第二十六話 奴隷が喧嘩を売る話
白髪を腰まで伸ばした女が、上機嫌な様子で椅子に腰掛ける。
大柄な白獅子のような彼女が座れば、ただそれだけで客間の椅子が一層小さく、みすぼらしい品に見えてしまう。子爵邸の客間に用意された家具だ、多少なりとも値の張る品だったのだが、生きた英雄を飾る台座としては圧倒的に格が足りていない。
もっとも、それを言うのならば この屋敷そのものが彼女を招くに そぐわない物だったのだが。
久方振りにサロモン領を訪れたニコール・キッドマン屠竜伯は、かつて目にした姿とは比較にならない圧倒的な覇気に満ちていた。
サロモン子爵は、その理由を成長した自身の見方が変わったからだと思った。
相手は国さえ救った真の英雄なのだ。当時 幼い子供だったリック・サロモン子爵令息に対して、むやみやたらと脅かすような、誇りに欠けた振る舞いなどしないだろう。或いは あの頃よりも成長し、父の死を乗り越えて当主の座に就いた自分だからこそ、屠竜伯の発する全身を痺れさせるような強者の気配を察せられるようになったのではないか。――そんな風に考えていた。
「久しいな、リック坊や?」
「はい、閣下。お久しぶりです」
極自然に自身を子供扱いした女を前に、子爵は にこやかに笑って坊や呼ばわりを受け入れた。
屠竜伯の口にしたように、確かに自分は子供である。
当主の座を継いだとはいえ、未だ若輩。
幼少の頃から尊敬し続けている竜殺しの英雄が笑みを浮かべて子供同然の扱いをしたところで、より精進しようと心を新たにするだけだ。
裏表の無い殊勝な態度で真っ直ぐに言葉を返す子爵を目にして、先程まで笑っていたキッドマン屠竜伯の視線が僅かに細く研ぎ澄まされる。
しかしそれだけだ。
気分を害したと言う程でも無い。先程の発言は単なる からかいの類に過ぎず、屠竜伯としては若き子爵に対して二度も三度も冗談を口にしてやる程の興味を持ち合わせていなかった。
顔を合わせた事も過去に僅か二、三度ほど。前当主と直に顔を合わせた際に暇が出来たから気紛れに構ってやった、という程度の関係だ。子供らしい好奇心ゆえに憧憬の視線を向けられていたが、そんなものに価値を認める女ではない。
今回サロモン領を訊ねた用件は別にあり、それは子爵の婚姻を祝うなどという平和的なものではなく。本来の用件も表向きの言い訳も差し置いて、今は何よりも、とある人物の存在が彼女の意識を捕らえて離さなかった。
「まずは婚姻の祝福を、と言いたい所だが」
「父の件、ですね」
「そうだ。先の幸福を望むのならば、まずは身の内に巣食う愁いをこそ払うべきであろう?」
「……はい」
サロモン子爵家、前当主。
西の国から秘密裏に購入した奴隷を多数、地下に繋いで弄んでいたという血生臭い拷問趣味の男。当主交代に際して地下の惨状を目撃した極小数の冒険者にとっては、ただそれだけの人物だった。
しかしリック・サロモン子爵にとっては血の繋がった父親であり、キッドマン屠竜伯にとっては親交のあった友人なのだ。
「何故、父があのような凶行に及んだのか。……分からないのです」
悄然と顔を伏せる子爵に対し、屠竜伯は その視線を窓の外へと向けるだけ。
気を遣われているのだ、と子爵は思った。あえて言葉をかけない事で今以上の苦しみを与えぬように、彼女なりの優しさから沈黙でもって返されているのだ。
――などと子爵は考えていたが、当然の如く見誤っていた。
前当主の存在は、キッドマン屠竜伯にとって己の手駒の一つに過ぎない。
人間に魔物の血肉を注ぎ込み、人工的に魔法使いを作り出す。そのための手駒の一つであり、失敗したところで所詮は他領での出来事、屠竜伯個人に損は無い。
そもそも全てが どうでも良いのだ。成功しようが失敗しようが、全て残らず、暇にあかせた手慰みだ。
魔法使いを作りだそうと思い立った理由も、最初期に原案を持ち込んだサロモン家前当主の言葉に多少の興味が湧いたから。それとて元々は人間の有する罪業の断片、遥か遠き時代より繰り返されてきた禁忌の模倣に過ぎなかった。
