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天使が来りて玉を蹴る  作者: 漫遊 杏里
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遅刻もん

 青い空。満開の桜。 春の陽光は柔らかく降り注ぎ、風に舞う花びらが地面に淡い影を落とす。 周囲の世界は、まさに新生活の祝福そのもの――なのに、僕の心だけはどんよりと曇っていた。


 すべての発端は半年前だ。


「あ‥‥あ‥‥?」


 思わず口をつぐむ僕に、母は微笑みながら、まるで「今日の夕飯はハンバーグよ」とでも言うように告げた。


瑞祈みずきちゃんは来年から、母さんの母校――瑤祁莉(ようきり)女学院に通うの」


 思考が一瞬でホワイトアウトした。女学院。文字通り女子しかいない園に僕が入る……だと?


「だって、僕、男だよ……?」


(女学院に男子生徒。存在自体が矛盾してるじゃないか……戦争根絶のために武力介入する『天使』なテロリストと同じくらいの矛盾だ……)


 母は微笑むだけで答えはない。いや、答えはある――「大丈夫」と。  しかし僕の目の前にある現実は、女装して学院に通えという、あまりに理不尽な命令だった。


「大丈夫よ。瑞祈ちゃん、とってもカワイイし」


(問題はそこじゃない……いや、同性にナンパされたことはあるけど……泣ける)


 母はさらに静かに言葉を重ねた。


「それにね、これは家訓なの」


 僕の家は代々、皇族や高貴な家に仕える女性たち――家庭教師、秘書、世話役などを輩出してきた家系だ。家督は常に女子に託され、その教育機関は明治以降『瑤祁莉女学院』と決まっている。都合よく女の子が生まれ続けていたものの、僕の代でついに男しか生まれなかった。……つまり、伝統を守るために女装して通えというわけだ。


「そんな無茶な……」


「悩んだわ。でも、もう子どもは作れない年齢だし……ううん、見た目の若さはリー・〇ャオランくらい維持してる自信はあるけど」


(そのたとえ、余計わかりにくいし……微妙に『エクセレント』な自慢も入ってる……)


 父は数年前に他界し、再婚の予定もない。僕は四人兄弟の末っ子で、頼みの綱だった次に生まれるはずの子は流産――すべての不運が、この決定を後押ししていた。

 そして――僕は半ば押し切られるように、母の言葉という激流に呑み込まれたのだ。


「……大丈夫! 母さんがなんとかしてあげる!」


(まさか、本当に「なんとかなる」とは思わなかったけど……)


 ――そして、現在。


 春の空はどこまでも澄み渡る。桜が舞う。花びらの香りが、微かに鼻腔をくすぐる。 ……なのに僕の心は、ゾンビの大群に囲まれた新米警官のように絶望していた。


「泣ける……」


(火炎放射器でも落ちてこないかな……いや、あっても撃つ度胸はないけど)


 現実逃避気味に歩いていたせいか、気づけば迷子になっていた。郊外にあるこの学院は広大で、受験のときも迷いかけた思い出がある。


 遅刻――それは最悪の事態だ。遅刻して教室に入る→注目を浴びる→バレるリスク増大。

 人生のレバー入れ大ピンチだ。インド人を右に!!


(ヤクイ!)


 焦るあまり視界が狭まる。糸目キャラ並みに目が細くなっていた……気がする。

 そんな僕の前に、桜の影からふわりと人影が現れた。迷子の恥ずかしさより遅刻の焦りの方が勝る――はずだった。しかし、僕はその人影に視線を吸い寄せられてしまった。


「あの、すみません……あっ!――」


 振り向いた瞬間息を呑む。漫画でよく見る「時間が止まった世界」というのは実在したらしい。目の前の彼女は存在そのものが芸術作品だった。


 スラリとした長身、艶やかな黒髪、整った顔立ち、瞳に宿る知性――。桜も空も霞む。彼女以外の世界から色彩が消え失せたかのようだ。


(芸術とは爆発……じゃなくて、三百年は持つものだって誰かが言ってた……でも、違う。今、目の前の『瞬間』こそが芸術だ)


 呆然と立ち尽くす僕を現実に引き戻したのは、彼女の涼やかな声だった。


「貴方……男の子ね?」


 ――!?  言葉を失う。心臓が跳ね上がる。


(なんでバレた!?)


 元々女顔だし、成長期特有の骨格の変化も薄い。声変わりもまだで、体型は華奢。情けないことに、要素だけ見れば完全に女子だ。それにこの半年間、母に(嬉々として)女子の所作を叩き込まれた。服屋に行けば店員に「お嬢さん」と呼ばれ、同性からナンパもされた。……あれ、思い出したら悲しくなってきたぞ。……とにかくバレない自信はあったのだ。それなのに――彼女には一瞬で見抜かれた。


「あっ……いや、そんなわけじゃ……アハハ」


 しどろもどろになる僕に彼女は一歩近づく。桜の香りが強くなる。


「そう……それじゃ……――」


 その瞬間。


 ――パンッ。


 乾いた破裂音が春の静寂を切り裂いた。彼女のしなやかな脚が鞭のようにしなり――そのつま先が、僕の――脚の間に吸い込まれていく。


(ま、まさか……!?)


 遅れてやってきたのは脳髄を焼き切るような鋭い痛み。声にならない絶叫が喉の奥で詰まり、僕はその場に崩れ落ちた。息は吸えず、指先の感覚も鈍る。胸は締め付けられ、全身が理不尽な激痛に支配される――


 地面にうずくまり、脂汗を流す僕。

 そんな僕を見下ろし、彼女はそっと耳元で囁いた。


「ほら、やっぱり」


 痛みと羞恥。混乱と、奇妙な高揚。

 全身で世界(と痛み)を感じながら、僕は理解した―― この人が、僕の人生にとんでもない波乱を巻き起こす台風の目であることを。


 こうして、僕とお姉さまの――奇妙で、痛くて、心も体も揺さぶられる出会いは幕を開けた。

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