識も、たまには役に立つものね。少しは離れられたんじゃない? その、劣等感から」


「……!」


「残念ながら、私は女。精巣なんてついてない。でも――貴方の心を軽くするくらいなら、できると思うわ」


 お姉さまとはまったく違うベクトルで、でもどこか絶対値が近い不思議な女性、菖蒲さん。


 彼女もまた――僕の奥底に、触れてきたのだった。

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