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思い出坂をくだって

作者: 橋本ちかげ

親父の行きつけの店はまだ 駅前商店街の隅にあった

円く肥った銀杏のかき揚げと 柚子胡椒が利いた牛筋の煮込み

一度でいいから一人で 食べてみたかった

天井から下がったテレビで夕方のニュースを見ながら

おともにビールと冷酒を少々

よくよく聞いたら 今の女将さんが親父の同級生で

とれたてのカンパチの刺身まで サービスしてくれた


このお店が住宅街の入口で 大きな神社の敷地をぐるりと迂回する

分譲地の切れ目 集合団地が近く 

椿の葉っぱの生垣に囲まれた意外に狭い更地が

かつて 僕の家が建っていた場所だ


小ぢんまりとした一角 これでも百坪近くはある

何もかも片付けてしまうと 

思い出なんて

なんてことない呆気ないものなのだと気づく

ここには続きで二軒、似たような家が建っていた

両親に子供が一人 家族構成も年代もほとんど同じ

お姉さん代わりだった 二つ上の隣の女の子

高校まで一緒で さっき来た道を春夏秋冬 一緒に歩いた


思春期になると

僕はそう思わなかったけど

いつも少し眉毛と足が太いのを気にしていた

春に出たての野うさぎみたいに潤って よく動く茶色い瞳

黒い豊かな髪が腰まであって 遠くからでもすぐに分かった

彼女も同じように

すぐに僕のことがわかって

別の友達と遊んでると 遠くから出し抜けに声をかけられて

よく びっくりさせられた


集合団地を通り抜けると 少し仄暗い遊歩道の坂があって

それが秋になると 目が醒めるような黄色い銀杏の並木が一斉に色づいた

今通ると確かに 何でもない坂で

僕と彼女も毎日 何年も 何気なく通っていた

見上げると

今年も真っ黄色の銀杏の葉が 煤けた街灯を包み込むように張り出して

側溝を埋め尽くす落ち葉は 

濡れた雨と砂利の匂いがした


実は

ほんの一週間だけ 彼女と恋人同士だったことがある

中学二年のときから 彼女は一つ上の陸上部の先輩と付き合っていて

大ゲンカの挙句 別れたのだった

彼女の愚痴をこの坂で 一週間くらい聞いた

「ひどいな、僕ならそんなこと言わないと思う」

恋人のいた試しのない僕が言えるのは その程度のことに過ぎなかったけど

「そうね。君と付き合った方が幸せになれるのかもね」

泣きべそをかいたまま彼女は 嬉しそうに笑ってくれた

結局一週間 恋人同士なのか幼なじみなのかのデートをしたあと

彼女はよりを戻した 

自然消滅だったけど僕は 何も言わなかった

ずっと彼女が好きだった

でもこれは違う 

初めから

そう思っていたから


銀杏並木のスロープの果てに 僕たちが通った中学校がある

看板が取り外されて そこはすでに廃校になっていたけど

プールはまだあった 秋の落ち葉がうっすら残った水に浮いていた


僕が高校一年生の終わり

中学から付き合っていた彼女の恋人が 死んだ

大学の合宿で奥多摩に行って カーブを曲がり切れず転落したのだ

彼女はそれを

何気なくみた 朝のニュースで知った 大騒ぎになった

周囲に翻弄される彼女にどう話しかけていいのか 僕には分からなかった

その朝も彼女は普通に

「一緒に学校行こう」

って僕を迎えに来たからだ

その晩お通夜に行った彼女を 僕は知らない

春 彼女は恋人のいなくなった大学に進学した


その年の夏 帰省した彼女と夏祭りに行った

大学の話はしなかった ちゃんと勉強してるの?くらいしか聞かれなかった

僕は知らなかった 彼女が大学の授業にあまり出ていなかったのを

その日の彼女は とても楽しそうだったからだ

昔の話ばかりをして 僕が幼かったときの失敗をからかった

ちょっとテンション上がり過ぎじゃないか そう思うくらい


「プール入っちゃおうか」

悪ふざけが過ぎた彼女が言い出したのが そんなことだった

水泳部が毎日練習するプールは 今と違って綺麗な水が張っていた

彼女はそこに 服のまま飛び込んだ

お祭りでビールを飲んでいた 彼女が少し酔っているのを僕は知っていた

「早く来なよ」

「いいよ。誰か、人が来ないか見てなきゃ」

にべもなく言った僕に 彼女は心底詰まらなそうな顔をした

