第二話 冒険者が泣きだす話
霧に包まれた山の奥深く、切り立った崖の谷間にて輝く白い竜を見つけた。
見上げる視界の全てが その竜一頭のみで埋め尽くされ、互いの有する質量差を数多の逸話に聞くよりも より明確に理解した。
隔絶した質量の差、それは同時に生物としての絶対的な格差である。
上下、優劣、強弱、大小。いずれにしても競い合う事さえ叶わぬ両者の間に横たわる深い溝。見紛いよう無き非常な現実というものを正しく理解して、ただただ赤子のように泣き叫んていた。
竜殺しを望んで足を踏み入れた深山幽谷の霧の中。生まれて初めて目にした伝説の存在。さあ挑もうぞと鞘から抜き放った己の剣。
戦いにさえならなかった。
振りかぶった長剣を竜の鱗に打ち当てる事さえ叶わず、羽虫を払うかのように緩慢な動作で振るわれた前脚の爪先が鎧の胴体部を僅かに擦り、たったそれだけで鍛えに鍛えた大の男が跳ね飛ばされたのだ。
血潮を撒き散らしながら宙を舞い、尖った砂利の上を転がった。
爪の先が軽く触れただけで穴の開いた金属鎧が視界に映り、竜という生き物の強大さを、僅かな片鱗に過ぎずとも己が肉体で味わった。明確な意思の篭らぬ攻撃とさえ呼べぬ爪の一振りで鎧が砕け、その奥に守られていた男の胴体からも赤い生命の色が零れ落ちていく。
呼吸が詰まって視界が歪む。かなりの速度で宙空を跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた痛みで両腕の肩から先が痺れて満足に動かせない。加えて この時の彼は気が付いていなかったが、先の一撃で両手に構えていた長剣も砕かれ遥か後方に その破片を散らしていた。
全身に纏わり付く痛みが辛い。血液の流れ出す音が鼓膜を強く叩く。目の前に立ち塞がる白い化け物が何よりも恐ろしかった。
見下ろす竜の眼前で、脳裏を駆け巡るのは己が生涯の記憶。
巡って、巡って、彼の口を衝いて出たのは至極単純な生物としての本能だ。
死にたくない。
――死にたくない!
ぼろぼろと際限無く零れ落ちる涙に顔を濡らして、大の男が泣き叫んでいた。
無謀なる挑戦者を見下ろしていた白い竜が首をもたげて、男の目の前に顔を寄せる。
「おいっ、村だ! 遂に村が見えたぞ! 起きろ!」
首根っこを掴まれ、夢の中から無理矢理引き摺り上げるように全身を振り回された。
ジョージのものの半分程しかない小さな掌が成人男性としては平均以上の体躯を誇る彼の首を鷲掴み、棒切れでも振り回すかのように己の手元へと強引に引っ張り込む。
「じっ、じにだくないぃいい゛……っ!!」
細い手指に気道を締め上げられたせいで呼吸が止まった。
拙い玩具の如く乱暴に振り回され、人間一人が宙を舞う。しっかりと手で掴まれているが故に逃げ場も無く、幼い主の膝元に着地して ようやくジョージは己の身体の自由を取り戻した。
酷い夢を見ていた気がする。
しかし目覚めた現実は夢よりも尚酷い状況だった。
「ごえっ、おぶえぅええ……っ」
主による暴虐は僅か一秒程度で事が済み、しかし身体の中身を丸ごと掻き混ぜられたかのような不快感が奴隷である彼を襲っていた。
ぼろぼろと涙を流し、嗚咽を零しながら汚れた口元を拭う。
何故こんな目に遭っているのだろうか。自分は何か悪い事をしてしまったのだろうか。次から次へと湧き上がる悲しみから、屈強な戦士である筈の彼は幼子のように泣きじゃくっていた。
「……だ、大丈夫か?」
己の膝の上で唾液と涙と若干の吐瀉物を垂れ流すジョージを見て、今更ながらに自らの所業が拙かった事に気付いたのだろう。煤けた外套で全身を覆い隠した幼い少年が戸惑うように声を掛ける。
うろたえる姿から分かるように、一連の所業には一切の悪意が存在しない。
