第二十一話 子爵が自慢する話
生い茂る緑を掻き分けて前へと進む。
重なり合った梢の隙間から差し込む日差しは柔らかく暖かで、まるで休日の散歩にでも来ているような心持ちだった。
霧に包まれた谷の景色とは違う緑一色の森に興味がそそられたのか、隣を歩く小さな主も心なしか上機嫌に見える。ジョージもまた、豊かな森の景色には心躍るものを感じていた。
「迷ったかもしれない……っ!」
余りにも深い森の中、どちらの方向に目的の街が存在するかさえ分からない。という点を無視すれば、だが。
滅んだとしか言いようの無い村の惨状を後にして、乗り合い馬車の待機する地点まで舞い戻った二人。
ジョージの帰還を心待ちにしていたらしいロバートの勢いに気圧されながら、簡潔に村の状況を説明した後は交易地へと引き返していく馬車を見送って、そのまま徒歩によるサンゼル行きを決定した。
交易地の代表役への説明はロバートに押し付けた。
面倒事を回避したいロバートからは「絶対に嫌だ」と拒否されたのだが、ジョージは「自分にも冒険者としてやるべき事があるのだ」と在りもしない上位冒険者の秘匿事情を でっち上げて誤魔化した。それでもロバートは渋っていたが、此度の一件、然るべき場所への報告は絶対に必要だ。最終的にペネロープの鶴の一声で その場を脱し、結果としてジョージ達は遭難している。
「これは早まったかも知れないな」
「そうか?」
いつもと変わらない、平然とした態度で言葉を発する小さな主。
森の樹木から千切り取った小さな果実を食べている様子からは、己の顔面を殴り飛ばしたジョージへの隔意など一切見受けられない。
観察力不足から内心を見誤っており、実はハラワタが煮えくり返っている、という可能性もあるのだろうか。仮にそうだったとしても、ジョージにはどうするべきかが分からない。見た目通りの内心であると判断して、自身もまた何時も通りに接するだけ。
だが平然とする主とは違い、奴隷の内心は穏やかではなかった。
目的地の村が燃えたという事で、交易地に引き返した乗合馬車。
ジョージが彼等と共に行かなかった理由は、当然この竜族にある。
お互い以外に誰も存在しない場所ならば、何かが起こっても僅かながらに被害が軽減されると思ったのだ。
今までだって注意力が足りていないと断言出来るほどに、周囲への気遣いの欠けた振る舞いを繰り返してきた。
生きた竜族を人間の共同体に連れ込む事で何が起こるかなど想像も出来ない。それは確かだが、少年が魔物の類かもしれないという想像に至るまでは、ずっと心の何処かで この竜は温和で平和的な、人間に危害を加えたりしない無害な生き物なのだ、とジョージは考えていた。
危機に身を置く冒険者にあるまじき、ぼけた思考かもしれない。
殺されなかった経験と、奴隷呼ばわりしながらも自分を直接的に虐げたりしない態度に押されて、生まれ故郷まで連れ帰ったのだ。
そしてそこで更に母や妹との交流を見せられ、弟の笑顔を引き出した場面で決定的となっていた。
自分の内心など誤魔化し切れるものではない。ジョージの中には、小さな主に対して「この竜は安全である」という意識が在る。
それを楽観だと叱責する己が理性の一部を自覚しつつも、拭いきれない情がジョージを苛んだ。
どちらなのだろうか?