魔法を求めて生贄を捧げ、失敗を繰り返しては挫折して。そういった先人達の遺した古い資料を発掘した前当主が血迷ったからこそ始められた人体実験。
もしもそれが叶うのならば、と。屠竜伯も些細な好奇心で手を貸した。
しかし、だ。前当主によって齎された実験の報告資料を取っ掛かりとして、自領であるキッドマン領内で開始したものの方が成果が上がっていた程だ。実験開始の切っ掛けと失敗例の情報蓄積はともかくとして、研究員としては本当に役に立たない男だった、と屠竜伯は思う。
それでも何某か、役に立つ未報告の成果が出ていたかもしれない。有るのならば回収しておこう。
サロモン領内で燃え落ちて滅んだ村に関する部下の報告。実験によって生まれた失敗作達を葬った少年の存在を知った屠竜伯が、有り得ないと考えつつも密かに期待して、珍しく湧いて出てきた やる気に触発されて出向いた結果が此度の訪問なのだ。
彼女が手ずから行なうには役不足以外の何物でも無い、優先度の低い実験資料の回収という雑用仕事。他人に任せても良かったのだが、単純に気紛れで足を運んで此処まで来た。
ついでとして、偶には貴族らしい事でもしてみようかとサロモン家宛の祝いの品を運ばせはしたが、そこで僥倖としか言い様の無い出会いがあった。それこそが何よりも喜ばしい。己の運が上向いているのかもしれない、と年甲斐も無く心が弾む屠竜伯である。
白い衣装の少年。
竜殺しであるならば決して見間違いようの無い、神を模したかの如き幼い美貌、燃える竜眼。
かつて弑した黄金の竜と同じものだ。絶対に見誤る事のない、彼女が真に求めていたものだ。
――そう。本物が居るのならば、もはや贋物に こだわる理由は無い。
若く未熟な子爵は憧れの英雄の内心を察する事も出来ず、人倫を容易く踏み躙った竜殺しの伯爵は己の欲望のみに囚われたまま。噛み合わぬ空気の中、最後まで場が荒れる事も無く貴人二人の対話は終了する。
さながら病に苛まれる子犬のように、白竜アルバスは その小さな体躯を丸めて目を閉じていた。
彼の胸中を占めるものは笑みを刻んだ白髪の女ではない。
同族の気配を察した事で身の内に生まれ、しかし明確に形を得る前に終ぞ叶わず動きを止めた、かの竜にとっては生まれて初めて感じる寂しさという名の感情だ。
竜族は群れを作らない。
至極単純な話であるが、彼等は余りにも身体が大き過ぎるのだ。
複数頭の竜が一箇所に集まれば、ただそれだけで人間の築いた王都一つよりも広い面積を必要とする。小さな人型を為せば広さの問題は解決するが、生まれたままの姿で伸びやかに暮らせぬというのであれば、時間をかけて積もりに積もった不満は獣の心を曇らせていくだろう。果ては闘争か或いは離散か、どちらにせよ良いものではない。
己のために、同族のために、互いの心の平穏と幸福のために。竜族は単体で生きて、やがて死ぬ。
子を生すのにも、共に暮らす必要は無い。竜の生涯は孤独だ。しかしそれでも皆平然と生きてきた。
だからといって、同族の存在に価値を認めないという事もまた有り得ない。
会いたいと思ったのだ。会えると思ったのだ。
しかし捜し求めた先で目にしたのは、己の腹を撫でる人間の女。笑った顔が何を口にしているのか、獣に過ぎない彼にも理解出来てしまった。
懐に抱えた白い大きな帽子を抱き締めて、帽子の布地に顔を埋めたまま吐息を漏らす。
「ぅう――」
金色の髪から覗く竜の角が僅かに長く伸びた。
怒号を上げて暴れ出したくなる感情を押さえ込み、代わりに少年の矮躯を包む白い竜鱗が ざらざらと音を鳴らして外へと向かう。持て余した内心を表すように、広い襟元から蔓のような竜翼が歪な動きで広がっていく。
そっと頭が撫でられた。
あからさまに慣れていない、下手糞な手付き。
ブリス村の村長夫人やクリス・ミラーとは全く異なる、無骨な男の掌が少年の頭をゆっくりと撫でる。
薄く開いた竜の両目が、傍らに腰掛ける奴隷の姿を捉えた。
「奴隷」