だからといって笑って許せるものでもない。
しかしジョージは耐えた。何故なら怖いからだ。
「だいじょうぶ、だ。それよりも、……村? もう着いたのか?」
「そうとも! 見ろ!」
軽く取り繕えば、彼の主はすぐさま笑顔を取り戻して視線を戻す。
雪原を駆け回る元気一杯の子犬のような、或いは初めて外界に触れた好奇心旺盛な幼子のような所作。
そんな姿を見ていると調子が狂う。
ジョージにとって この美しい少年は今現在の己の飼い主であり、何時でも己の命を奪い得る恐ろしい存在だ。その筈なのに、主である当人には一切の悪意が無く、また、一切の害意を感じ取れない。
本当にこれがあの恐ろしい化け物なのだろうか。そんな考えさえ浮かんでしまう。
小さく捲り上げられた馬車の幌布、その向こう側には確かに小さな村が見えた。
「あれが人間の村か! ……ん。なんだか、熊よりも臭い気がする?」
この距離でも臭いを嗅ぎ分ける事が出来るのか、主の遠慮の無い物言いに熊肉の味を思い出して頷く。確かにあの熊は臭みが薄かった。竜の住まう谷に生息しているのだ、きっと不思議な力が働いていたのだろう。そうやって適当に納得して、ジョージは顔を馬車の内側へと戻した。
彼等の血肉となった件の熊が生きていた土地、主と奴隷の出会った場所。
白竜の住まう幽谷。
その谷に特別な名称など何も無い。近隣の村人達も竜の谷などと呼んではいたが、ただそれだけで済ませていた程に扱いが軽い。
霧の立ち込める深い谷間、険しい山々。生きるために木材や野草を求める者達とて理由も無いのにわざわざ奥深くへと足を踏み入れる事は無い。霧の奥には獣や魔物など何が居るのか分かったものではないし、生きていく為に必要なものは村の程近くで採取すれば それで済むのだ。
結果として未開の地となっている その場所には、とある一つの噂があった。
――あの谷には竜が住んでいる。
近しい村の者なら誰でも知っているような話。しかし実際に竜族を目にした者が居るわけではなく、村の老人達が両親や祖父母から伝え聞いたという昔話の中で語られているだけの、古い逸話や御伽噺の類だ。
まさか本当に竜が住んでいるだなんて、誰も考えていないのではなかろうか。
そんな話を当てにして竜に挑んだジョージは果たして勇者なのか はたまた只の馬鹿か、彼自身としては今更考えたくもない話であるが。
「挑むだけ挑んで、田舎に帰るつもりだったんだがな……」
誰に聞かせるわけでもなく、口中のみで小さく呟いた。
ジョージとて本気で竜が居ると信じていたわけではない。
我武者羅になって走り出し、持て余した感情を吐き出すための言い訳として『竜殺し』という実現不可能なほど大層な目的は甚だ都合が良く、現実に竜と遭遇して挑んだ行動も本当は勢いのまま突き進んだだけで、その実態は蛮勇以下の考え無しだ。
彼には己が情けない男であるという自覚がある。
しかし結果として、名の売れた冒険者であったジョージ=ベイブ・ミラーは竜の奴隷となってしまった。
伝説に語られる竜族と対峙して尚生き延びた事を喜ぶべきなのだろうか。人ではない化け物に隷属せざるを得ない現状を嘆くべきなのかもしれない。
「なあ、あの村の名前は何と言うのだ?」
「……ああ、」
無邪気に質問を投げ掛けてくる小さな主を視界に映し、次いで視線を徐々に近付く小さな村へと向けた。
挑むだけ挑んで、目標とした竜とも出会えず、消沈して帰る先として定めていた筈の場所。
直接足を踏み入れるのは何年振りの事だろうか。
「特に大仰な名前は無い。『ブリス』と言うんだ、あの村は」
ジョージ=ベイブ・ミラーと呼ばれる男が生まれた、小さな村落。
彼の生まれ故郷が近付いていた。