この竜は安全なのか、危険なのか。
獣なのか魔物なのか、或いは見た目通りの子供なのだろうか。
考え続けても答えが出ない。森で迷ったのも結局は考え過ぎが原因なのかもしれなかった。
梢の上を駆け抜ける栗鼠の姿を目で追って、好奇心からか、届かぬ距離に手を伸ばして所在無げに小動物の背を見送る少年を見下ろした。
「アルバス」
何を由来としたかも分からぬ仮の名で呼び掛ければ、白竜は小首を傾げて視線を合わせる。
丁度、二人は森の中の開けた場所に立っていた。
周囲一帯の地面は伸びた雑草で覆われており、僅かに飛び交う昆虫の姿が煩わしかったが、獣や魔物の気配も見えない。
「何だ?」
問い掛ける主には答えず、腰を下ろす。
人間一人の重みで足元の雑草が折れて沈み込み、その様子を見て竜族もまた座り込む。
「――話をしよう」
「はなし?」
もっと早く、こうするべきだったのだ。
今更の話ではあるが、互いに初めて出会った竜の谷、本来ならば あの場所で済ませておくべき事だった。
人には人の論理があり、竜には竜の論理がある。
何も知らぬまま陰から顔色を窺ったところで、相手の事など分かるわけがない。面と向かって言葉を交わし、まずはそれを繰り返して話し合うべきだ。
それでも駄目なら、相手の事を受け入れられなかったら。
その時はもう、覚悟を決めよう。
「俺はお前の事を知ろうと思う。俺の主だという、お前の事を」
怖くとも、恐ろしくとも、己の命を奪われようとも。
いつ爆発するかも分からない化け物を相手に偽りの笑顔で接し続けるよりは ずっと良い。
目の前の存在が化け物呼ばわりしても気後れしない、唾棄すべき魔物の類であったなら――。
「だからお前には、俺の事を知って欲しい。お前の奴隷であるという、俺の事を」
栄誉は無い。名声も生まれ得ない。この世界の誰もが知らない、本当に静かな始まりだったが。
英雄か奴隷か、――ジョージは今から行なわれる対話の結果によって、己の末路を決すると決めていた。
質素な内装の執務室に、一心に踊る筆の音が聞こえていた。
音の発生源は一人の青年。
丁寧に仕立てられた、しかし余り飾り気のない貴人の御服を身に纏う、この執務室の主である。
褪せた銀色の髪に、日に当たる機会が少ないのか白い肌、少なからぬ幼さを残した柔らかな容姿。
未だ二十を数えぬ若き当主、――リック・サロモン子爵。
室内と外とを隔てた扉を叩く音が響き渡り、子爵は向き合っていた机上から視線を上げる。
「開いている。入っても構わないよ」
「失礼します!」
部屋の主の許しを得て入室したのは、活気に満ちた赤毛の女性だ。
子爵より幾らか年上なのだろう容貌だが、年齢からすれば稚気に富んだ立ち居振る舞いは、ともすれば彼女より年下である子爵以上の年少に見えた。
「いらっしゃい、エリザ」
「はいっ、こんにちは、リック様!」
彼女こそがジョージ=ベイブ・ミラーという才能を発掘した冒険者。
そして彼の恋心を無自覚に打ち砕き、今まさに貴族の妻として迎え入れられようとしている魔性の女。遠からずエリザ・サロモンと呼ばれるようになるだろう女性だった。
邪魔者の居ない執務室内で幸せそうに笑みを交わす男女の姿は、子供が手にする絵本の中に描かれていても違和感の見られないだろう、互いを強く想い合う恋人同士の姿に他ならない。
「はい、お茶です。お菓子はちゃんと厨房で貰って来ましたから!」
「あはは……。以前貰ったものは、ねえ?」
まだ二人が出会ったばかりの頃、エリザを通じて有力な冒険者であるジョージとの縁を繋ごうと考えていたリック子爵令息は、蛙の干物を今日のオヤツだと謳って強く薦めてくる彼女と喧嘩をした事があった。
誰かと言い争いをするなど、彼にとって生まれて初めての事だったかもしれない。
食べる食べないと喧嘩をして口汚く罵りさえした女性が、今や自分の婚約者だ。人生とは分からないものだと切に思う。
そしてその一件以降、子爵は蛙が大の苦手であるが、これは完全な余談だった。
「美味しいと思うんですけどねー」
「君の味覚に関しては長く時間をかけて矯正すると決めているんだ、家の料理人共々ね」
当時の思い出を語るなら、「美味くはなかったね!」とだけ子爵は語るだろう。食わず嫌いは良くないが、勇気を出して口にしようとも、不味いものは不味いとしか評価出来ない事もある。
