第五話 山で鬼ごっこをする話
魔物とは魔法を使う生物の総称である。
かつて地上には魔物が存在しなかった。
人と竜と獣と鳥と魚に加え、あとは地上を統べる神々だけが居たという。
魔物が生まれたのは神々が姿を消して以降の事。
それを神々の遺した呪いである言う者が居り、神々の加護を失ったが故に地の底より湧いて出たのだと言う者達も居る。魔物の出自は現代においても未だ真偽定かでない議論の種の一つであった。
魔物の血肉は人にも獣にも毒となるが故 食用には耐えず、先に上げた魔物以外の生物全てを餌とする食性も相まって、命有る限りは有害でしかない地上の邪魔者だというのが人々の認識であり現実だ。
しかしその命を絶った時、魔物の価値は逆転する。
繰り返すが、魔物とは魔法を使う生物の総称である。
地上を去った古き神々の振るう奇跡の一端。地上最強の生物たる竜族でさえ持ち合わせぬ、地海空 全ての道理を越えた異常生体機能。
火を吹く魔物が居る。
鋼さえ噛み砕く魔物が居る。
首を切り落とそうと死には至らぬ魔物が居る。
それら一切、本来 生物として実現不可能な特殊能力を総じて『魔法』と呼ぶのだ。
魔法とはあくまでも魔物に備わる特殊な生態、生物として生まれ持った肉体に付随する機能の一つとされている。ならば魔物の死骸から魔法の力を汲み上げる事も不可能では無い。
――そう、魔物の死骸を用いる事で人間もまた擬似的に魔法を使用する事が出来るのだ。
現に冒険者の内でも狩人と呼ばれる者達は魔物の死骸を金銭に換えて己の食い扶持を稼いでいる。
生きている間は殺害必定の害獣であり、死した後は種別を問わず人間にとっての利益に転ずる。それが魔物であり、人や それ以外にとっての天敵だ。
「――剣が無いから無理だな。勝てない」
冒険者ジョージ=ベイブ・ミラーは名の売れた冒険者である。
至極個人的な事情により単独で竜退治に出掛けて返り討ちにあった挙句、今現在は討伐対象であった竜の奴隷となっている哀れな二十代の男性だった。
生まれ故郷であるブリス村近辺に出没する魔物の討伐を次期村長たる実弟から依頼されたのだが、話を聞いて出した彼の結論は「無理」の一言。
だからといって あからさまに己を嫌っている様子の弟に弱みを見せるわけにもいかず、兄として情けない物言いを聞かせるのが嫌だった事もあり、一先ず場を誤魔化して席を立った先での発言が上記の呟きだった。
「勝てないのか?」
腕組みをして空を見上げるジョージの傍ら、彼に付いて家の外まで出て来た小さな主。
不思議そうに訊ねてくる角付きの少年を見下ろして、哀れな奴隷めとしては どう説明するべきかと言葉を選ぶ。
「剣が無い」
「どうして無いのだ?」
「砕けたんだ」
「どうして砕けたのだ?」
お前のせいだよ! と怒鳴りつけてしまいたかったが、怒鳴った所でどうなるものでもない。
竜と対峙してから僅か数秒、軽い前脚の一振りで無残にも砕け散った愛用の長剣。
武器を失った直接の原因は目の前の小さな主であるが、そもそも地上における絶対強者たる竜に挑んだジョージが悪いという考えもある。戦いとさえ呼べない極短い時間で容易く敗北した自分が何を言った所で、そんなものは負け犬の遠吠え。恥の上塗りをするだけだ。
だからと言って、失った物が惜しいのは変わらないのだが。
「俺の魔法剣……」
付け加えるのなら腹に穴の開いた全身鎧も新調仕立ての新品だったが、武器も中々に高価だった。失われた金額を思い出す度に今現在の懐の寂しさを自覚する。
両手で顔を覆うと、枯れたと思っていた涙が再びジョージの両目を湿らせる。
「お前は本当によく泣く奴だな」
