第三話 生まれ故郷に帰る話
ブリス村。
その村長宅にてジョージ・ミラーという名の子供が生まれたのは二十年ほど前の事だ。
生まれ付き体格に恵まれていた彼は立って歩ける年頃になると好き放題に村内を巡り、更に身体が出来上がってくると野山に分け入り駆け回った。
このまま好きにさせた挙句、獣にでも襲われてはいけない。両親が彼を注意すると神妙に頷くが、だからといって完全にやめる事もしなかった。年相応、腕白な少年と言えよう。
だからといって好き勝手に振舞うだけの悪餓鬼ではない。家の手伝いも村の一員としての働きも、至極真面目に取り組む良き少年である。
恵まれた体躯のお陰で畑を耕すのは楽だった。
家畜の世話も別に嫌いではない。
父親が村の長を勤めており、幼くとも次期村長となる予定だった彼はそちらの憶えも良かった。
順風満帆。
しかしだからこそ持て余す。
彼は生まれつき、余りにも恵まれ過ぎていたのだ。
村で子供同士の喧嘩をすれば必ず彼が勝ったし、日々を生きるための仕事もまた彼にとっては容易い事。村長としての仕事に関しても、時間を掛ければ十二分。
身体が大きく、背も高い。勝負勘も悪く無いし、憶えの良さも上々だ。小さな村落とはいえ父親は村の責任者、周囲の人々にも恵まれた。
ジョージ・ミラーは苦労と呼べるだけの苦労をした経験が無い。遣り甲斐と言えるだけの努力を必要としない。そんな当たり前の事実が、未熟な彼の胸中に無意識の不満として降り積もっていく。
全力を、己に許された精一杯の力を尽くす機会が存在しない、彼の身の丈に合わない環境。
彼の心が望むままに、日々を幸福に生きるには、ブリス村は余りにも狭過ぎた。
だから、とも言える。無論それだけが理由の全てではなかったが。
彼は冒険者になった。
名誉や利益を求め、自ら危険へと足を踏み入れる根無し草。立派な功績を積み上げる事で正式に騎士として召し上げられた者も僅かに存在したが、現実は ほぼ九割、彼等の内 大多数が無法者同然。戦争に乗じて荒稼ぎを行なう傭兵達、魔物の狩猟を行ない周辺の街や村落に利益を齎すと同時に死傷率も高い狩人等。
それら全てを乱雑に纏めて『冒険者』と呼ぶ。
当然ながら、冒険者なんてものは先行きの暗い生き方だ。公的には職業とさえ認識されない。
両親は反対した。彼の弟妹も大好きな兄を引き止めた。
しかし結果としてジョージ・ミラーは冒険者としての道を歩み、生まれ故郷にさえ僅かながらの噂が届く程度には成功を収めてきた。
――だというのに今更おめおめと出戻って来たのが彼の現状である。
「……ただいま」
「……ああ」
実家に向かえば、すっかり白髪の増えた父親がジョージを出迎えた。
ジョージとしても再会の予定はあったが、竜に出くわして以降 未だ想定外の事態が継続中であり、父親の側からすれば余りにも突然過ぎる親子の再会だ。お互い感情の整理が付かず、どうにも口が重い。
しかし小さな御主人様にそんな事は分からない。全く気にせず口を開いた。
「村を見て回りたい!」
簡潔な要求。
全身を覆い隠す外套の内側から、輝かんばかりの期待が窺える。
実父を前に視線を泳がせるジョージを見上げて、生気に満ち溢れた橙色の瞳が答えを待った。
字面だけなら子が親に強請るような物言いだが、その実 己の要求が断られるなどとは考えていない。
命を盾にした末に築かれた関係だが、ジョージは奴隷であり、見上げる少年は主である。わざわざ言葉にして訊ねたのは要するに案内の催促だ。この村がジョージの生まれ故郷だとは教えられていないが、竜の谷から人里へ下りて来たばかりの物知らずは人間の事情を完全に無視するほどの分からず屋というわけでもない。人の事情は人が知るもの、供を連れずに己一人で好き勝手に動いて村を騒がすつもりは毛頭無かった。
何よりも、目に見える全てが知らない物ばかりなのだから案内役が居た方が絶対に楽しい。
実に欲求に素直な竜族だった。
「ジョージ、その子は?」
訝しげに訊ねてくる父親に何と説明するべきか。眉根を寄せたジョージを余所に、小さな主の視線がジョージの父親へと向かう。
互いの視線が合わさり、目にした少年の容姿に父親が思わず呼吸を止めた。
――まずい。
その様子を見て、今更ながらに状況が不味いと悟ったジョージが勢いよく少年を担ぎ上げる。
「すまん、親父。後で説明する!」
「じょっ、ジョージ? おい!?」
そのまま背を向けて実家を離れる。
今更だが、ジョージは世間一般に対する現状への言い訳を何も考えていなかった事に気が付いた。
己の主は竜である。しかし同時に、人としての姿がとても美しかった。いや、竜であった時でさえ造形の美醜を論ずるのなら答えは決まっていたのだが、人間社会で問題になるのは人としての容姿だ。