「……その、お仕事の方はどうですか?」
入室して以来ずっと笑顔だったエリザが、彼女らしくもなく気後れした様子で口にする。
お仕事、というのは言葉通りの意味では無い。
後ろ盾どころか家名も持たない、領主に対し税を納めている平民以下と言われても仕方の無い冒険者エリザを子爵家の妻として迎えるに当たり、夫となる子爵には成すべき事が幾つもあった。
それとて子爵という、貴族としては下級に当たる立場である。もっと家格の高い出自であれば、冒険者を正妻として迎えるなどという暴挙は決して叶わなかった筈だ。
生まれて初めての恋を叶えたいというのは子爵の我が儘だ。
未だ口約束程度の段階に過ぎなかったとは言え、婚約予定を破棄したウィンダスト家との付き合いも、切実な利害関係以外は完全に断絶。妹分の幼馴染を挙式に呼ぶ事も出来なくなった。
今後の交流が絶望的となったウィンダスト家との繋がりがある他の貴族家との付き合いも、これからのサロモン家では続けていく事が出来ないだろう。或いは、とも思うが、きっと恐らくは高望み。他と比べて大して豊かとも言えない自領内の未来を考えれば、一つでも多く繋がりを維持しなければならない。
先程までも、エリザが入室するまでは知り合いに宛てた手紙をしたためていたのだ。
「――頑張るさ。大丈夫。もう、決めたからね」
「……はい」
未来の妻に微笑みかける子爵の顔には、これから先に対する不安の欠片も見えない。
貴族の問題に関して大した知識を有さず、日々苦労を重ねている子爵の役に立つ事も出来ないエリザは、自分が原因と言えるサロモン家の現状に対して申し訳なさを感じつつも、夫となる男性を信じて頷くだけだ。
信頼は何よりも重い。
冒険者エリザは沢山の人々に囲まれて生きてきた経験から、他者との繋がりに最も重きを置いている。
だからといって、信じる以外の何もしないわけにもいかない。
子爵の邪魔にならず、しかしせめて何か出来る事が無いだろうか。巡りの良くない頭を回転させる彼女の視線が、机の上の筆を捕らえて動きを止める。
それは、何らかの動物の骨で出来た筆だった。
「ん。ああ、それは貰い物でね」
恋人が愛用の物品に興味を持ったと捉えたのか、嬉しそうな顔の子爵が手を伸ばす。
先端を粘性の墨に浸してから用いる筆の一種。鳥の羽根で作るものが一般的だが、冒険者として色々な方面で目の肥えているエリザには、子爵が手に持つ物は随分と質の良い品に見えた。
「これはね、竜の骨で出来ているんだよ」
「りゅう!?」
竜族。それは地上最強の生物。
何故 此処で その名が出てくるのか。
両目を見開いたエリザの反応に気を良くして、幼い子供が自身の宝物を自慢するように高く掲げる。
「サロモン領の隣に居を構えていらっしゃる、キッドマン屠竜伯を知っているだろう? 子供の頃にね、あの方から直接 頂いたんだ」
竜殺しの英雄が贈る、竜族の骨を削って作り出された世界でただ一本の筆。
当時のリック少年は、子供心に胸が躍ったものだ。
竜の一部を手にする事で、まるで自分が英雄になったかのような気持ちになり、以来ずっと大切に扱ってきた愛用の一品。彼の有する僅かながらの財の内でも、これ以上の物は無い。
「領が隣り合っているからかな。……父と、仲が良かったんだ」
「あっ」
エリザとその相棒が奮闘した、サロモン領における領主交代劇。
西国から大量の奴隷を秘密裏に輸入した挙句、おぞましい拷問などの所業に及んでいた先代を領主の座から追い落とした、一連の事態を思い出す。
「……大丈夫。うん、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように繰り返す子爵の肩を抱いて、顔を曇らせたエリザが子供に対するように その銀髪を撫で上げた。
愛する女性の体温を間近に感じ、徐々に生来の落ち着きを取り戻す子爵を見て、エリザもようやく笑顔を取り戻す。
「式、早く出来ると良いですね」
「そうだね。君の知り合いも、沢山来てくれると嬉しいよ」
乗り越えるべきものは未だ数多く。それでも前を向いて歩き出す一組の男女。
後に自らへ襲い掛かる事件の前兆も捉えられぬまま、今暫らくの間、彼等は幸福な未来を思い描きながら互いに笑顔で語り合っていた。




