私が死んだ後のことを。
「初めまして」だなんて、非道いわ。どうしてそんなことが冗談でも言えるのよ。笑いながら言うと、貴方は困ったように目尻を下げたわね。そして、苦しそうな笑みを浮かべるの。
「僕はどうやら、記憶を失ってしまったようなのです」そんな、そんなの嘘でしょう?私、信じないわ。だって私達、永遠の愛を誓ったのよ。神様がそれを見届けたわ。勿論、私達の親しい人達だって。
「泣かないで」ですって?泣かせたのは、貴方よ。――いいえ、ごめんなさい。動揺しているのよ。どうすればいいのか、分からないの。
ねえ、私達は赤ちゃんの時から一緒だったのよ。ああ、貴方は私の二つ上だけれど。でも、そんな小さな頃からいつも一緒だったの。昔はよく、兄妹のようね、なんて言われたわ。私一人っ子だから、それがとっても嬉しかった。思春期が訪れる頃までずっと、貴方のことを「お兄ちゃん」って、呼んでたのよ。――覚えて、いるかしら。駄目?…………そう。
そうね、思春期に差し掛かると、私は貴方のことを兄のように慕うのが恥ずかしく感じるようになっていったの。家族ではないのに、家族のようで。けれども全くの他人なのよ。それが妙に恥ずかしかったの。思えばきっと、あの頃なのよね。――え?もう、察しが悪いんだから。……やだ、謝らないでよ!からかっただけよ。あ、そうね。“あの頃”って、貴方に恋をした時期のことよ。いつでも優しい貴方が、大好きなの。愛しているわ。……いいの、今は応えはいらないわ。でもね、貴方が記憶をなくしていたって、貴方だということに変わりはないの。だから私、貴方のこと愛しているわ。そう伝えたいだけなのよ。
「ありがとう」だなんて、もう、本当に生真面目なんだから。ああ、続き?そうね。――ティーンエイジャーになった私達は、気がつけば随分と遠くにいたの。心の距離が、ね?お互いに年頃で、正面から向き合えなかったのよ。それで私達二人とも、自分の本当の気持ちに蓋をしたまま、何人かと付き合ったりもしたわね。
「信じられない」?あら、私もよ。今はこんなに貴方のことを愛しているのにね。でもそう言ってくれて、嬉しいわ。
「僕達が本当の気持ちに気がついたのは、いつ?」って聞かれても。うーん、明確な時期はないのよ。ただずっと、この人が私の運命の人じゃないって、思ってたわ。貴方もそうだって聞いたわ。付き合い始めたのは、私が16になった日よ。――いつだか、分かる?
「僕が特別だって、感じている日かな?」なんて、もう、歯が浮くわ!――………ええ、そう。そうなの。昨日よ。昨日が私の誕生日。そして結婚記念日だわ。貴方、私が喜ぶことは全部、誕生日にしようとするの。ねえ、どうして?
「君が生まれてきてくれたことに、感謝しているから、かな?」って、もう、気障なんだから……。ありがとう、嬉しいわ。
「泣かないで」だなんて、貴方が泣かせているの。さっきもいったじゃない。――最近、貴方には泣かされっぱなしよ。嬉し過ぎて、怖いくらい。
「僕も、幸せだ。怖いくらいにね」って、貴方、記憶が戻ったの?「何のこと」って………。そう、まだなのね。よく、似たような会話をしたのよ。貴方にプロポーズされたときもかしら。二人の……そうね、合い言葉?そんな感じなの。怖いくらい”って、私の口癖だから、貴方真似しているのよ。――まさか。私、そう言う身内にしか伝わらないジョークって、好きよ。
「君の名前、まだ聞いていないね」だなんて、今更?当ててご覧なさい。外れたって、怒らないわ。
――……ジェニーは、貴方の初めてのガールフレンドの名前よ。ジェーンは三番目。アンジェラですって?貴方、アンジェラとも付き合っていたの?