天使のような子供が目の前に現れて、その連れが荒くれ者の代名詞たる冒険者であれば疑念を抱くのは当然の事。
この天使が至極普通の平民の子であるなどと嘘八百の説明をしたところで、誰が信じてくれるのか。王侯貴族の出自だと嘘を付いた方が納得する者が多いかもしれない。あるいは生きた宝石とさえ称される『エルフ』種族ならば有り得るか。
傷一つ無い美しい肌。日の光を受けて煌びやかな色を浮かべる長い髪。名匠の手掛けた彫刻が如く整い過ぎた その容姿。
まだまだ見た目が幼く、見た目と違って性別は男で、口調も品のあるものではない。だがそんな些事を諸共投げ捨ててしまえるだろう、人を惹き付ける美の化身。田舎村の一村長でしか無いジョージの父親も、目にしただけで思わず息を止めてしまう程のもの。
竜に挑み、死に瀕し、生き延びて、奴隷となり、実家に帰省してきた。
時間的に見ても、自身の命に関わる事態の直後だ。しっかりと後先考えた予定を立てる余裕など無い。余裕など無かったが、だからと言って何も言い訳を考えず人前に主の姿を晒した事は間違いなくジョージの失敗だった。
角や尻尾と、人目に晒せば嫌でも目立つだろう主の容姿を隠す事しか考えていなかったのだ、彼は。
「なあ、案内は?」
「……ああ、うん。ちゃんとするから、な?」
「そうか!」
奴隷が主を抱えて走り出す最中。己の扱いに何の不満も見せずに小首を傾げた御主人様を相手に、ジョージは全身の力が抜けていくのを感じた。
外套の中から垂れ下がった竜の尾がグルグルと輪を描くように踊る様子を視界の端で捉えながら、どのような言い訳を用意すれば家族や村人、そして何よりも この小さな主が納得してくれるだろうか、と頭を悩ませて。
彼の胸の内には、これからの奴隷生活への不安ばかりが積み重なっていくのだった。
その夜の事である。
一体何処から攫ってきたのだ! と言わんばかりの勢いで両親に問いただされるジョージの真横で、小さな主はもくもくと粗末な食事を口にしていた。
主としてはどうして己の奴隷がこんなに怒られているのか全く分からない。
しかし人間には色々あるのだろうと胸中にて納得した上で、今は何よりも食事を優先する。
皿に盛られた野菜粥を木匙で掬い、口に運んで丁寧に咀嚼した。
素朴な味である。ひょっとすると自分で調理した熊肉の方が手間隙掛かっているかもしれない。
しかし竜はその事に不満など覚えず、これが人間の手料理というものかと感慨深く味わっていた。
食卓の上では次から次へとジョージの名前が呼び交わされる。
そういえば己の奴隷の名前を聞いていなかった事に、今更ながらに竜も気が付く。
竜は竜であり、人ではなく獣である。故に少年の姿を持つ この生き物に固有の名称など存在しない。
奴隷としての現状に対し甚だ無気力な様子のジョージは己が主の名前を気にする余裕さえ無かったが、仮に聞かれたとしても答えられない。
竜族の常として群れを作らず、生涯ただ一頭のみで完結し、竜の谷と呼ばれる土地で獣のように生きてきた。
あの日ジョージが竜退治に訪れなければ、今も あの谷に住み続けていただろう。
そこに理由などは一切無い。
竜の谷を離れる理由は無く、竜の谷に住み続ける理由も無い。
だから、彼の存在は良い切っ掛けとなった。
己の首を狙って訪れた人間の戦士。視界を飛び交う虫を追い払う程度の認識であしらっていたが、小さな赤ん坊のように泣き喚く様を見て、その言葉を聞く事で気が変わった。
冒険者ジョージ=ベイブ・ミラーの存在は、白竜にとって只の切っ掛けに過ぎない。
竜の谷を離れる理由は無かった、それは今もかつても変わらない。だが泣き叫ぶジョージを前にして、僅かに興味が湧いたのだ。
――そういえば、『人間』とはどのような生き物だっただろうか?
知恵を持ち、言葉を解し、だというのに獣同然の暮らしを営む竜族。
そこに不満は無いが、だからといって特に満足していたわけでもない。わざわざ日常を変化させるだけの理由が無いからこそ惰性で生きてきたが、僅かながらも己の内にて明確な欲求が生まれたのならば それを阻む理由もまた存在しない。
だから死に行く彼を拾い上げた。
だから人の形を真似て谷を出た。
それだけだ。たったそれだけの事でしかない。
そんな他愛の無い、曖昧な欲求だけで己の住処を放棄して人の住まう世界へと足を踏み出し、野の獣らしい拙い感情や好奇心を原動力に、時に一国が滅ぶ程の被害さえ齎す。
それが竜族、生きる災厄。
獣が如く、思う様に振る舞う絶対強者。
「おかわり!」
今も笑顔で食事の催促をする幼い人型。伝説の存在。
ソレがどれほど恐ろしい生き物なのか、真に理解している者は この場に一人として居なかった。