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財布

作者: 小松八千代
掲載日:2017/06/08

バスは満員だった。通路も押し合いへし合いの状態だ。朝ハ時頃で通勤ラッシュということか。私はバスの真ん中あたりの座席を、若い男が譲ってくれてそこに座っていた。

最近、バスに乗ると、若い人が立ち上がって、すぐに座席を譲ってくれる。ここの人はとても親切なのだ。「私、そんなにばあさんじゃないわよ」と言いたくなるのを、我慢して「ありがとう」とにっこり笑って、素直に座る。親切は素直に受けるべし。なにせ、おんぼろバスで揺れが激しい。

市内に近づいて、何人か降りると少しすいてきた。退屈まぎれに、人の足、正確に言えば足とズボンの間に視線をくぐらせてみると、反対側の座席の下に何か落ちている。茶色い財布のようなものだ。いや、財布だ。財布が落ちてる。二つ折りの四角い皮のメンズ財布のようだが、女性でもこういう財布はよく持ち歩いている。あそこに座っている人のかな。財布が落ちているところの座席には、長い髪の若い女が座っている。でも、さっきから乗り降りが激しくて、今座っている人のではないかもしれない。

自分のでなくても「ありがとう」と、言って持って行ってしまうので、うっかり「これあなたのじゃありません」などと言えない。正直に「いえ、私のじゃありません」という人もいるにはいるが。たいてい「はい、私のです」と言って持って行って、現金だけとって、財布はそこら辺の道端にポイだ。したがって落し物が帰ってくるということはめったにない。

いつの間にか、私が降りるはずだった、デパートの前を通り過ぎてしまった。今すぐ降りれば、二百メートルぐらい、後戻りすればいいのだが、あの財布が気になる。ちらちらと目線を財布に向けて、うん、まだ誰も気が付いてないようだ。買い物なんか、もうあとでもいいや。

友達の息子の結婚祝いの品を買いに、わざわざ市内のデパートまで、出かけて来たのだが。また反対方向に行くバスに乗ればいい。

ここは、祝い事は金品じゃなくて、品物をプレゼントする慣わしだ。まだ何を買うかも決めてない。なにがいいか、所持金と照らし合わせて、買うのもけっこう暇がいる。金なら簡単ですむのに。また、もらう人も好きなものが買えていいんじゃないかな。

そんなことを考えていると、財布の落ちている、座席の人が降りて行った。私は速やかにその座席へと、移動した。並びの席の一つ前の席だ。落し物を拾うなどということは、めったにない。一生のうちに何度あるか。六十何年生きていて、財布を拾うのは初めてだ。俯いて座席の下に手を伸ばした。

このバスの座席は、鉄パイプの足が四本伸びているだけだ。でも、かなり俯かないと財布が見えないし、手も届かない。やっと財布を掴んで拾い上げようとすると、重い。力任せに引っ張ろうとすると、ますます重い。座席の下に頭を突っ込むようにして見てみると、ごつごつした男の手が財布を掴んでいる。

「放してよ。私の財布よ」

「奥さんの財布じゃないでしょう」

「私のよ。あんたの財布じゃないでしょう」私は声を荒げた。

乗客の視線が、男の方に集まっているようである。男を怪しんでいるようだ。調子が悪くなったのか、手を放した。

起き上がって、ひょいと後ろを振り向くと若い男だ。

「僕の財布ですよ」私の顔を凝視して、少し笑いながら言った。

財布を開いて、身分証明書、運転免許書、名刺などを確認した。現金は、六万ガラニー入っていた。日本金で千二百円ぐらい。もつと入っているのかと思っていた。肉は安いから焼肉ぐらいはできるか。

私は、また後ろを振り向いて「ざんねん。あんたのじゃないわよ」そして、二つ折り財布から抜き出した身分証明書に貼り付けてある写真を見せて「おばあさんよ」と、言うと「僕のお母さんですよ」なんとまあずうずうしい。そこまでいうか。

と、後ろの座席から「運転手に渡せばいいんだ」と、しわがれ声が飛んできた。声の方を振り向いてみると、運転手に渡せと、年配の男が顎をしゃくった。私は、身体を回して運転手を見る。背もたれから出ている、逞しい肩と、黒光りしている、頭に目をやった。顔は見えないが、若い男のようだ。横長の細いバックミラーに、少し垂れ下がった黒い髪と、張りのある額が見える。運転手が顔をあげると、笑っている目が一瞬映った。ん、だめ、盗られちゃう。焼肉にして食べられちゃう。だめ、だめだめだめ。

「ああ、もうここでおります」大きな声で言って、乗降口に向かうと、何やら背中の方に張り付くような視線が。横を向くと運転手もじーっと私の顔を見ている。ちゃんと、返しますよ。返しますから。私はそそくさと、バスを降りた。



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