第九話 冒険者が失恋する話
幼き日のジョージ・ミラーは優れた資質を持っていた。
それは彼を知るブリス村の住人全てが知っている事だったし、彼自身も意識無意識に関わらず、自分が周りの誰よりも恵まれた、優れた人間である事の自覚があった。
しかし彼が優れているが故に、彼の過ごす日常は酷く味気ないものとなっていた。
何を行なおうと大した労苦を必要としない。他者と競えば まず間違いなく彼が勝つ。
弱い。容易い。小さ過ぎる。この村は、己に相応しい場所では無い。
こんな小さな村の中では己の欲する充足感など望めない。
それを理解しながらも、ブリス村の外を知らない小さな世界で生きてきたジョージ少年は己の中に降り積もる不満をどうやって晴らせば良いのかが分からない。分からないから、このまま年を取って やがては村長と言う立場に納まり、日常という名の諦観に身を浸して生きていくのだろうと思っていた。
ジョージ・ミラーの人生に転機を齎したのは、彼の幼馴染であるエリザだった。
「ジョージ! 私と一緒に冒険者になろう!」
ブリス村は小さな村だ。同年代の子供は皆が互いの顔を知っており、年の近い者は一人残らず幼馴染と言っても良い。
初めて立って歩く事が出来るようになった幼き日のジョージは、立ち止まっては居られないとばかりに村中を歩き回っては、色々な場所に顔を出していた。エリザと最初に顔を合わせたのも その際の事だ。
エリザは よく笑う女の子だった。
ジョージほど身体的に恵まれていたわけではないが活気に満ち溢れた少女であり、山中を駆け回るジョージと一緒に過ごした時間は村の中でも一番長い。
そんな彼女が口にした、冒険者という言葉。
父に習って村長としての仕事に関わってはいたが、村外との直接的な関わりを持たないジョージである。最初は冒険者が何かも知らなかった。
主たる情報源はエリザの話。
そして知れば知るほど、とても困難で とても楽しそうに思えて、ジョージは今にも村を飛び出したいとばかりに心が踊った。
力を尽くす。
己に許された全力を。
それこそが幼きジョージ・ミラーが最も強く望んだ事。彼と共に長い時間を過ごしてきたエリザには、彼の一番の望みが見えていたのだ。
そろそろ村の金勘定に携わっても良かろうと言う父の勧めに便乗して、村を訪れる商人達から冒険者に関する話を聞き、一年二年と時間をかけて準備を重ねる。
当然 家族からの反発はあった。
ジョージは次期村長として村の纏め役の仕事にも手を出しており、これならば次の世代も安泰であろうと考えられていた頃の話だ。両親の物言いにも一定以上の理があった。
村のため。ああ、それはとても大事な事だ。
だがそれでは永遠にジョージの心が救われない。
自分はもっと全力を尽くせる仕事を為したいのだ。生まれてからずっと抱えていた、狭苦しい村への不満。何事に手を出しても決して得られぬ充足感。己の命さえ賭ける冒険者としての人生ならば、それが得られると心が訴えている。
説得の決め手はエリザの存在だった。
彼女の両親は数年前に相次いで亡くなっており、絶対に冒険者になるのだと言い張る天涯孤独のエリザを放っては置けない、そう言って頭を下げ、最後には父の苦言を背にして出立を許された。
次期村長であるジョージと只の村娘に過ぎないエリザでは村にとっての重みが違う。
ジョージが絶対に彼女に付いて行かなければならない理由も無い。
それでも許されたのは、エリザの両親が元冒険者でありブリス村の優秀な狩人だったからだ。
彼等が冒険者時代に培った経験は小さな村落を助けるには充分以上で、長年彼等の助けを借りてきた村長としては亡くなった二人の一粒種を軽く扱う事はしたくない。加えて優秀な長男が今まで見た事の無い覇気に満ちた表情で強く口にする我が儘とくれば、息子を想う男親としては聞いてやりたくもあった。
村長の椅子に座るのは長男ジョージではなく次男のジョンでも務まるだろうか。
そのような経緯から将来のジョンの犠牲がひっそりと決定されて、二人は村を出て冒険者となった。
それからは色々な事があった。
気がつけばジョージ・ミラーは冒険者としての二つ名を冠されてジョージ=ベイブ・ミラーと呼ばれるようになり、家名を持たない一村人であるエリザも共に冒険者としての名を上げた。
