第八話 奴隷が泣き叫ぶ話
一つ一つ、じっくりと確かめるように身体を動かす。
偏り無く鍛えられた全身、周囲よりも頭一つ抜けた長身、戦う為に練り上げられた戦士の肉体。
だからといって、己の倍以上の大きさを誇る魔物を片腕で上空へと殴り飛ばせるものでは決して無い。
「――それで、どういう事だ?」
こうして身体を動かしてみても、異常の一つさえ感じ取れない。
どこにも痛みは無く、肉体の構造が組み変わったような あからさまな異変も見えない。動かす感覚は以前と変わらず、しかし間違いなく何かが起こっているのだ。そうでなければおかしい。
そしてその原因として見なされるものは、ただ一つ。
「どういう事だ?」
「それは俺が聞いているんだがな……。いや、今のは俺の言い方が悪かったのか?」
ジョージの口にした、言葉面だけを捉えれば主語の抜けた曖昧な問い掛け。
その内容が理解できなかったのだろう。同じ言葉を繰り返して首を傾げる小さな主を見て、獣並の脳味噌を持つ御主人様にも理解出来るようにと暫し口を閉じて考える。
疑問の焦点は、魔物を生身で打ち倒せてしまったジョージの肉体の異常である。
出来ない筈の事が、出来る。
それだけならば喜ばしい事だ。しかし不可能が可能に変じた理由が一切不明。
だからこそ異常の原因であろう主に問い掛けたいのだが、果たして自分の納得出来る答えが返ってくるのだろうか?
ミラー邸から僅かに離れた、夕暮れ時に赤く染まった草原の一角。
ぐるぐると全身運動を繰り返すジョージと、彼の主である竜の少年が そこに居た。
「ある日突然 力持ちになったんだ」
「良い事じゃないか」
「そうだな。……そうだけど、そうじゃないんだよ。そうじゃないんだ」
この竜族と会話をしていると、どうにも調子が崩れてしまう。口早に話の舵取りを仕切り直すジョージは溜息混じりだった。
確かに良い事だろう。魔物を拳で殴り殺せるだけの力を持っていれば、身の危険というものは今までの半分以下で済む。或いはもっと低いのかもしれない。
しかし問題はそこではないのだ。
「何がいけない。 強くなったのだろう? 良い事ではないのか? ――お前は何が不満なのだ?」
真っ直ぐな視線でジョージを見上げてくる橙色の瞳。外套の奥から見える白の双角が夕日を浴びて赤く染まっていた。
自分は心底不思議である、と少年が言う。
そうとも、誰だって強い方が好ましい。
己が脆弱さを誇る人間なぞ、酷く特殊な条件下に限られる。
強くなったのだ。
冒険者として。戦士として。一人の男として人間として。
――それを喜びこそすれ厭う理由など有るのだろうか?
「……無いな」
そう、無いのだ。
猪の魔物を相手に発揮した力を嫌悪する理由などというものは、ジョージの中には存在しない。
魔法を用いる化け物、人間の敵である魔物を相手に今までだって何度も痛手を負って来た。
これから先、幾度も戦う機会はあるだろう。その時に無力ゆえの敗北を味わい後悔する事はあっても、真っ向から打ち倒し得る力を振るって得る後悔があるのか?
確かに常軌を逸した力だが、そんなものは使い方次第だ。
周囲とは隔絶した実力を理由に嫉妬と羨望を向けられる事なんて、子供の頃から今に至るまで何度もあった。ならば何も変わらない。いや、力を得た分だけ むしろ得をしたとさえ言えるだろう。
改めて考えてみれば、確かに何も問題が無い。
だがそれはそれとして、それでも一つだけ聞いておかなければならない。
ただの好奇心と言うべきかもしれないが。常軌を逸した力、魔法としか呼びようの無い己の怪力が何を由来としたものか。どうやって手に入れたものなのか――。
「知らないぞ」
御主人様の答えは簡潔であった。
知らないとは言うが、変化の理由なぞ竜族である少年の存在以外に思い付かない。ある日突然、と言うにも限度があるだろう。
大きく腰を伸ばして口を閉じる。
もっと執拗に問い質しても構わない。構わないのだが、どうにも気疲れしてしまっていた。
奴隷扱いが何時まで続くものなのかは怖くて聞けないが、それでも暫らくの間は この関係が続くのだろう。矢継ぎ早に質問を重ねて無邪気な獣の不興を買うのはよろしくない。
突然手に入れた力の事は凄く気になるが、先程まで考えていたように損をする事など何も無いのだ。有るものは有る。これから先も己の中に変わらず有り続けるのなら、便利使いしてやれば良い。
そう納得して肩の力を抜いたジョージを見上げたまま、アルバスと名乗る竜族は不思議そうに小首を傾げる。
――竜の奴隷が強いのは当たり前なのに、一体何がそんなに気になるというのだろうか?
