第一話 熊が美味しい話
――『竜』とは力の象徴である。
山脈を跨ぐ巨大な体躯は咆哮一つで砦を砕き、いかなる名剣名槍を用いようとも その頑強な鱗を貫く事は出来ず。遠い過去に地上の全てを見離し姿を消した神々を除けば、今や竜族こそが最強の生物と称するに相応しい。
人にも並ぶ確かな知性を有しながら、しかし野の獣同然の暮らしを営む竜族達。
獣が如く思う様に振る舞う絶対強者。
その大き過ぎる影響力は、ただ日々を生きるだけで時に一国が滅ぶ程の被害さえ齎す。
竜自身にそのつもりが有ろうと無かろうと、強大過ぎるが故に無視出来ない。
人々にとっては存在そのものが災厄で。
だからこそ そんな化け物を討ち果たした者を『英雄』と呼ぶ。
「しかし現実は甘くないのであった……、ふふっ、ふひっひ」
とある一人の英雄志願者が、箍が外れたかのような気味の悪い声を上げた。
短く刈り上げた金髪に無精髭。簡素な衣服に武装の一つも身に付けていないが鍛えられた体躯。そして彼の目の前には無残にも砕かれた長剣と鞘、胴体部に穴の開いた血塗れの金属鎧一式が転がっていた。
「この全身鎧、買ったばかりだったんだがなあ……」
剣ダコの浮いた分厚く大きな掌で顔を覆って、逞しく精悍な風貌を持つ戦士が一人、幼子のように泣きじゃくる。
「――何を泣いている」
地べたに座り込み、両手で覆った顔を土に擦り付けながらメソメソと泣いている金髪の男性。哀れみどころか気味の悪ささえ感じさせる彼に向け、彼よりも遥か上空から無遠慮な声音が投げ掛けられた。
うぐうっ、と呻きながら嗚咽が止まる。
酷く気後れした顔で震えながら男が見上げた宙空には、異様な光景が広がっていた。
そこに居たのは人間のようなナニカだ。
風に靡く金色の長髪は日の光を浴びて複雑な色を踊らせる。まるで黄金で作られた真珠のよう。
地上に座り込んだ男を見下ろす両瞳は熟れた果実のような赤みがかった橙色。揺らめく炎のようだった。
日に焼けたものか生来のものか、瑞々しい褐色の肌色は艶めいている。ただそれだけで人目を惹くだろう。
とても美しい、生き物だった。
まるで現世にて具象化した天使の如き、翼を持たない美の化身。
ソレが何も存在せぬ虚空を踏みしめ、繊細過ぎる程に細い肩の上には息絶えた熊が一頭、抱えられていた。
「クマ?」
「美味いぞ。少し臭いがな」
噛み締めるように笑みを刻み、階段を一段ずつ下りるかのように足を踏み出すと、やがて金髪の男の目の前に降り立った。
肩の上に担いでいた新鮮な熊の死骸を小さなヌイグルミを放るような気軽さで地面に落とせば、よくよく鍛えられた男の二倍程の大きさの熊が僅かな地鳴りを供にして地面へと着地した。
金髪の男は一度熊を見て、ちらりと横目で天使を見遣った。
小柄な、本当に小柄な体躯だ。細い手足で背も低く、男の片手で掴んで放り投げる事が出来そうなくらいに幼い体つき。だというのに、大小の差など知らぬとばかりに容易く為された一連の行動。
何よりも、平然と虚空を歩くような存在が見た目通りの生物である筈も無い。
もう一度だけ掌で己の顔を覆うと、深く、臓腑を吐き出すような重みをもって男が呟いた。
「――『竜』とは力の象徴である、か」
嘆くように。悔いるように。何か大切なものを諦めるかのような声音で。
只の人間が、一人ぼっちで笑っていた。
ジョージ=ベイブ・ミラーは冒険者である。
短く刈り上げた金の頭髪と精悍な顔立ち。
若く才能に溢れ、その実力と為した実績から相応に名の売れた戦士だった。
国中に名が轟く程ではなくとも、間違いなく強者の部類。活動する拠点近辺にて彼の名を知らない者は物知らずである、と言われる程度の存在ではあった。
――そう、過去形だ。それは過去の話だった。