呆れた様子はなく、むしろ興味深そうな様子で彼の顔を覗き込む少年。そこにはいい年をして頻繁に涙を流している彼を馬鹿にする意図など一切無く、しかしだからこそ言われた側としては指を差して笑われるよりも強い羞恥を覚えた。
お前は何をやっているのか、と冷静になった意識の一部が己の情けなさを叱咤する。
目元を拭い、大きく息を吐く。
剣が無い。だから魔物と戦っても勝てない。それは良い。よく鍛えられているとはいえ、人間が生身で魔物を退治しようなどと、そんな無茶な事を言うつもりは欠片も無いのだ。魔法の存在は それほど大きく、魔法の存在を無視しても尚強いのが魔物である。
しかしジョージには退く気も無かった。
彼の中には生まれ故郷に対する愛着がある。いつまでも実弟相手に気まずい空気を引き摺る事もしたくない。またすぐに村を離れるとはいえ、家族や村人達との古い縁は大切にしたかった。ただでさえ冒険者としてのジョージは一人ぼっちなのだ、これ以上 近しい相手を失いたくなければ そのための努力は必須であろう。
「とりあえず、罠か」
「わなか?」
討伐のための手順を幾つか考えながら、傍らに立つ主を見遣る。
この御主人様を魔物の住処に放り込めば それだけで事が済みそうなんだがな、と無責任な事を考えて、ようやく血の巡り始めた脳が冒険者としての意識を取り戻す。
竜退治に臨む以前からジョージを取り巻いていた無力感が少しだけだが晴れた気がする。
その理由が目の前の小さな主か、それとも故郷や家族の存在ゆえかは分からないが。
「精々頑張るとするさ」
五年振りとはいえ久しく覚えのなかった懐かしさを感じさせる故郷の村を見渡して、ジョージ=ベイブ・ミラーは決意を新たに笑みを浮かべた。
そして普通に失敗した。
「ジョンの野郎ぉ! 何が豚が三頭だっ! 猪じゃないかアレはッ!!」
幼い時分から駆け回っていたブリス村に程近い山中にて、一人の冒険者が大きな声で愚痴を撒き散らしながら走っていた。
その背を追い掛けるのは三頭の猪。
口元から白い蒸気を吐き出し、金茶色の分厚い毛皮は背の部分だけが僅かに燃えていた。
一頭一頭が竜の谷で食べた熊程もある大きな体躯を誇り、横並びの隊列を組んで真っ直ぐ獲物を追い掛ける。
山の中を走り続ける冒険者とは当然ジョージの事であり、彼を背後から追い掛けている猪達こそが魔物だった。
呼吸に合わせて蒸気を噴き出す猪の口中には鋭い牙が ぞろりと並んでいる。あれに噛み付かれれば、太く逞しいジョージの腕とて半ばから食い千切られてしまうだろう。
もっとも、あの巨体に背後から体当たりされてしまえば、現在の疾走速度と彼我の体重差から人間の身体などバラバラになってしまうので要らぬ心配である。
そして何より、あれは魔物なのだ。
僅かな火炎を纏う毛皮と口から噴出する大量の蒸気を無視してしまえば獣とさして変わらぬ見た目だが、ジョージの持つ冒険者としての知識を参照すれば、その実態は大違いだという結論が出てくる。
地を突き破り飛び出した形の、大きくうねる木の根の上を飛び越えた。
後に続く猪三頭も、障害物にぶつかる事無く俊敏な動作で次から次へと飛び越える。
だというのに、燃える毛皮から周囲へと火が燃え移る事も無い。
毛皮に纏わり付く炎色。それは火に見えるが、火ではない。
毒だ。
見た目だけなら そうは見えない。しかし条理を無視するのが魔法の存在、魔物の生態だ。
猪の背に燃える炎は動物類に対する毒であり、慣れ親しんだ野山の中を逃げ回るジョージが直接 手で触れてしまえば、燃え落ちるかのように肉が溶ける。そして溶けた血肉の入り混じった液体を啜るのが あの猪にとっての食事である。
舐めていた。
侮っていた。
勘を取り戻したと思っていたが、未だ危機意識が足りていない。
「……しっかりしろ、ジョージ・ミラー! お前は戦士だ、冒険者だっ!」
声を張り上げ自己を叱咤する。