順風満帆だった。
問題があったとすれば、五年間の冒険者生活の中で隣に立つ彼女に対する恋心を育んだジョージとは裏腹に、エリザの中にはジョージに対する揺るがぬ信頼はあっても恋慕の情が欠片も存在しなかった事であろうか。
今のエリザがジョージを異性として好いていなくても構わなかった。
努力して、頑張って、彼女の想いを自分に向けられるよう努力すれば、いつかはきっと想いが通じるだろう。
誰に恥じる事も無い冒険者としての自分を築き上げ、男としての自信に満ち溢れていたジョージには先の長い恋の戦いに臨むだけの覚悟があった。
しかし現実は甘くない。
「ジョージ! 私ねっ、結婚する事になったの!」
「……ははっ、面白い冗談だな」
二人の終わりは唐突だった。
とある案件を冒険者として解決に導き、募る想いを育てに育てたジョージが今こそ告白の時だ、と決意を固めた その日。
俺は戦士なのだから告白する時は格好良い一張羅を、これを機に新調した全身鎧を着て絵物語の騎士のように颯爽とエリザの元へ! ――などと何処かズレた事を考えて鎧を買い替え しっかり準備を済ませた彼の元へ、満面の笑みを浮かべた愛しい相棒が現れたのだ。
後の事は、余りよく憶えていない。
少なくとも、結婚するという彼女の話が冗談でなかったのは確かだ。
「相手は貴族だとさ、貴族。……ふふっ、俺ってば只の村人なのに。しかも村長の椅子蹴った阿呆でさ」
ジョージと共に相応の実績を為したとはいえ、一介の冒険者が貴族と結ばれるなど本来ならば有り得ない。
――相棒であるエリザが騙されている可能性がある!
しかし真実はジョージにとって一層過酷で、エリザにとってはとても優しかった。
「エリザの人柄に惚れたんだってさ……。本当に、本当に良い人だったよ……、かっこよかったよ……」
反対する家中の者達と長い時間をかけて話し合い、時に理をもって、時に利をもって結婚まで漕ぎ着けたという貴族の令息。
伝手を辿って調べても、個人として後ろ暗い部分が全く無い。
代を重ねた貴族として有って当然の汚点くらいなら見つかったが、それくらいなら問題にはならない。治める領地に圧制を強いている等という分かり易い悪役などでもなく、その人格にも狂気的・偏執的なものなど一切見えず。更に周囲の了解まで得ているというのなら、どこに文句を言えば良いのか。
調査の結果として述べるなら、エリザの輿入れは間違いなく吉報であろう。ジョージの個人的な感情を無視すれば、だが。
「式には来てね! あの人にお願いして、ジョージの席 用意してあるから!」
それが最後に目にしたエリザの姿だ。
とても幸せそうだった。幸福の絶頂期と言っても過言ではない。
彼女の顔は今まで見た事が無い程に輝いていて、夫となる男の側にも相棒を任せるに足る財力と人格が備わっていると来れば、そこに横槍を入れるのは彼女の戦友として決してしてはならない、一人の男として許されざる悪行だ。
あんな幸せそうな顔は見た事が無かった。ジョージの隣では決して得られなかったものを、今のエリザは手にしているのだと思い知らされる。
今ある彼女の輝きを壊してまで手を伸ばすだけの身勝手な欲が、ジョージの中には残っていなかった。
胸中に渦巻く感情の捌け口も存在しない。婚姻に臨むエリザはきっと幼馴染であり冒険者としての相棒でもあるジョージの祝福を必要としている。ならば自分は祝わなければいけない。彼女の幸福を壊したく無いのだから、笑って「おめでとう」と言ってやらなければいけないのだ。
考えて。
考えて。
溜め込んだ感情に突き動かされるように街を出た。
自分は失恋したのだ。
想いを告げる事さえ出来ず、結婚の決まった彼女の幸福に水を差す事も出来はしない。
これで相手の男に目立った瑕疵でもあれば全力で婚約破棄を図って溜飲を下げる事も出来ただろう。しかし綿密な調査の結果、それさえ無理だと分かってしまった。要するに相手の男は普通に いい人だったのだ。
今のジョージは告白未遂で玉砕した可哀想な失恋男に過ぎない。
祝福したいが、出来る気がしない。出来なければ、彼女の笑顔が曇ってしまうのに。
ならばどうする。
ならばどうする!!