「冗談だって、僕のジェシー」?……ジェシー!僕のジェシー!それよ、その呼び方!ジェシー。そう、それが私の名前よ。やったじゃない、記憶の方はどう?
「そうだね、例えば、君の項には黒子が2つ」って、あら!もうすっかり思い出したのね!早かったじゃない。これは私への愛の強さかしら?――ちょっと、否定してよね、恥ずかしい!……でも、そんな貴方を愛しているわ。
「だからね、家へ帰りなさい。心配しなくたって、私貴方をいつまでも愛しているんだから。まだ貴方は、ここへ来てはいけないの」
そっと頬を撫でると、私の指先が濡れた。これは、貴方の涙ね。ちゃんと、全部思い出したんだわ。
「君を、独りには出来ない」
「私なら大丈夫よ。貴方が来るのを待ちながら、二人に相応しい場所を用意しておくわ」
でも、貴方は首を振る。まるで幼い子供のようだわ。髪を撫でて、肩に手を置く。そうして振り返らせると、私にも彼の肩越しに美しい光景が見えた。私達が幸せに暮らす予定だった、素敵な家。広い庭には、白い小さな花が揺れているわ。あれはカスミソウね。私が好きだから、植えてくれているのね。
「……僕は、独りになりたくない」
………卑怯だわ。私が貴方に弱いのを利用するだなんて。でも、今回ばかりは譲らないんだから。だって――
「貴方はまだ、生きられるのよ。諦めちゃ、だめ。私が死んだ時だって、耐えたじゃないの。だから病気なんかに負けないで」
「……あの時は、僕達の子供がいた。でももうあの子は大人になったんだよ、僕のジェシー。あの子は僕の手から離れてしまったんだ」
「ええ、見ていたわ。立派に成長したわね。でもね、あの子にはまだ貴方が必要なのよ。ほら、よく見て。あの子、泣いているわ。そして私に、祈っている。どうかもう少しだけ、パパを連れて行かないでって」
ベッドを指差すと、ベッドに眠っている中年の男と、そのそばでお祈りをしている可愛らしい少女が見えた。貴方と、私達の娘ね。結局一度も、会うことの叶わなかった、愛しい子。けれどここから、いつまでも見守っているわ。
「でも僕はもう、死ぬときがきたんだよ」
そう言って溜め息を吐く、貴方。とても老けて見えるわ。男手一つで娘を育てたから、とても苦労したのよね。
「貴方、あの子が結婚するからって、気が抜けちゃったのよ。孫を抱いてから来てよね、私の分まで。お土産話、待っているわ。だってここからじゃどうやっても触れられないんだもの。今度来たときに、詳しく聞かせて。待っているから」
彼はやっと、頷いてくれた。生きることを決意してくれたんだわ。そう、貴方はまだ死ぬような歳じゃないのよ?いつまで待たせたっていいんだから、悔いのないように生きてもらわなくちゃ。
「いって、きます。次にここへ来るときには、胸を張ってこれるように生きるから」
「ふふ、いってらっしゃい。ちゃんと楽しむのよ。でも浮気なんてしたら、許さないんだから」
私の冗談に、彼はやっと笑みを浮かべてくれた。
「しないよ、僕のジェシー。愛してる。また、今度」
彼はそう言って、戻っていったわ。貴方が来るのは、何年後かしら。いいえ、何十年も後ね。きっとお土産話がどっさりだわ。私は気長に、待っているわね。ああ、楽しみだわ。
「ただいま、僕のジェシー!元気にしていたかい?土産話をたっぷり持ってきたよ。君に恥じない生き方をしたよ」
「お帰りなさい、待っていたわ。ちゃんと見ていたわ。とても素敵な人生だったわね。孫どころか、曾孫まで抱いてきちゃって。ねえ、可愛かったでしょう?是非、聞かせて。私が死んだ後のことを」