村を離れていた五年の間に草木が伸びたせいで景色の変化があったが、この山の植生自体は変わっていない。見知った獣道は幾つも姿を消しており、しかし村人が立ち入る事で踏み固められた主要な通路はかつてと同様。五年より以前から そこにあった大きな樹木の数々も梢の隙間から覗いている。見た目が どれだけ変わっていても、ジョージにとって慣れ親しんだ場所に変わりはない。
猪の魔物が姿を現したのは つい最近。山に住処を移して長い時間が経っていないというのなら、この山の歩き方はジョージの方が よく知っている。
その上で、理由は一切不明だが、身体の調子が すこぶる良い。
ほんの一、二週間ほど前、冒険者として最も精力的に活動していた頃よりも ずっと身体が軽く感じた。
いける、気がする。
事前に仕掛けた罠の半数が容易く踏み砕かれており、残ったのは雑に掘られた落とし穴や上空から落とされるよう仕掛けられた丸太の罠以外は、足を捕らえる簡易的な草結びや鋭く切った木の枝の槍衾くらいだ。
だが猪の炎は動物類限定の毒。巨体に頼った罠の破壊さえ免れれば、植物類で拵えた罠は溶かされる事無く効果が見込める筈。
ある、筈だ。
「……畜生」
弟から聞いた話では『燃える豚』だったのだ。断じて『燃える猪』ではない。
背中が燃えている豚の魔物ならば討伐の経験も、今の装備で成し遂げる自信もあったのに、そもそも事前情報が間違っていたなんて、一端の冒険者として出来て当然の備えが足りていないと言う他無かった。
平和に暮らしている村人が、突然近所に現れた火の付いた魔物を冷静に観察する事など出来ないと理解している。弟のジョンが精力的に村や その近辺を見回るような性格ではないというのも知ってはいた。ひょっとすると村人との親しい付き合いだって足りていないのかもしれないと、今更ながらに弟の心配さえしてしまう。
だが今は自分の命が懸かっているのだ。誰にも届かぬ恨み言の一つくらいはと言い訳をして唾を吐いた。
「そう簡単に俺を食えると思うなよ、ブタ野郎」
敢えて猪ではなく豚と呼び捨てる。
魔物に対して正確に言葉が通じた事例は無いと聞くが、同一の言語を有さずとも生物としての生きた感情くらいは伝わったのかもしれない。後を追う三頭がより大きく蒸気を噴き出した音が耳に届いた。
己の言葉が原因か否かは不明だが、挑発に対する相手の反応に気を良くして口元を緩ませる。
身体が酷く熱い。
力が湧いてくるかのようだ。
そんな都合の良い事などある筈が無い。しかし、まるで本当に自分の中から正体不明の力が湧き出してくるかのような、不思議な全能感がジョージの全身を包んでいた。
後を追って走り続ける猪達に捕まる事もなく、細かく足場を選んでは梢の陰を走り抜ける。
目星をつけていた罠の仕掛け場所まで後もう少しだ、という地点に至り――。
更に二頭、燃える猪が待ち構えている光景を目にしてしまった。
「俺が一体何をしたあ……っ!」
ジョージの目尻から大粒の涙が零れ落ち、前後を魔物に挟まれた絶体絶命の状況、それでも立ち止まれば背後からの突進を受けて死んでしまう事実を理解していた。
前に進むしか、無い。
その先に生き延びる道が無かったとしても、既に立ち止まれる状況には無かった。
「うおおおおおおお!!!」
真っ直ぐに駆けるジョージ目掛けて、正面の二頭が身構えた。
構えるだけで未だ走り出していないのなら、この数秒に限れば速度において魔物よりも己の方が上にある。言葉として思考する暇さえなく、五年間の冒険者生活で培った本能と生来の勝負勘のみで本当に有るかどうかも分からない活路を見い出すと、両の拳を握り締めて走りながら声を上げた。
そんな彼の様子を、不思議そうに見下ろしている橙色の視線に気付く事も無く。