竜が名前を呼び掛けたが、頭を撫で続けているジョージは何を答えるべきかと迷った挙句、口を噤んで手だけを動かすに留めた。
言葉が返ってこない事を理解すると、頭を撫でられている竜族はその目元を歪めて薄い唇を震わせる。
呼んでも返事が返ってこないというだけの事なのに、求めた同族の姿が見つからなかった事実と、今の一方的な呼び掛けが意識の内で混同されていく。悲しいのか寂しいのか、名前も付けられずに持て余した感情が白の竜鱗を踊らせて、やがては室内を埋め尽くしていった。
子爵邸から離れた、とある宿屋の一室。
屠竜伯との邂逅の末に茫然自失の体であった小さな主を連れて一室借り受けたが、寝台の上に丸まり動かなくなった竜族を見守るジョージの視界は、既に其処ら中が竜を思わせる角や尻尾、歪な翼で覆われている。
目に見えるものだけを取り上げれば、もはや何が何だか分からない。
密林の一角のように出鱈目な形で生い茂る竜鱗の群れ。それらはジョージを傷つけるようなものではなかったが、もしも誰かに見られてしまえば言い訳に困る事は間違いなかった。
出来るだけ優しく頭を撫でながら、そっと囁くように口を開いた。
「怒っているのか?」
この小さな主が、屠竜伯の存在と言動によって今の状態に陥っている事はジョージにも分かる。
――竜に会いたい、と少年は言ったのだ。
同族を欲した明確な理由は分からない。しかし求めたものが求めた先に無かった事で、今目の前の子供が傷付いている。暴れ出す事も無く、泣き出す事も無く、必死に押し殺しているものは一体何なのだろうか。
「悲しいのか?」
それを知りたいとジョージは思った。
「――寂しいのか?」
投げ掛けた問いの最後に肩を震わせた小さな背中。
まるで幼子が縋りつくように懐へと抱え込んだ白い帽子が、僅かに影から覗いている。
考え過ぎなのかもしれない。獣を相手に情を移し過ぎたのかもしれない。
それでも、泣いている子供にしか見えない小さな主の姿を目の前にして、竜の奴隷はゆっくりと その身を立ち上がらせた。
サロモン子爵邸の中庭。
広さだけはあるが、細かな手入れは不十分。恐らくは先代から引き継いでようやく手を付け始めたのだろう、少しばかり歪な形に剪定された庭木を見るともなく眺めていたキッドマン屠竜伯の視線が上向いた。
「何の用だ、小僧?」
彼女が顔を向けた先には、武装の一つも備えずに仁王立ちした一人の男が立っていた。
顔は知らぬし名前も不明。貴族の邸宅に平然と足を踏み入れているのだから、盗人か或いは家人の誰かかもしれない。後者にしては身形が綺麗とは言えないが、纏う空気は荒事に携わる者だと語る。
睨み付けるという程に強い視線ではなかったが、真っ直ぐに竜殺しを見つめる姿は、まるで格上に喧嘩を売りに来た粗野な冒険者そのものだ。
竜を殺して以降は久しく無かった事ではあるが、屠竜伯にも憶えがある。彼女の場合は売らずとも売られる事ばかり、詳細は忘れたが全戦全勝であった事だけは間違いない。
女の顔が笑みを刻み、全身の筋肉が主の意思に従い膨れ上がる様は まるで外的を迎え撃つ野獣のよう。
竜の白骨を削り出して拵えた耳飾りが小さく揺れて、鼓膜に響いた音に屠竜伯の戦意が掻き立てられる。
貴人を前にして指を突きつけ、吐き捨てるように男が言った。
「お話をしに来ました、とは言わない。――アンタに、喧嘩を売りに来た」
「――っく、ふは!」
まさか。
まさか本当にそんな言葉を口にするとは、大陸中を見渡しても尚 隔絶した強者たる屠竜伯には想像出来なかった。
耐え切れずに息を吹き出せば、ようやく男の視線が戦意を宿したものへと変わる。
あえてゆっくりと、相手を焦らすように身を起こせば、相手の男は余裕ぶった女の振る舞いを鼻で笑った。
「実母に代わり良く躾けてやろう、――小僧」
「引き摺り下ろしてやるぜ、――糞婆」
挑発と挑発。
まさに無法者、まさに無頼漢、まさに冒険者。互いに意識して品の欠けた言葉を投げ合い、拳を握って足を踏み出した。
後の事などどうでも良い。そう言わんばかりの全力で。