「遊ぼうよ」

「いやだ」

もう今日一日で十分だった

何か不自然なものに

久しぶりに会った僕を

巻き込もうとする彼女を見るのが堪えられなかった

「もう子供じゃないんだ」

僕はしつこい彼女を振り切って言った

するとそのときさっと 誰かが拭き取ったみたいに

彼女の上機嫌は去った

「そう」

彼女は別人のような冷たい女の声で言った

「だったらもう帰る。早く引き揚げて」

差し出された腕は透き通った水を弾いて 輝いていた

その手を握った僕は引きこまれて 生ぬるい真夏のプールの中に落ちた

「まだ子供のくせに」

彼女は何事もなかったように

けらけら笑いながら 僕に水をかけ続けた


「どうしてよ」

ふいに彼女が言った

細い肩が 震えているのが分かった 

咲き初めの花びらみたいな若い唇が蒼褪めていた

今まで彼女は笑っていた 僕は笑い過ぎて肩を震わせてるのだと思った

「どうして忘れなきゃいけないの!?」

彼女は僕に訴えた

「今みたいにこんなに、楽しかったのに!…そんなことばっかりだったのに!」


その年の冬 彼女は大学を辞めた

海外に行ったらしく それからまったく音信不通になった

彼女の親によると 大学のサークルで酔った先輩に乱暴されそうになったらしい

「どうして忘れなきゃいけないの?」

その男が 彼女に何を言ったのかは分からない

ただあの言葉が 僕に言ったものではないことは分かった

でもその一言を 僕に放った 

どこかでそれを言わざるを得なかったのだ

誰にも吐き出せずに 誰にも分かってもらえなくて

あれから

一番強くため込んでいたその気持ちを 

僕にぶつけてしまった

それでも彼女が好きだった

いつでもすれ違ったけど

ずっと好きだった

でもそれから

僕は二度と 彼女に会えなくなった


銀杏並木は終わっていた

遊歩道には もう誰もいなかった

団地の窓にまばらな明かりが灯り

夕飯の匂いが漂っている テレビをつける気配がする

この辺りは まったく変わってなどいなかった

そしてここに立つまだ 高校生だった僕は途切れた

LINEが入った

そんな風につながる手段も当時なかった

言葉を投げかけてきたのは今の妻だった

「今どこにいるの?」

過去

僕はその言葉を苦笑とともに ひっそり飲み下した

僕たちは忘れていく

やっぱり 忘れていかなくちゃならない

でも消えてなくなったわけじゃない

だから 忘れていかなくちゃならない

でも確かに自分の中にある 

そう気づくまで


更地になった僕たちの家を 想った

あそこは二軒連棟の介護グループホームが建つらしい

「あと二年待てば自分のうちに住めたのにな」

施設で親父がお袋と苦笑してたのを思い出した

僕は近くの叔父の家に立ち寄り あの更地から引き揚げた

家族が忘れ遺していったものを引き取った

するとここに 僕たちを偲ぶものは全てなくなった


やがてみんな ただの思い出になる

ずっと好きだったあなたに もう会えなくなったことも

でもみんな ただの思い出だ

今日の僕もやがて思い出になる

また少し老いた僕や 他の誰かの


秋の陽が暮れた

闇の中で 銀杏木立の蔭から沈む陽が射していた

「すぐ帰るよ」

改札を通る前僕は妻に

ただ一言返信を打った


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[良い点] わー……。 なにげなく読ませていただいたら。 切ない。 もう想い出の中にしか存在しない場所・物・建物、そして人。 それがすごくあらわれていました。 最初の食べ物のくだり、ちかげさんらし…
[良い点] まるで主人公と共に歩きながら思い出に浸っているようなそんな感覚になりました。大人になった主人公が若いころをし思い出している様はしっとりとしているようで、常に一歩間違えば……というギリギリの…
[良い点] うわ~、さすがです。 トリにとっておいて良かった! 遅ればせながら拝読しました。と、書く前に心の声が出ちゃいました。 最初の食べ物の描写を追いかけるように 主人公の若い甘さ、苦さが絶妙に…
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