しかし詳細は省く。
ジョージには若者らしい野心があった。力ある者としての矜持があった。己一人では堪えられぬ激情がそこにあった。
たった一人で奮い立った彼が幽谷に生息する竜を討とうと無謀な決意を固めた時、周囲には彼を止めてくれる何者も存在せず。
若く才能に溢れ、その実力と為した実績から相応に名の売れていた戦士は、冒険者ジョージ=ベイブ・ミラーは、――当然のように敗北した。
竜とは力の象徴である。
彼等竜族に道理を越えた生体機能が備わっているわけではない。古き神々の如き文字通りの奇跡を引き起こす、何らかの特殊な能力が肉体に付随しているという事は無いのだ。
単純に大きい。山々を跨ぐ大きな身体はただ歩くだけで人間の築いた村や街を踏み躙り、滅ぼしてしまう。
そして強い。肉体の大きさに比例して、竜族は力が強く、爪の一振り、尾の震えだけで地形を変える。
それだけだ。
竜とは神話の内にて息づくような火を吹く怪物ではなく、翼をもって空を舞う、巨大過ぎるだけの賢き獣なのだ。
その筈、だったのだ。
少なくとも、ジョージという名の戦士の知る限りでは。
「……美味いな」
「ふふっ、そうだろう!」
思わず零れたジョージの呟きに、幼い天使が酷く嬉しそうな笑みを浮かべた。
簡易的に調理された熊肉を口に運び、咀嚼する。僅かな肉の生臭さは気にならなかった。かつて彼が口にしたものよりずっと口当たりが良い。少し前まで死に瀕していた男の身体は、腹の底に落ちてきた新鮮な肉の味に歓喜の声を上げている。
焚き火に向かって上機嫌で枝を通した熊肉を並べる小さな人型。
その美しい金色の髪の上部を、見た。
角が生えている。
二本で一対の、成人男性であるジョージの人差し指ほどの長さの真っ白な太い角が。
更に視線が幼い肢体へと移る。
肉体の節々、首や胸元、股間から背中まで。命に関わる大切な急所を守る鎧のように、頭に生えた角と同色の、竜の鱗のような硬質の輝きが浅黒い肌を這い回るように包んでいた。
極めつけは臀部の辺りから伸びた尻尾だ。
蜥蜴等の爬虫類に似た、しかしそれより鋭角的な白色の尾。
竜の尾。
改めて相手の異常を確認したジョージは、己の視界を閉ざして熊肉を噛み締める事に注力する。
考えた所で仕方が無い。現状への不理解を嘆く余裕も無い。
竜族に関する資料など、生きた災害に直面した人間達の僅かな生き残りによる被害報告や、伝聞によって集められた眉唾ネタばかり。竜を打ち倒し英雄となった人間の伝説は、余りにも煌びやか過ぎて信用ならなかった。民衆に聞かせる目的で誂えた吟遊詩人の嘘っぱちと言っても過言ではなかろう。
そんな僅かな情報と真偽定かでない御伽噺を頼りに竜退治へ赴いた冒険者の言える事ではないのだが。
「……それで、俺は何をすれば良いんだ、『御主人様』」
ジョージの呼び掛けに熊肉を齧っていた天使がもごもごと頷く。
小さな唇を濡らす脂を舌で舐め取り、その舌の躍る動きに僅かながら視線を惹き寄せられながら言葉を待った。
あれは男なのだ。オスの竜なのだ、と胸中にて繰り返すジョージの想いに全く気付かず、頭に真っ白な角を生やした天使のように美しい少年は口を開く。
「オレは人間の街が見てみたいのだ。しっかりと案内しろよ、――お前は、オレの『奴隷』なのだからなっ!」
不純物など欠片も見えない真っ直ぐな笑顔。己の口にした言葉が誇らしいとでも言いたげな笑み。
上機嫌で己の胸板を拳で叩く小さな人型。
果たして目の前の竜族は何がそんなに嬉しいのか。
竜と対峙して尚生き延びた代償として己の身柄を売り渡した一人の戦士は、小さな主に頭を垂れて その命令を受け入れた。
冒険者ジョージ=ベイブ・ミラーは竜に仕える奴隷である。
英雄では、ない。