「そうだ、玉砕しよう」
――以上が冒険者ジョージ=ベイブ・ミラーの竜退治に至る顛末である。
今現在もエリザへの感情が冷めたわけではない。しかし かつての胸を潰すような苦しさは薄れていた。
実在した竜を相手に、生涯最後に彼の抱いた想いは生への渇望だった。
恋をした女性の名前ではない。故郷の家族の事でもない。冒険者としての名誉や栄達、生まれながらに恵まれた人間として力を尽くしたいという欲でもなかった。
ジョージの胸の奥から力尽くで掘り出された最も強い感情は「死にたくない」という至極真っ当な、酷くつまらない、絶望的なまでの強い恐怖を伴う生存欲求だ。
あんな醜態を晒しておいて、それでもエリザの事が好きだなどと声を張り上げる事など出来はしない。
『赤子』にだって男としての ささやかな意地があるのだ。
それでも彼の涙腺が緩んでしまうのは己に対する情けなさか、或いは もう二度とエリザと共に冒険者として肩を並べる事の出来ない現実に対する寂しさ故だろうか。
竜退治だと意気込んで、竜にも会えずに失敗して、田舎に腰を落ち着けて。それからようやく彼女の結婚式に出向く予定だったのだ。ただそれだけのための現実逃避だったのに。
だというのに、今は奴隷の身分である。
何がどうしてこうなった。全てはジョージの自業自得だが、悪態くらいは許されるだろうか。鼻を啜って頭を掻いた。
「――何を泣いている」
声に応じて顔を上げれば、星空の下で自分を見下ろす金色の天使が そこに居た。
身に纏う外套は肩から下にまで垂れ下がり、緩やかな夜風に吹かれて露わになった金色の髪が星明りの射す草原に輝いている。
「……顔は出さないように、って約束しただろ」
「お前の他には誰も居ないぞ」
一応の苦言を口にはしたが、そこまで強く言う気にもならない。
鼻から息を吐き出して溜息の代わりにすると、ジョージは足元の雑草に手を伸ばしてブチブチと引き千切る。
手持ち無沙汰だった。
勢いに任せて家から飛び出したが、今から帰るのは どうにも気まずい。
どうしたものかと思い悩んでいると、短く刈り上げられたジョージの金髪の頭に小さな掌が乗せられた。
「……何、やってるんだ?」
撫でられている。
頭の位置をそのままに、視線だけを傍らの主に向ければ何をされているかは一目瞭然。いや、実際は見る必要さえ無く、触れられている感覚だけでも自分が何をされているのかジョージには分かっていた。
幼い頃に母から優しく撫でられていたように、今は小さな掌が自分の頭を撫でている。
「村の人間が、泣いている人間にやっていた」
それはきっと、親が泣いている子供にしていたのだろう。
子ども扱いか、と。自身に対する行ないに多少なりとも思うところはある。しかしジョージは口を噤んで されるがままに任せていた。
撫でられた事が嬉しかったわけではない。
ただ、不快ではなかったからだ。それ以上の理由が無い。
「クリスに怒られたぞ。失恋した相手には優しくしろ、と」
「何を言っているんだ、あいつは……」
竜族を相手に説教をする実妹の姿が頭の中に浮かんで消える。
今ままでは頼りになる兄で居続けていたというのに、先の一件で家族のジョージに対する評価が激しく変動している気がしてならない。きっと家に戻れば皆から優しくしてもらえるのだろうが、それによってジョージの自尊心が傷付く事は避けられないだろう。
「恋というのは大変なのだな」
しみじみと呟く御主人様を相手に、果たして どのような返答こそが正解なのだろうか。
ジョージは一頻り考えて、どこかで聞いた気のする月並みな台詞で場を濁す事にした。
「――まあ、悪いばかりのものでもないさ」
それは泣いてばかりいる男の強がりでしかなかったのだが、答えを聞いた竜族は小首を傾げて、頭を撫でる手を止める事無く呟いた。
「人間はオレの知らない事ばかりだな」
「そうか」
ぽつりと零れた呟きに気の利いた相槌を打つ事も出来ず。
奴隷の頭を撫でる竜と、主に頭を撫でられる人間は、そのまま暫らく夜の闇を見つめていた。
彼等がブリス村を発つ、二日ほど前の話である。