魔物との戦いは主も見ていた。
あの程度の事は出来て当然。人間の尺度で測れば驚異的という表現を通り越して異常の一言を冠する事態だが、例えば地上最強たる竜族ならば そもそも猪の火毒を受けても無傷で凌いで気付きもしない。つまり少年にとっては戦闘と呼べるだけの手間が掛かった事そのものが不思議だった。
小さいものは弱い。それくらいの事は谷に住んでいた竜族とて知っている。
だが奴隷ならば別だ。
竜の奴隷は人間だろうと それ以外だろうと、小さき者達の常道を外れるモノ。
そういうものなのだ。
そういうものだと、白い竜族は教わった。
竜とは奴隷を作るものだという事。
奴隷には己の生き血を与える事。
奴隷は竜以外には決して負けない事。
そして竜が奴隷を作るという事は、己の死期を定める事だと。
上記の一切が自分にとっては当然の事で、しかし自分以外にとっては当然の事ではないらしい。そんな当たり前の事実を、少年の姿を模る竜族は今知った。
まだまだ知らない事があるのだろう。ならば それを知ってみよう、と賢き獣は改めて思う。
全てを知り終えたなら その時は死んでみても良い、と。
そんな事を考えながら。
数分後、ミラー邸の食卓での事である。
「そういえばエリザは どうしたの?」
ジョージの妹クリスが口元を拭って兄に問い掛けた。
そういえば、とミラー家の面々も各々の食事から顔を上げ、周囲に倣って竜族の少年も顔を上げる。
問い掛けられたジョージは、木匙を口に咥えたまま固まっていた。
「兄さん?」
クリスにとっては何気無い問い掛けだった。
エリザという名の女性は彼女にとっても兄を通じた友人の一人で、兄ジョージが帰郷するのならば彼女もまた当たり前のようにブリス村の土を踏んでいる筈。そう考えていたのだが、今の今まで村内にてエリザの姿を目にする事無く、同時に彼女の名を聞く機会さえ一度も無かった。
魔物の討伐にさえ姿を見せなかったという事は、彼女が村に帰ってきていないという事だ。
だから改めて兄に聞いたのだ、――が。
木匙を咥えたジョージの口の端から、僅かにスープの雫が滴っている。先程から身動き一つしていない。
その様子を見て、ジョージの母である村長夫人は まさかと顔を青褪めた。
「そんな……っ!」
ジョージは冒険者である。
そしてジョージの友人であるエリザもまた冒険者だった。
そんな彼女に関する問い掛けに対し あからさまに全身を硬直させた息子の姿に、夫人は己の見知った少女もまた、世に有り触れた冒険者としての悲しい末路を辿ったのではないかと察したのだ。
夫人の言葉と表情に、食卓についていた村長とクリス、そして我関せずと視線のみを向けて食事を続けていたジョンでさえ言葉の先を察して息を呑む。
なんという事だ。
――ああ、なんて可哀想なエリザ。
思わぬ友人の訃報にクリスは両手で顔を覆い隠し、村長夫妻は天を仰ぎ、ジョンもまた下唇を噛んで気落ちした様子を見せる。
「……いや」
エリザの死に黙祷を捧げようと両手を組んだ夫人や家族の姿を前に、大きな石でも飲み込んだかのような苦痛に耐える表情を浮かべたジョージが小さく片手を振った。
「死んでないからな」
その言葉に、緊張に張り詰めたような食卓の空気が弛緩する。
しかし、ならば何故そう言わなかったのか。
何か重大な事態が起こったとでも言うかのような、明らかな異常を見せるジョージの挙動。無事に生きているというのなら、あんなおかしな反応を返す事も無かっただろう。
言うべき言葉を噛んで含むように幾度か顎を上下させた後、神妙な様子のジョージが知人の近況を口にした。
「結婚、……するそうだよ、彼女」
「――まあ!」
それは、なんと喜ばしい事か!
顔に喜色を浮かばせて、クリスは両手を打ち鳴らす。花が咲いたような笑顔を浮かべ、いっそ大袈裟なほどの喜びようだ。
村長夫妻も「そうかそうか」と嬉しそうな顔を見せたが、次男であるジョンだけは じっとりと両目を細めて兄を見つめている。
そして小さく呟いた。
「……振られたのか」
「えっ」
ジョンの呟きに、クリスが思わず反応する。
続いて村長夫妻もジョンの口にした言葉の意味を胸中にて繰り返し、その視線をジョージへ向けた。
小さな竜族は会話の最中もずっと食事に夢中だった。
主以外の全員の視線が集まる食卓の一角、ミラー家の長男ジョージは白目を剥いて滂沱の涙を流しながら熱々の煮物を己の口に運んでいた。
「美味いなあ……、お袋の煮物は、本当に美味いなあ……」
エリザの奴も煮物料理が上手かったなあ……、と感情の篭らぬ虚ろな声音が食卓に響く。
隠された事実を察して純粋な嫌がらせ目的で口にしたジョンも思わず視線を逸らしてしまった程の、惨めで哀れな振られ男の成れの果て。かつて希望を供に村を後にしたジョージ・ミラーの末路であった。
村長夫妻は何と言って慰めるべきかと互いに視線を さ迷わせ、クリスは友人への結婚祝いまで考えていた所で知らされた兄の失恋にうろたえるばかり。
凄く気まずい空気に支配されたミラー邸の食卓で、綺麗に食べ終えた食器を机に置いた少年が口を開く。
「お前、雌に捨てられたのか?」
「ああああ゛あ゛あ゛あ゛!!!! 死ぃんでしまいたいひぃいいいいいい゛っっっ!!!!」
微塵の躊躇も無い、極めて直截的な主の指摘。
言われた側であるジョージは両手で頭を抱えて椅子を蹴り飛ばし、一目散に外へと駆け出した。
熱い涙の尾を引いて姿を消した長男の姿に、家族一同揃って目を丸くして見送る事しか出来ない。
かつてジョージと共に冒険者になるのだと言ってブリス村を後にした少女エリザ。
優れた冒険者であるジョージ=ベイブ・ミラーが単独で竜退治に赴いた原因。
控え目に評しても笑い話くらいにしかならない情けない理由だが。
端的に言うのなら、それはただの失恋だった。