仮美、死善、偽術
「困ったわね……」
しょっぱいような、苦いような顔をするお姉さま。それが僕のためであることは、ありがたい。ありがたいのだけれど……。
「……まだ朝の五時過ぎなんですが……」
東の空がようやくうっすら明るみはじめ、クロッカス色のグラデーションが流れていく。空気には紫が混じっていて、青よりも冷たく、でも静かで――まるで時間が眠っているような早朝。
「早起きは三文の得、善は急げ、ってやつよ」
どこ吹く風といった態度のお姉さま。いや、早朝に起こされただけならまだしも――。
「どうやって部屋に入ったんですか……?」
先日のことがあるから、昨日はちゃんと施錠した。疲れていたとはいえ、鍵をかけた記憶には自信がある。……それなのに。
まさか忍者? 現実的なピッキングとかより、むしろ天井から「ニンニン」って降ってきそうな出現のしかただった。
けれど、もっと言いたいことがある。
「どうして布団の中にいたんですか!!」
本当に、文字通り、飛び起きた。心臓が裏返るかと思った。
「『むにゃむにゃ……何か柔らかいものが〜』ってホントにあるのかしらって」
「あるわけないでしょ、そんな漫画みたいな展開。第一、本当に触られたらどうする……!」
「男の子が女装して女学院に潜入する方が、ずっとあり得ないと思うけど?」
「んぐっ」
ぐうの音も出ない。……急所攻撃が得意なだけある。
「胸くらい、安いものよ。……そうでしょ?」
お姉さまの視線が、下に向かう。ほとんど反射的に、腰を引いて太ももを閉じた。情けないかもしれないけど、男の習性だ。この動作そのものが、きっと彼女を喜ばせる。守るということは、そこがどれだけ脆いかを意味してしまうから。
「なんで金的が前提なんですか……」
「冗談よ冗談。でも……そういう顔も素敵よ、瑞祈」
……とても可愛らしいけれど、ちっとも嬉しくないウインクが返ってくる。
ああ言ってるけど、絶対冗談じゃない割合が混じってる。たぶん3割は本気だ。小悪魔的な大天使、なんてタチが悪いんだか……。
「……何のために、わざわざ来てくださったんでしたっけ?」
「悪かったわよ。一応、これでも少しは責任感じてるのよ。昨日は“気にするな”って言ったけど、実害出そうなのはマズいし……蘇芳さん、だったかしら? あなたの幼なじみに怒られちゃったの」
まさかの直訴。
……サキらしいというか、実に効果的というか。後で聞いたけど、かなりの覚悟で突撃したらしい。お姉さまは憧れの象徴であると同時に、畏れの対象。近寄りがたい、怖い人、だったと。
……僕の前では残念な人に成り下がることもしばしばあるけど。いや、しばしばどころかしょっちゅう、かもしれない。
ただ、僕にとっては残念なんて感想が出る前に、もっと根本的に――「怖い」存在でもある。
彼女がそばにいると、その……ドキドキが止まらない。それも、心臓がというより、身体の別の場所が、心の臓のように脈打ってしまうのだ。
チャームとテラー――。
ゲーム的に言うなら、そんな相反する状態異常に同時に冒されてる感じ。陶酔と恐怖。僕の中に、僕よりも強く震えてる「なにか」があって、それが外付けの演算装置みたいに勝手に反応する。
――本当に、おかしな感覚だ。
「……ひょっとして蘇芳さんによるものかしら? 金的の『傷跡』って」
……唐突な問いかけに、思考が一瞬で停止した。けれどそれとは裏腹に、膝はぴたりと閉じていた。
(……なんで「古傷」のことを……?)
「『どうして知ってるの?』って顔ね。初日に介抱したとき、分かったの。言ったでしょう? 金的には、敏感だって」
「でもそれはちょっと、ニュアンスが……」
「そんな細かいことはどうでもいいの。でも、羨ましいわ、あの娘」
言いながら目を伏せるお姉さま。唇にかすかな笑みが浮かんでいた。
「……だって、自分を貴方の中に、強く、強く……なによりも深く刻みつけたんでしょう? それって、ちょっと妬けるわ」
完璧な存在が、嫉妬。理由が理由なだけにサキには言えないが、まさかの告白だ。たとえその中身が、痛みの記憶に対するものだったとしても。
その言葉とともに浮かべるお姉さまの表情――物憂げで、でもどこかうっとりしていて。目の前の光景だけを切り取れば、それはまるで一幅の絵画。内容を知っていてなお、心を奪われてしまいそうな美しさ。真でも善でもない。けれど確かに、それは「美」だった。
――
僕は、「古傷」のことを――かいつまんで話した。
……たぶん、話さなくても言わされていただろう。彼女の尋問方法は想像がつく。他の場所ならまだ我慢できるけれど、そこだけは……。
羞恥と屈辱をこらえ、視線を合わせないようにしながら、できるだけ淡々と。……けれど、彼女の表情はやはり興味津々で、目はぴたりと動きを止めていた。
「そう……とっても素敵……」
……って、なんでそこでその感想になるの!?
「……ごめんなさい。貴方にとっては災難そのものよね……」
申し訳なさそうに俯いたお姉さま――だけど、その頬は明らかに、少しだけ赤い気がした。
「ねぇ、瑞祈……」
その声は、静かでやさしい。けれど、底が知れない。
「……なんですか?」
「裂傷があるのは、左側の金的よね。だから――」
言葉の続きを聞く前に、身体が先に反応していた。
「絶対にダメです!!」
叫んでいた。反射的に。全力で。頭も腰も布団に潜り込んだ。我ながら、情けないといえば情けない。けれど、仕方ないだろう。
なにせ「金的に古傷があること」を知った彼女が、そこを「どうにかしよう」としてるって分かってしまったのだから。
冗談でも、試されてたとしても、僕にとってはシャレにならない。その部位に対する、彼女の執着は――とても、笑って済ませられるものじゃない。
いや、ある意味では笑える。
優雅で知的で美しく、完璧で超然とした存在である彼女が、男の子の急所にここまで執着しているという現実は普通に考えたらおかしい。
けれど、僕は知っている。それがただの性癖でも悪戯でもなく、彼女にとっては「世界の構造を示す象徴」みたいなものであることを。
支配と庇護。力と弱さ。憧れと羞恥。
――その全てが、「そこ」に込められているということを。
だからこそ怖い。だからこそ、逆らえない。お姉さまの笑顔が慈しむように柔らかければ柔らかいほど。その裏にある「確信」が僕の股間を氷のように冷たく震わせる。
お姉さまは僕のそういう姿をきっと「美しい」とすら思っている。僕自身の心が「ここに震えていれば許される」と思ってしまうことを、すでに見抜いている。
――これじゃ話が、まったく進まない。
けれど。
お姉さまにとっては、それでいいのかもしれない。だってきっと、彼女はこういうふうに「世界と向き合って」いるのだから。
僕が叫び、膝を閉じ、声にならない抵抗を見せたこと。それを見て、彼女がどんな顔をしていたのか――怖くて見られなかった。
ただ、確信だけはある。
あのひとは、絶対に、笑っていた。